第一話

 退屈な日常から逃れるため、ぼくは今日もログインする。ログインする時には、よくアニメで見るような、タイムスリップをしているような感覚になる。生体認証などいくつかステップを踏んでログインが完了すると、ぼくの目の前にはセカイが広がっている。

 ぼくの目の前に現れたセカイは、現実セカイと特に何も変わらない。いささか、古い感じはするが、特段別のセカイにやってきたという感じはしない。

 でも、明らかに何かが違う。それだけはぼくにも肌で感じる。何と言えばいいのだろう。まあ、分かりやすく言ってしまえば、少し前にタイムトラベルしたとか、世界線が移動したとか、そう言ったほうがイメージしやすいだろう。

 ぼくはそんなセカイ、いやゲームにログインした。

 このゲームのタイトルは『思い出だけが生きる場所』。数十年前の現実セカイを舞台とした、恋愛シミュレーションゲームだ。

 恋愛シミュレーションゲームといえば、ノベルゲームが主流で、いくつか選択肢が用意されている。そのうちのどれを選ぶかによって、ストーリーが変わっていくものがほとんどだ。だが、このゲームはVRでプレイ出来て、選択肢は従来のものとは比べものにならない。会話の流れはとても自然で、現実セカイで普通に会話してるかのように感じる。

 それ以外にも、従来のものとの違いでいうと、このゲームは完全に無料でプレイ出来る。その代わり、個人情報を入力してアカウントを作成、その個人情報とプレイ内容共々、データを取られる仕組みとなっている。

 個人情報を取られることに抵抗がある人は、いまだに多いのかもしれない。しかし、ネット社会になって数十年以上経つ現在、完全に個人情報を隠匿するのは皆無と言っていいと思っている。だから、ぼく自身、個人情報を取られることに抵抗はない。どうせ、個人情報を取っても役に立たない。ぼくはそんな存在だ。

 ぼくの名前は寺山誠治てらやませいじ。今年から大学に通っている。一応、都内のそこそこいい大学には通っているものの、少し前までの大学デビューなんて言葉とは程遠いような、無味乾燥なキャンパスライフを送っている。

 そもそも今の学生で大学デビューなんて夢見てるのは、極々少数だろう。

 今の若者はとても淡白だ。言い換えるなら、とても現実的で、効率よく物事を見ている。

 コスパやタイパなんて言葉は、言わずとも若者にとって、当たり前の概念になっている。みんな無駄だと思うことはしない。それは人付き合い、恋愛に関してもそうだ。結果、恋が実らなければ、それはコスパやタイパが悪いこととされてしまう。余程の物好きでない限り、大半が二次元のものに満足してしまう。自分にとって都合の良い王子様、自分にとって都合の良いアイドルに。そう、世間一般では言われている。

 でも、ぼくはそのことに疑問を感じる。具体的になぜ疑問に感じているのか、上手くは説明出来ないのだけど、少なくとも自分にとっては、違和感を感じてしまう。

 違和感を感じるのはこれだけではない。みんなが表立って正論を口にする。本当はそう思っていないくせに。だけど、みんなきれいな言葉を並べ、いかにも味方だよと、優しいふりをする。

 どれも全て嘘だ。嘘っぱちだ。もちろん、全てがそうでないってことは、分かってる。ただ、押し付けられてる、そんな空気に疲れてるだけ。これはぼくだけでなく、みんな本当はそうなんだと思う。

 だからこそ、ぼくは今日もこのセカイに足を踏み入れている。まあ、世間から見れば、逃げてきたというのが正しいのだろうが。

 世間一般からそう見られているだろう、こんなぼくにも言い分がある。別に自分にとって、何もが都合の良いセカイを求めてるわけではない。ぼくがこのセカイに来たように、現実から逃避したいと思っている人は大勢いる。そんなみんなの受け皿として、異世界転生ものなどのファンタジーが未だに流行っていたりする。定番の人気ジャンルだ。それが今は、ラノベやアニメだけでなく、VRのゲームとなり、プレイヤーとなってプレイ出来るセカイになっていた。

