メッセンジャー —死後のあなたにやりがいを★スタッフ随時募集中—
夏原秋
第1話「えくぼの女神」美しい妻が自慢だった男。死後に発覚する残酷な事実。
末期癌だった。
妻に看取られて私は逝った。
最期はずいぶん世話をかけた。妻は献身的で、慈愛の心をもって見送ってくれた。
私は人事部長だった。社内のあらゆる組織・仕事内容・人員を知り尽くす情報網。そしてどんな罵声や懇願の叫びを浴びても決定を曲げない鋼のメンタル。我が社歴代どの人事部よりもブレのない仕事ぶりが、自慢だった。誇らしかった。それが私の生き甲斐だった。
病気に打ち勝つことは叶わなかった。健康診断よりも仕事を優先した結果、病巣の発見が遅れてしまった。
私は今、病室を眺めて咽び泣いている。妻が、絶命した私の手を握ったまま、肩を震わせている。美しい話ではないだろうか? 長年連れ添った夫婦の別れの場面だ。私はすでに幽霊なのだろう。妻にも、医師にも、看護師にも気付かれないままで、部屋の隅で嗚咽を漏らしていた。闘病のためにすっかり痩せ細り、ついに力尽きた私自身を、皆と一緒になって眺めている。
ふと、部屋の向かい側にも、影があることに気が付いた。私以外にも、このドラマを傍観している幽霊……? がいるではないか。なんだあいつは! 人のプライベートに踏み込みやがって。
私は怒りのあまり、雰囲気を壊す声を上げた。
「おい」
相手の男はハッとした様子で顔を上げた。
確かに妻は美人だが、だからといって、夫の目の前で見惚れるヤツがあるだろうか。
古びたグレーのマントはフード付きで、男はそれを目深にかぶっている。
……馬鹿野郎だな。
私は男の服装を鼻で笑った。そんな格好をしていいのは中学二年生だけだ。この、ゲームとライトノベルオタクが。
「貴様、何奴」
私は相手が喜びそうなセリフを吐いた。
「はっ。失礼致しました。私としたことが、新人さんの見守り任務を忘れてしまうなど……」
私の耳がぴくりと動いたのは、見た目に反して存外丁寧であったのと、聞き捨てならない「新人」という言葉のせいだった。
自分より一回り以上年若いであろう、そんな相手からそういう呼び方をされて、納得できるわけがない。私は深いため息をついた。
「君は、私の、なんだというのだ? 『新人』呼ばわりする理由。どうか、説明していただきたいものだ」
相手にちょっと圧をかけた。男は動じることなく、淡々と答えた。
「『この世に未練のある死者』。それがあなたです。そんなあなたが未練を解消して成仏するのを手助けする。それが私です。あなたは今し方亡くなったばかりだ。だから便宜上、『新人さん』と、表現したまでです」
「未練、ねえ。そんなもの、私には無いのだが……」
私はフンと鼻を鳴らした。
「そうおっしゃる方も少なくありません。ご本人が気付かない場合もありますので」
男は淡々と話し続ける。
「気付かない?」
「そうです。その時が来れば腑に落ちるようですね。ああ、私の未練はこれだったのか、と。私自身、未だに自分の未練が分からずに、こうして残ってしまっているわけですから」
「いつわかるんだ?」
「『声』です」
「『声』?」
「私たち死者はもう姿が見えない。ただし、たった一度だけ、強い想いが、生きる者に『声』を届ける。その瞬間に、私たちはこの世から消えます」
「ふうん……」
肩を震わせて泣き続ける妻を眺めた。
私が声を掛けるとしたら相手はこの、妻だろう。
ありがとう。
お疲れ様。
さようなら。
どんな言葉を掛けたらよいのか、わからない。
強い想い。か。
二年におよぶ闘病生活で精魂尽き果てたのだろう。それはどこかに置いてきてしまったようで、私の言葉は迷子であった。
死んだ私の四十九日が過ぎた頃から、妻の様子ががらりと変わった。とても、機嫌が良い。それは、顔色をも変えるほどに。毎朝ウキウキと起床する様子がわかるし、外に出かける回数も明らかに増えた。食料品や日用品の買い出しだけではない。デパートや、ショッピングモールへ行って洋服を買い、美容院で髪型をすっかり変えた。それからとある日は、市役所へ向かった。
私が死亡してから二週間程度は、様々な手続きの関係で頻繁に通っていたが、必要な書類などは整ったようで、しばらく役所関係へ出向くことは無くなっていたように思うのだが。
私は妻の肩越しに、その手元にある書類を覗き込んだ
「姻族関係終了届」
妻は起床時と同じ上機嫌のままで、書類を記入して提出した。市役所を出て行く時には、鼻歌さえも聞こえてきた。「さよなら」。そのメロディーのタイトルだ。私は歌詞の内容を思い出す。「これからもう金輪際、あなたに会うことは無いでしょう」。確か、一方的に別れを告げる内容だったと思う。足元から血の気がひいていくような心地がした。
妻はそれから帰宅するとシャワーを浴びて一旦化粧を落とした。夕刻になると再び念入りに見てくれを整えて、繁華街へ向かった。
まるで別人であった。街ゆく男が振り返る。
そうだ。妻は美しい。知っているよ、それくらい。色白で丸い頬は、微かに赤みが差していて若々しい。真っ黒な瞳はつぶらだが、潤む白目は曇りも染みもなく、瑞々しい。くっきりとした二重まぶたはわざとらしく見開くことなく、しっとりと伏目がちだ。影を落とす長い睫毛が艶っぽい。
