第三話

 あれから一週間、彼女は屋上に来なかった。理由は分からない。特に詮索するつもりもなかった。でも、本当は気になって声をかけたかったが、人目を気にして話しかける勇気なんてなかった。

 彼女との距離は思っていたよりも随分遠いのかもしれない。よくよく考えればそうだ。ぼくは未だに彼女のことを藤島さんと呼ぶし、こうして自分に語りかけている心の中では彼女と呼んでいて、名前ではほとんど読んでいない。自分の想像の中だけでも、ぼくは一度たりとて、彼女のことを紗華と名前で呼ぶことはない。自分が名前で呼ぶのを、どうしても想像できないのだ。今思えば、自分のほうから、彼女と距離をとっているのかもしれない。

 そんなこんな、いろいろ考えて、ぼくは嫌われたと不安になりながらも、彼女から借りた本をしっかり読んでいた。

 だが、ぼくがちょうど借りていた本を読み終わった次の日、屋上に行くとそこには彼女の姿が。彼女はいつものように、薄らと笑みを浮かべる。

「何だか久しぶりだね」

「そうだね。久しぶり」

 彼女の言葉を聞いて、長い間話していなかったような気がした。本当は一週間ぶりぐらいなのだが。

「あの……その……どうだった……」

 彼女の表情は変わらないものの、上手く言葉を発していなかったため、最初はピンと来なかった。だがそれが、貸してた本と自作の小説の原稿についてだと分かり、慌てて鞄から取り出す。

「あっそうだ。返さないと」

 ぼくは借りてた本と原稿を渡すと、彼女は鞄にすぐしまった。

「読んでみて、良かったよ」

 ぼくは彼女にそう言ったが、彼女は黙ったままだ。

「でも、正直なところ、『百年の孤独』はちょっと分からなかったな。一度読んだだけじゃ。って言うより、一生かかっても分からないぐらい、自分にとっては、かなり難し過ぎた」

 彼女はぼくの目を見ている。それも無表情で。まだ、黙ったままだ。

「ただ、読み終わって、藤島さんが言うように、不思議な感覚にはなった。何て言ったらいいのか、正直分からないほどに」

 彼女はまだ黙っている。それはまるで『百年の孤独』に登場するブエンディア一族の祖が殺した男のごとく、亡霊のようだ。

「確かに名作と言われるだけのことはあると思う。こんなおれが言うには、あまりにおごましいのかもしれないけど。でも、おれは藤島さんの書いた小説のほうが好きだな。正直なところ」

 まだ彼女は口を開かない。ぼくの心臓の鼓動は最高潮に達する。

「文章も分かりやすかったので、読みやすかった。でも、ただそれだけじゃなく、何て言ったらいいのか……あっそうそう、同調圧力って言えばいいのかな。何かみんなと少し違えばおかしな目で見られる。そんな社会に息苦しさを感じる。その気持ち、とても良く分かるんだ」

 まだ黙ったままだ。薄っぺらいことを言ってるように、彼女は感じているのだろうか。ぼくの心は今にも張り裂けそうだ。

「藤島さんが書いたこの小説、読んでて思ったけど、この小説の主人公とおれ、よく似てるなって思う。まあ、似てると言うよりも、もしかしたら、おれが読んでて、この主人公と自分を重ねたのかもしれない。おれたちはよく似てる、と思う。それはまるで、『百年の孤独』に登場する豚の尻尾がついた奇形児のように」

 ぼくがそう言い終わると、彼女の顔に笑みが戻った。

「上手いこと言うんだね」

 それはまるで嘲笑的な笑みに見えた。ぼくは途端に自分の顔が赤くなったように感じた。

「気に入ってもらえたなら良かった」

 ぼくは彼女の言葉を聞いて、ほっとした。

「最初は薄っぺらいことを言ってるなって思ったけど」

 彼女のその言葉に、心臓に刃物が刺さったかのように感じる。

「でも、わたしが書いたあれに関して、意図していたことがちゃんと伝わったのであれば、それは良かった」

「ごめん。あまり上手い感想言えなくて。おれ、馬鹿だから、上手く読み解けないんだ」

「わたしの書いた小説が上手く読めないのは別にして、『百年の孤独』は一度読んだぐらいでは、全く分からないと思うよ。ああいったものは、何度も読み返すの。読み返す度に、新たな発見が生まれる。でも、発見の中には、新たな謎も含まれる。だから多分、作者以外、本当のところ、読み解ける人は誰もいないんだろうなって思うの。もしかしたら、書いた本人も分かっていないのかも。だからこそ、また読んでしまう。そんな不思議な魔法の書」