 でも、ぼくには合わなかった。どうしても、魅力に感じないのだ。多分だけど、主人公にとって、あまりに都合の良いセカイだからだろう。これはあくまで個人的な意見なのだが、多少思い通りにならないものがあるほうが、生きる張り合いがあるってものだ。摩擦やノイズがあるからこそ、生きている実感がある。少なくとも、ぼくはそう感じる。

 現実セカイから逃げたいのに、自分にとって都合の良過ぎるセカイもなぜか嫌。そんな自分のことを、我ながら随分屈折してるなって思う。こんな自分同様に屈折した存在。このセカイの自分にとっての摩擦、思い通りにならないものと言うべきか、その存在に、ぼくは少しばかり惹かれている。

 藤島紗華ふじしまさやか。このセカイのヒロインだ。彼女とは同じ高校の同級生、そういう設定となっている。

 現実セカイでは、ぼくは恋愛経験をしてきていないし、全くといって興味がなかった。そもそも学校に馴染めない自分には友だちがほとんどいない。こんな自分にとって、このセカイが青春を謳歌する唯一の機会になるのかもしれない。

 この『思い出だけが生きる場所』というゲームと出会ったのは、本当にたまたまだ。大学もろくに行かず、ネットサーフィンしていたら偶然見つけた。

 このゲームの舞台、つまり今ぼくがいるこのセカイのことだが、このセカイは現実セカイで言うところの数十年前のセカイ、つまりぼくの親がまだ学生、若い頃の時代が舞台設定となっていることだ。

 ぼくは今の生活が当たり前になっていることを考えると、少し前は一体、人はどのような暮らしをしていたのだろうか。以前からそのようなことを、漠然とながら興味を抱いていた。もしかしたら、こんな自分にもノスタルジックな感覚があったのかもしれない。それは彼女と初めて出会った時も、そのような感覚があった。

「寺山君……」

 そう、彼女から名前を呼ばれた時、どこか懐かしさを感じていた。藤島紗華、きれいな長い黒髪の美少女。このセカイのヒロインであり、ぼくが攻略しなければならない存在だ。

 彼女の第一声を聞いた時、独特な響きを感じた。声だけではなく、全体的に独特で近寄りがたい雰囲気を醸し出している。翳りがあり、見るからに屈折していた。

 彼女は同じクラスの誰とも関わろうとしなかった。休み時間は本を読んで過ごしている。別にはぶられてたわけではない。それなりに人気もあったため、仲良くしたい人もそれなりにいたが、何せあの雰囲気のため、どうしても近寄りがたい。正に高嶺の花といった感じだ。

 そんな彼女が自分に声をかけてきたのに、正直驚いてしまった。これはゲームのセカイだ。何かイベントがあるのは当然のことなのだが、あまりに違和感のないセカイなので、これがゲームだということを常に忘れてしまう。

「寺山君、次の英語の授業、視聴覚室に変更になったから」

 そう彼女は言うと、廊下を歩いて行く。そして、ぼくはその後ろ姿を見ていた。

 これが彼女との初めての会話だ。いや、ぼくはまだ彼女に話しかけていなかったので、正確には会話ではないのかもしれない。ぼくに初めて話しかけてくれた、が正しいのだろう。そう、これが一番最初の。

 高校入学してからまだ一ヶ月も経っていないが、同じクラスになって、遠目から彼女を見てきた。そんな彼女にいきなり話しかけられて、ぼくはドキドキしていた。このドキドキが、恋愛的なものなのかは分からない。いや、多分違うだろう。でも確実に言えるのは、この時久しぶりに、自分は生きているのだという実感があったということだ。

 そう、人生の張り合いというやつを、ここで見つけてしまったのだ。別に恋愛ということに関して興味はない。ただ、彼女、藤島紗華という存在に、ぼくは興味を持った。

 このゲームにヒロインは何人かいるのだろう。詳しくは知らないが、その中でも、ぼくは藤島紗華というヒロインを選んだ。

 初めて話しかけられたことに戸惑いを覚えながらも、このゲームを攻略するため、彼女に声をかける機会を窺う。

 このゲーム内でも、ぼくは友だちが作れずにいた。彼女も群れることを好まないのか、休み時間、教室で独り、読書に明け暮れている。ひとりぼっち、この点において、ぼくらは似たものどうしだ。

