野良猫の作品
マスケッター
第一話 発見
凡庸は凡庸なりに最善をつくす。
岡田は、数年前に新卒として『怪奇ジャーナル』に就職したことをなんら後悔していなかった。
『怪奇ジャーナル』はいつ倒産してもおかしくない零細出版社だった。屋号どおりのキワモノ記事ばかり発表している。その大半は動画配信で、リポーターが水着の若い女性だから再生回数が稼げているという体たらく。
それでも後悔していない。
岡田自身は、とりたててめだったところのない男性である。しかし、なりふりかまわずあらゆる怪奇を世に伝え残そうとする会社の方針には共感していた。
ネットでは、『怪奇ジャーナル』について熱心なファンもいれば悪意をむきだしにする連中もいる。後者の情熱たるや、語彙力一つとっても群をぬいている。直近だと、水着美人に頼るしか能のない二文出版社……三文にすらいたらない……がなかなかのできばえだ。それらすべてを、彼は勲章とすら考えていた。
いま、岡田はスマホの動画モードで壁を撮影している。壁、とは海をまたぐようにして作られた橋……
もともと、枝利菜大橋は半世紀前に完成した当初から自殺者がたえなかった。本来は海峡を渡るための橋だが、海面との落差は最大約五十メートルに達する。当時のマスコミが騒いだせいで、転落防止フェンスが添えられた。自殺はそれで収まった。
そんないきさつがあったのも風化していき、ほとんど忘れさられた現在。
枝利菜大橋の真下で目撃されたのを最後に、行方不明になった男子高校生がいた。もっとも、いなくなったのは半年前だ。警察は徹底的に捜索した。マスコミも、当人の学園生活から家庭環境まで一週間ほど報道し新たな情報を募った。いずれも成果は虚しかった。一ヶ月もすれば、大半の人々から忘れられた。
岡田もまた、たまたま自宅の近所にこの橋があるというだけで事件を覚えていただけだった。それが、数日前の発見で夢想だにしなかったほど深くかかわるようになってしまった。
といっても劇的なきっかけがあったのではない。
自分で公用車を運転して、別件の取材をすませてから帰ってきたおりだった。休憩したくなり、橋桁のしたにある駐車スペースに車をとめたら偶然見つけた。
『線』を。
彼はいま、発見した時と同じように公用車を駐車スペースにとめている。そして、橋桁の壁に刻まれた線を様々な角度からねんいりにスマホへ収録していた。
そもそも、線が為しているのは一筆描きで記された等身大の絵だ。線そのものは、幅が五ミリくらいしかない。橋桁のコンクリートが
絵は、具体的には等身大の人間だった。正確には、たっている人間の輪郭を頭から足の爪先までなぞったものだ。顔や衣服などの描写はない。いうなら、影の縁だけが刻まれた格好だ。特別なポーズはとっておらず、気をつけに近い姿勢でたっている。
日陰だし、秋が深まるにつれ猛暑が収まってきたのがありがたい。
あらかた終わった直後。
スマホをポケットにしまった岡田の前に、一匹の野良猫がのそのそ歩いてきた。キジトラの毛なみは荒れ放題なうえに、目やにがひどくくしゃみもしている。野良猫の寿命はせいぜい五、六年という。子猫でないのは明らかだし、どのみちもう長くはないだろう。
それはそれとして、野良猫にはなにがしかの同情を岡田は抱いた。助けるつもりはないが、数十秒くらいは注目した。
野良猫は、さっきまで岡田が撮影していた一筆描きに対面した。それから左にずれて、壁に両前足でもたれかけた。
爪でも研ぐのかと思いきや……。いきなり背のびした野良猫は、最初からある線画の隣に別なそれを加え始めた。ただ爪で壁を刻んだのではない。明らかに、あおむけになった人間を真横から捉えた視点だ。しかも、等身大の。
身体つきからすれば、野良猫が描いたのは大人の男性らしい。ならば、彼が撮影した線画もこの野良猫が……!?
岡田は、仰天している自分の精神を把握するのに数秒をかけねばならなかった。
創作を終えた野良猫は、くしゃみを一つすると岡田をまっすぐ見あげた。日陰だというのに、野良猫からははっきりと影がのびていた。新旧あわせて二つの線画に影はかかり、尻尾ははっきりと二股に裂けていた。それでいて、目の前の野良猫の尻尾は特に裂けてなどいない。
二股……野良猫に、岡田は心の中でそう名づけた。このうえなく安直だが、同時にまちがえようがない。
二股は、岡田の前をのそのそとおりすぎた。五、六歩へだたったところでぴたっととまり、首だけ曲げて岡田をじっと見た。
猫は、視線をはずさない相手を敵とみなす……うろおぼえの知識を記憶からひっぱりだして、岡田は目をそらした。すると、自然に二つの線画を眺めることになった。
最初からあった方のそれに、何故か自分の影が重なっている。首の部分に、二股の尻尾の影が巻きついた。ように見えた。
むろん、窒息するはずがない。だが、岡田はせっかくはずした視線を二股にもどした。目があうと、二股はもう一歩踏みこんだ。
確信のないまま、岡田は二股に近づいた。二股は、岡田が近づくのに応じて一定の距離を保ちながら歩きだした。
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