しかし、夫は、私だ。頼むから、そんな姿を私以外に、見せびらかすなよ。
……いいや? 私はもう死んだのだった。もう、夫ではない。それに、昼間に見たではないか。もう、金輪際、私の姓と決別したいという意志を表した書類を。それを、嬉々として役所に提出する姿を。
路地にある、こじんまりとしたレストランの中に入る。
男が妻を待っていた。
私はごく自然に相手の品定めをする。
妻より明らかに若い。ただ、それだけが取り柄、そんな印象だった。目つきはぎらついているし、口元が歪んだ笑顔。
妻は、柔らかく笑っていた。可憐だった。純粋な恋をする乙女のようだった。口の左側に浮かんだえくぼが愛嬌を醸す。顔の横で、緩やかにウェーブした漆黒の髪が、楽しげに揺れていた。
「声を掛けてもいいんですよ」
上司が私にアドバイスしてきた。少しだけ、憐れみのようなものを感じなくもない。
「今? 一度きりのチャンスが今だと思うか?」
「もちろん、それを決めるのはあなたなので」
妻と男は食事を終えると迷うことなく、派手なネオンの看板を掲げた雑居ビルが建ち並ぶ通りに向かった。そして一軒のホテルの中へ吸い込まれていく。
部屋に入った途端、壁に押し付けられ、半開きの唇をむさぼられる妻は、そのままひどく乱れていった。そしてあられも無い姿ではしたなく、男に何度も抱かれた。
男は己の欲望を満たすことだけを目的にして瞳に焦りを滲ませていた。その攻撃的で乱暴な所作に、妻は恐がり、怯みながらも、ひとたび繋がってしまえば喉から絞り出される声は、悦びに満ちていた。
私は嗚咽を漏らした。
こんな仕打ちはあんまりじゃないか。見たくもないものを見せつけられて。私との婚姻関係は私が死んだという書類の受理がなされた時点で終わったことは理解している。しかし、畳み掛けるようにして、妻はこの日、別の書類も抜かりなく提出することで、私という人間との一切の関わりを断ち切った。それもまさか、こんな男のために。
情事の後で、男女は将来についての会話を交わした。
「私はもう独りだから」
「わかっているさ。いつでもいいってことだろう」
「そうよ。ちゃんと、考えてよね」
「はいはい」
ふつうに考えて、妻は騙されている。
それをどうやって、伝えればよいのだろう?
たった今、悲しみと絶望の勢いに任せて一言を発したところで、妻の心を変えることは出来ないだろう。
私は重い頭で考えた。
「難しいんだな。最後の一言って」
私は疲れ切った顔で言った。隣で佇む上司が、口を開く。
「そうですね。目的も、その人次第です。本当にただ、ただ、お礼だけを言うのもよし。命の危機を救うのもよし。いろいろと、検討してみてください。案外最も多いのが『バカ』という一言でして。バリエーションが多彩なのですよ。『バカ』『バーカ』『バカッ』『馬鹿野郎!』などなど、皆さん大変スッキリした顔で旅立たれるので、おすすめできます」
私はずっと、妻に着いて回った。見たくもないのに。最期の一言を、見つけたかったからだ。
しかし妻はあの男との逢瀬を繰り返していた。もはや、私が知っていた清楚な妻とは別人だった。ふしだらな女だと、軽蔑した。
ある日、妻が、かかってきた電話に出た途端、顔色を変えた。
「待って、今、どこにいるの? すぐに行くから。どれくらい必要なの?」
バカだ。この女は。
そして、現在の私の上司が言うように、「バカ」と大声で怒鳴りつけたい衝動に駆られた。
こんな予想が当たってもちっとも嬉しくなかった。しかし、素直な妻はまっすぐ銀行へ向かう。冷静な顔で万札を引き出して、男との待ち合わせ場所にやってきた。
男は妻の顔を見るやいなやメソメソと泣き出した。
胸糞悪い。
男に向かって「死ね」と言いたい衝動に駆られる。
妻が封筒をバッグから取り出した途端、目つきを鋭くしてひったくるようにしてそれを受け取った。
妻は何かを疑うこともなく、男の背中を撫でてやる。
あまり興味が無いため詳しい話は聞いていないが、ブラックな組織との手切れ金として金銭を要求されている、というような内容だった。
「警察に行こう。私が、着いていくから」
「いや……。警察に行ったのがバレた時が怖くてそれは出来ない」
現実的な提案をする妻に対して、男は曖昧に答えた。妻が食い下がると、甘えてごまかす。妻はまんざらでもない顔で、絆されていた。
こいつら馬鹿だ。
私は心の底から呆れていた。
愚かな妻は、私から相続した金をなんのためらいもなく男に貢いだ。ああだ、こうだと理由をつけては、男が妻に金を無心する。
しかし妻は果たして本当に愚かなのだろうか? 私から見ても、おそらく他の誰から見ても褒められたものではない。しかし当の本人は、楽しそうですらある。それが不思議で仕方がない私は、どうしたら良いのかがわからずに、なりゆきをただただ、傍観し続けた。
そんな日々が半年ほど続き、貯蓄が目減りしたのだろう。妻の心の拠り所であったあの男は、突然姿を消した。元より、彼の居住地は知らされていなかった様子で、何度かけても出ない電話に、妻は失望した様子であった。盲目的に愛欲に溺れた妻は、見事なまでに裏切られた。
私が、生きて、健康でいられれば。
……それで、よかったのか?