 声をかける機会ならいくらでもある。でも、周囲の目を気にして、どうしても声をかけられない。彼女は男子から人気がある。話しかけようと様子を窺っている存在は他にもいるのだ。抜け駆けする勇気はどうしてもなかった。

 なんて情けないのだ、ぼくは。これはゲームだぞ。現実セカイじゃない。どうしようもないほど、小心者だ、このぼくは。そう心の中で自虐しながら、当てられて数学の問題を答える彼女の姿を横目で見ていた。

 授業が終わると、今日初めて屋上に行ってみた。休み時間などは大抵図書室などで適当に本を読んで過ごしているのだが、屋上は上級生と鉢合わせすることもあると思って、今まで避けてきた。

 自分が小心者だということは、分かっている。でも、このままだと、彼女を攻略することは、到底出来そうにない。まずは第一歩だ。そういう思いから、今、屋上のドアを開ける。

 屋上に行ってみると、誰もいなかった。放課後だからなのか、今はぼく独りだけ。

 学校の屋上に行くのは今日が初めてだ。小、中、高、現実セカイで学校の屋上に行ったことはない。校則で禁止されているからだ。

 フェンス越しから周囲を眺めてみる。風が気持ちいい。これが最初の感想だ。グラウンドからはバットの音が響き渡り、下からくる管楽器の音と良い具合に調和する。

 ぼくはこの感覚を知らない。今まで味わったことのない感覚だ。放課後の部活動の様子を眺めるなんて、今までなかった。現実セカイでも、このセカイでも。

 そもそも学校の授業の形式だって、現実とここでじゃ、異なる。それには本当に戸惑った。

 現実セカイではもちろん学校に通っているのだが、ここまで他者との交流を要求する感じではない。もちろん現実セカイでも交流はするのだけど、こんなに一緒にいる時間が多いってわけではないからだ。半分以上の授業は家でリモートや動画形式で受けられるのだが、ぼくのとこも含めて、親の希望から学校に通って授業を全部受けさせられる生徒が大半だ。ぼくも含めて、現実セカイでは、専用のブースでみんな授業を受けている。

 だからそもそも、現実セカイは友だちが作りづらい社会なのだろう。ぼくのような根暗な存在は、特に。

 そんなことを頭の中で語りながら、同時にこのゲームの攻略方法を考えていた。つまり、彼女の攻略方法を。

 なんてこと言ってるが、実際、言い訳を探していただけなのかもしれない。はっきり言おう。傷つきたくないのだ。

 そして、傷つきそうな心を少しでも紛らわせようと、文庫を取り出し開く。『ライ麦畑でつかまえて』。ぼくはこの小説を度々読む。ぼくがサリンジャーという作家を知った、最初の小説。

 初めてこの小説を読んだ時、ぼくと主人公のホールデンはよく似ていると思った。世の中に欺瞞を感じ、意地っ張りでありながら、ものすごく臆病なところとか。

 半世紀以上も前の、この小説を読んでいると、何だかとても安心する。みんなは違うのかもしれない。でも、ぼくからすればそうだ。半世紀以上前の時代から、同じような悩みを抱え、それを描いた作品と出会えたことに、ぼくはとても感動している。ぼくにとって、不安な心を安定させるための、何より良い薬だ。

 本を数ページめくっていると、突然後ろから物音が聞こえてきた。ドアが開く音だ。ぼくは振り返った。

 ドアからここまでの距離は遠い。女子生徒だということは分かった。眼鏡はかけていないものの、ぼくはそんなに目が良いほうではない。最初は誰なのか分からなかった。そして、その何者かが、ゆっくりとこちらに近づいてくる。ようやく相手の顔が視認出来ると、ぼくの心臓は強く鳴った。