「その通りなんだろうね」

「うん、だからこそ、表現することに魅せられ、表現することをやめられない」

 今の言葉を聞いて、彼女の持つ雰囲気、彼女の周りとの接し方全てが、彼女なりの表現方法のように感じた。今こうして接している、ぼく自身に対しても。

「寺山君は、小説、書いてみたいと思ったことはないの?」

「書いてみたいと思ったことは一度もないよ。だって、何を書いたらいいのか、何を書きたいのか、全く分からないのだから」

 これは本当だ。文章に関して言えば、人並みには書けるのだろうが、自分の意思でこれを書こうと思ったことは一度もない。レポートに関しても、ほとんどコピペみたいなものだ。

「そのうち、書いてみたら。書きたいものが見つかった時に」

「そうだね……」

「それに、わたしだけ見せるのは、何だか不公平な感じがするし」

 彼女はそう言うと、微笑みながらもどこか意地悪そうな視線を、ぼくにぶつけてくる。ぼくは何とか話題を変えようと、思いついた言葉を口にする。

「こう何度も一緒に屋上に来てるけど、おれたち以外に、人、誰も来ないね」

 ぼくの言葉に彼女はフェンス越しに下を見下ろす。

「……死に近い場所だから……」

 彼女の言葉にぼくは絶句する。

「ほら、学校の屋上から飛び降り自殺なんて、よく聞く話でしょ。ここ最近も増えてるようだし」

 彼女がどこか儚げに感じる、その理由がようやくはっきりした。彼女からは死の香りがするのだ。

「若い人は特にね。だから、興味本位のある人は別にして、出来ればみんな近づきたくないんだと思う。ここに来る人は死に近い人だけなのかも」

「じゃあ、おれも藤島さんも、死に近いってこと?」

 正直笑えなかったが、ぼくは笑みを浮かべながら訊いた。

「どうだろう。ねえ、寺山君はどう思う?」

 と、彼女は逆に訊いてきた。この時の彼女は、薄っすら微笑んではいるものの、この世のものには、どこか思えなかった。

「わたし、不思議に思うの。何でみんな、虚空を歩こうとするのかって」

 虚空を歩く。つまり、自殺のことを言ってるのか。

「何もない場所なのに。みんな、そこに向かって、旅立とうとする。死んでしまえば、思い出も全て失うのにね」

 彼女の言葉は意味深なものが多いが、それにしては随分違和感を覚える。

「嫌なことから逃げ出して、全て忘れたいからだよ」

「じゃあ、わたしたちも、嫌なことから逃げ出して、全てを忘れたいのかな?」

 彼女の問いかけ。それはまさに、ぼくがぼく自身に問いかけているように聞こえた。

「嫌なことは当然誰にもあるから、全て忘れたい、って思うことはあるんじゃないの」

 ぼくは正論を言った。でも、何かから目を逸らし、逃げ出したかのように感じる。不意にフェンスから下を見下ろすと、この学校の生徒が頭から血を流して倒れている姿を想像する。

「そうなんだろうね……だから……わたしたちも気をつけないと」

 彼女の言葉はぼくの胸に重くのしかかる。

「ねえ、死後のセカイって、寺山君は信じる?」

「信じたいような、信じたくないような」

 重い話から急にオカルトやらホラー的な話題に変わり、心が追いつかない。

「わたしって、死後のセカイを信じたいと思ってるくせに、本能的には何も信じていないの」

 彼女はそう言うと、フェンス越しから下を見下ろす。

「どうせなら、一度死んで、別のセカイに旅立とう。そんなことを思うこともある。でも、これは今のセカイから逃げ出したいってことではなくて、死後のセカイが一体本当にあるのかどうかっていう、純粋な興味があるってことだけ。でも、いざ試してみようと思ったら、死んだら何もない、そこにはただの無があるだけだって思ったら、どうしてもその最初の一歩を踏み出すのを、ためらってしまう」

 そして、彼女はフェンスの金網に手を置いた。

「傷つくのは構わない。でも、何もかも失うってのは、それだけは嫌だ。思い出。これだけはどうしても失いたくない。だって、思い出が一つ一つ合わさって、自分というものを作り上げてきたのだから」

 彼女はそう言うと空を見上げる。

「思い出まで失うと、自分ではなくなってしまう。まあ、嫌いなものは当然無くなるだろうけど、それと同時に自分が好きなこと、好きだと思える自分の心まで、永遠に失いそうな気がする。そう思うと、とても怖く思ってしまうの。だから、もし願い事が一つだけ叶うとしたら、思い出だけが生きる場所に、わたしは行きたい」

 そう言い終わった彼女は、遠くの景色を眺めている。でもその瞳は、どこかこの世のものでない場所を見てるかのようだ。

「……ごめんなさい。よく分からないことことを言ってしまって」

 彼女はそう言った後、ぼくに向かって微笑んだ。その微笑みはとても翳りがあった。

「上手くは言えないけど、何となく分かる気がするよ」

「……自分でもよく分からないけど、自然と言葉が出てしまった。もちろんわたしがさっき言ったことの一部には、普段から心の片隅に思ってることはあったけれど……でも、分からないものだね。わたしの口からこんな言葉の数々が飛び出すなんて。でも寺山君、寺山君がそう言ってくれて、何だかほっとした」