発覚した当初こそ、妻の裏切りに、怒りと悲しみで気が狂いそうだった。もちろん今でも妻を許すつもりは無い。しかしだ。どうも、この半年間の妻を見ているうちに、私は考えを改めていた。伴侶として、専業主婦として、仕事人間である私を支えていた頃の妻は、どこかなにかを諦めてしまったような空気があった。今だからわかるというのも情け無い話だ。生前気付いていれば、こんな見世物を見ずに済んだかもしれないのに。
どこかの馬の骨に絆されている時の妻は間違いなく美しく魅力的であったし、茫然自失の今ですら、私の看病をこなしていたときの無感情なあの頃よりも、生き生きとして感じられる。
妻にとっては、私が死んで、よかったのだ。
それが、私がたどり着いた結論だ。彼女にとって、死んだ私の「声」に、意味など無い。ただ私が、成仏するだけだ。……私が「声」を届けるべき相手は、この女では無い。
女はフラフラと、ベランダに出た。素足だった。憔悴していた。
女の、元々は私たち夫婦の、住まいは借り上げ社宅の十五階だ。
未練がましいな、さっさと出て行けば良いものを、と思ってはいたが、ようやく今この時、出ていくわけだな? 形はどうであれ。
ベランダの柵がきしっと鳴った。
手すりに引っ掛けた足の裏は砂まみれで、汚らしい。
頭のてっぺんからつま先もとい、心の中まで穢れている女を、私は無表情で、眺めていた。
私の上司は、私の横で、何度か私の方を見る素振りを見せた。それから小さなため息をついて、口を開いた。
「あの時の奥さんね、笑ってましたよ」
なんの話だろう。ベランダは生ぬるい風が吹いている。
「病室で。あなたの亡骸を眺めて、肩を震わせて、笑っていました。口元には、可愛いえくぼが」
私は上司の話に思わず顔を向けた。
泣いていたのかと思っていた。てっきり、死んだばかりの私を前にして、悲しみに沈んでいたものと、思い込んでいた。
「私がそれを聞いて、この女のためになにかすると思うのかね?」
私の言うことは、もっともではないか?
火に油だ。
これ以上下がることがないと思っていた彼女への好感度は、今や底辺だ。
「いや、ただ、私は今から奥さんを助けますが、お別れする前に伝えておきたいと思いまして。奥さんを助けるのは、あなたのためです。地縛霊まで落ちると、キツイらしいですから」
「そんなものに、私はならない」
私は口を真一文字に結んで、抵抗した。
誰が、あんな、アバズレなんかのために落ちぶれるか。
見ていろよ。この、あの世とこの世の狭間みたいなセカイで成り上がってやるからな。
……まあ、見てもらえないのが、悔しいけれど。私は死んだ。声しか聞いてもらえない。それも、たった一度の、一言きり。
私の上司は女の耳元に唇を寄せた。そして、口を開いた。
「奥さん、やめてください」
女は、男の声を聞いて振り返った。
それから手すりに掛けていた脚を、下ろした。ベランダの地べたに座り込み、全身をガタガタと震わせていた。
「未練など、ない。こんな女に掛ける言葉などない。勝手に生きてくれ」
私はぶつぶつと、呪詛のように、女に聞こえない声を垂れ流した。私は女を、蔑んだ目線で見下ろし、ついに声を掛けることはなかった。
「声」を発した上司はすでに忽然と消えていた。
さよなら。
こんな女のために、たった一度きりの魔法を使ってしまうなんて。
……。
はて。
彼には声を聞かせたい相手はいなかったのか? または、いなくなってしまったか。
それとも、わたしと同じように……事情が? あるいはこの「仕事」に疲れてしまったのかもしれない。一体何年の間、携わっていたのかは知らないが。こんなドロドロ案件ばかりではさぞ、大変だったろう。
彼にも話を、聞いてみればよかったな。
いい、上司だったよ。
私は決意した。この世とあの世のはざまの声として、人間たちの魂のために働くことを。個人の未練を少しでも断ち切って、現世の澱みを淡くする。無になる前のひと仕事だ。未だ生きている人間たちのために。必要とされるならば。よろこんで奉仕しよう。
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