 藤島紗華、彼女は藤島紗華だった。ぼくが攻略しなければならない、このセカイのヒロイン。彼女はぼくのそばまで来ると、こちらを見下ろす。

「サリンジャー……好きなの?」

 彼女に再び話しかけられて、ぼくはどう返答しようか迷った。せっかくチャンスがやって来たのだ。仲良くなるきっかけを上手く作りたい。しかし、返事が遅くなるのは印象が悪いはず。仕方なく、ぼくは自然に出た言葉を口にする。

「そうだね……時々読むよ」

 ぼくは本当のことを口にした。しかし、彼女はグラウンドを眺めながら、黙っている。何か不味かったのか、ぼくはとても不安になった。

 少しの間沈黙が続いたが、彼女はようやく口を開く。

「わたしも……よく読み返す……その本は特にね」

 読書家なのはもちろん知っていたが、どうやらいい反応のようだ。自分も本は読むほうだから、ここで会話を発展させれば、上手く仲良くなれるかもしれない。ぼくはもう少し深く訊いてみる。

「藤島さんは、どういうところが好きなの?」

 また少しの間の沈黙。彼女は遠くを見ながら考えているようだ。

「何だろう……そうだね、考えてみたんだけど、何だか必死になって足掻いてる、あの感じが好きなのかもしれない」

 彼女の回答は、ぼくも含めた大勢の読者にとって、この小説を好きになったきっかけの、最も大きな理由の一つだと思う。

「本当は臆病なくせに意地っ張りな感じとか、でも、気持ちとして、とてもよく分かるの。わたしとホールデン、わたしと主人公である彼は、お互いよく似ている気がする」

 ぼくやホールデンとは異なり、落ち着いた様子で孤高を保っている藤島紗華。彼女の口からこのような言葉が出てきたことに、ぼくはやや驚いた。

「じゃあ、藤島さんは臆病なんだ」

 ぼくの言葉に、彼女は初めて、薄ら笑みを浮かべると、こう答える。

「人なんて大半が臆病な存在でしょ。だからこそ、こうやって社会が成り立ち、飲み物や食べ物に困ることなく、普通に生活出来るわけなんだから」

 彼女は間をおくと、さらに続けた。

「でも、みんなその、自分が臆病だってことを、忘れてるような気がするの。そして、自分たちにとっての、仮初めの当たり前を押し付けてくる。本当は、全然そんな風に思っていないのにね。で、そういうことに疲れてる時、これを読むと、とても安心するの。そう、同じような悩みを抱えているのは、自分独りだけじゃないんだって……そして、また読むことによって、自分が臆病者なんだってことを言い聞かせてくれる。そういう意味では、本ってのは、本当に便利がいい。世の中の常識、それに疑いを持つという点においては。だから、わたしは本を読むの」

 彼女の言葉に、ぼくは心を救われた。あくまで彼女の個人的な考えなのだろうが、真理をついていると思えたし、何よりぼくが心の中に抱えていたものを、上手く言語化してくれた。

「本は好き?」

 彼女の問いにぼくはうなずく。

「じゃあ、今日からわたしたち、友だちだね」

 彼女は手を差し出し、ぼくはそれに応えて握手を交わす。他人の手に触れるなんて、いつ以来だろう。それも女の子の手に触れることなんて。

「あっ、いけない。そろそろ行かないと」

 彼女は腕時計を見ながらそう言った。

「わたし、用事があるから、そろそろ行かないと。それじゃ、また明日」

 彼女はそう言い残すと、屋上を後にした。ぼくはその後ろ姿を最後まで見ていた。

 あまりに都合の良い展開となり、逆に不安も感じたが、それ以上に別の感情から湧き上がる高揚感を覚えた。この感情が一体何に当てはまるのか、この時のぼくには分からない。これがいわゆる恋というものなのか、またはこの感情も別の不安要素の一つなのか、それともまた別の感情からくるものなのか。いろんな感情や考えが頭の中を巡りながら、絶えず高揚感が続いていく。

 そして、ぼくはログアウトした。

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