 ちょうど話題を変えるなら今がタイミングだと思い、ぼくは別の話題を振る。

「藤島さんって、部活とか入ってないの?」

「部活は入ってない。今までも入ったことがない……人のことは興味があるのだけど、人と接するのが苦手だから、わたし」

 確かに。普段からここまで孤高を保っている存在が、部活など入ってるはずがない。

「でも、体育とかちらっと見た時、運動とか得意そうに見えたけど」

「まあ、そうね。自分で言うのは何だけど、人並み以上は何でも出来るほうなのかもしれない。でも、特別スポーツとかやってたわけじゃない。別に嫌いってわけでもないけどね」

 彼女はそう言うと体育座りしたので、ぼくも同様に座った。

「他と興味や関心がずれてるんだろうね、わたし。特に誰かと仲良くなろうって思ったことはなかったけど、こんなんじゃ、友だち出来そうにないね」

 ぼくは彼女の言葉に、一瞬、棘が刺さったように感じる。「今日から友だちだね」あの言葉は嘘だったのか?普段から特別期待などしない、このぼくが、この言葉に、酷く傷ついた。

「えっ、おれたち、友だちじゃないの?」

 ぼくの言葉に彼女は振り向き、可笑しそうに笑った。

「ごめんごめん。そうだったね。わたしたち、友だちだった」

 無邪気な笑顔。それが何よりも意地悪に見えてくる。そう見えてくると、何だか腹が立ってきた。

「本当に謝ってる?」

「悪いと思ってるよ。ごめんごめん」

 彼女は先ほどから変わらず無邪気な微笑みをこちらに向けているが、言葉はとても無機質なものに感じられる。再び謝られても、ぼくはまだ心の中で腹を立てていた。第三者の目線から見たら、器の小さい男だと思われるかもしれない。でもまあそれだけ、自分が思っていた以上に深く傷ついたのだろう。しかし、怒りが少し鎮まり、冷静になってよくよく考えてみると、彼女が謝っている今が、さらに関係を深めるチャンス、かもしれない。

「悪いと思ってるなら、今度の休み、一緒に遊ぼうよ」

 少しばかり腹が立った勢いで、ぼくは彼女を誘ってみた。

「遊ぶの?……他に誘う人は……」

「二人だけで」

 彼女は顎に手を当てながら、少しの間考え事をしている素振りを見せる。

「……いいよ。どこで何して遊ぶ?」

 彼女は誘いに応えてくれた。相変わらず何を考えているのか分からない微笑みだが、この瞬間は、本当に心から笑っているように思えた。

「そうだなあ、誘っておいてあれだけど、特に何も決めてなかった。今考えてはいるんだけど、何が良いのだろう。う〜ん、浮かんでこないなあ。ごめん、藤島さんは、何がいい?」

「そうだね。多分だけど、わたしも寺山君も人と遊び慣れてるほうではないだろうから、あまり無理して遊びに出かける感じにしなくていいのかなって思うの。う〜んと、そうだね、わたしたちに共通することって言えば、本。好きな小説について訊いたのがきっかけで仲良くなったのだから、本屋だったり図書館にでも一緒に行けばいいのかなって思う。それでどう?」

「そうだね」

 確かに遊びに出かけるといっても、いきなり不慣れな遊びをしてしまえば、せっかくの休みが楽しくなくなってしまう恐れもある。それに図書館ならお金がかからずに済む。

「なら図書館に行こうよ、藤島さん」

「いいよ。じゃあ、いつにしようか」

 ぼくは彼女と話し合いながら、一緒に図書館に遊びに行く日を決めていく。ぼくはこの時、浮かれていたのかもしれない。異性と二人きりで遊びに行くこと。まだ付き合ってはいないけれど、形としては、これが人生初の女の子とのデートになる。そう考えると、まるで現実ではないように感じる。もちろん現実ではないのだが、それでもこの夢がいつまでも続けば良いのだと、どこか心の中で思っている自分がいる。そのように感じていた。彼女の微笑む顔、そして黄金に輝く夕暮れが、先ほどまでの死という香りから優しく包み込んでくれる感じがする。

「もう暗くなってきたね。そろそろ帰らないと。寺山君、これがわたしの携帯の番号だから」

 彼女がそう言った後、携帯の番号が書かれたメモ帳の切れ端をぼくは受け取る。ぼくも学生手帳を取り出し、急いで番号を書くと、その切れ端を彼女に渡す。

 ぼくは高揚感に浸っていた。そして、この高揚感に浸りながら、ドアを背に微笑む彼女の薄暗い残像を最後に、ぼくはログアウトした。

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