第8話 花丘の朝

 それからも、鴇汰の噂はあちこちで耳にする。

 そのたびに麻乃は、言いようのない不愉快な気持ちにさいなまれていた。

 そのくせ、鴇汰の動向は気になって、つい目が向いてしまう。


 今週、麻乃と修治は休みで、中央で待機だった。

 休みを利用して、修治は西区で新しい刀を買いたいといっている。

 今、使っている紫炎しえんだけだと、なにかあったときに困るからだという。


 麻乃も修治も手もとには、麻乃の両親が残した対の刀、「炎魔刀えんまとうごく」「炎魔刀・えん」がある。

 麻乃が炎を持ち、修治が獄を持っているけれど、なぜか二人とも、この刀が抜けないでいた。


 朝には出かけると言っていたのに、修治の姿がどこにもない。

 修治の部隊の近江おうみを捕まえ、どこにいるのか聞いてみた。


「隊長なら、川崎かわさきさんや神田かんださんと……あー……夕べから、花丘はなおかに……」


「えー? 花街はなまち行ってるの? もう……しょうがないやつだね。まあ、いいや。行ってみるよ」


 店の名前を聞くと、ありがとう、と近江にお礼を言って、花丘に向かって走った。

 花丘の大門だいもんをくぐって時計を見ると、そろそろ六時になろうとしている。

 どの店も、まだ扉はしっかりと閉じたままで、通りはシンと静まり返っている。


 近江に聞いた店は、花丘の奥まった場所にある。

 通りを早足で進んでいると、どこからか話し声が聞こえてきた。


「麻乃ちゃーん!」


 突然、誰かが麻乃を呼んだ。

 振り返っても誰もいない。


「こっち、こっちよ」


 見あげた妓楼の二階の窓に、鴇汰が腰をかけて通りを見おろし、その膝にしなだれて、見覚えのある姐さんが手を振っていた。

 以前、酔っ払いに絡まれていたのを助けたことがある。

 確か……初雪太夫はつゆきたゆうだ。


 修治だけじゃあなく、鴇汰までもいるとは思わなかった。

 顔を見る気にもなれず、頭だけ下げて姐さんに挨拶をする。


「こんなに早くに、こんなところへどうしたの?」


「ええ、ちょっと……人を呼びに……」


「そうなの。暇をみて、また食事にでも寄っていってちょうだいよ。ね?」


「はい、そうさせていただきます。それじゃあ、あたしはこれで……」


 また手を振る初雪に、もう一度、頭をさげてその場から離れた。


(あいつ……彼女がいるくせに、まだあんなところに通って……)


 苛立ちが、麻乃の足を速める。

 修治がいるはずの店に続く道を曲がろうとしたとき、ちょうど通りへ出てきた修治とぶつかった。


「どうしたんだ? こんなところまで……」


 バツが悪そうな顔で、修治がいう。


「だって修治、今日は朝から西区に行くって言ったじゃない。なのにいないから、迎えにきたんだよ」


「そうか。悪いな。今、戻ろうと……」


「わかってるよ。あたし、もう仕度は済んでるよ。戻ったらすぐに出る?」


 通りに出ようとする修治を、麻乃は両手で押し返し、一本隣の通りから宿舎へ向かった。

 あの通りを戻ったとき、まだ鴇汰がいるような気がしたからだ。

 鴇汰の膝にしなだれかかる姐さんの姿を、もう見たくなかったし、なんとなく、修治を迎えにきたのをみられるのも嫌だ、そう思った。


「少し待っててくれ。着替えだけしてくる。そうしたら出よう」


「早くしてよ? あたし、車で待ってるからさ」


 こんなところでもたついていて、鴇汰が戻ってきたらと思うと、麻乃は気が気じゃあなかった。

 とにかく修治を急かし、中央を離れた。


 修治の刀は、西区の柳堀にある「外邑とのむら」がみている。

 麻乃が通う「周防すおう」の店とは通りが二つ、離れた場所だ。


「麻乃、おまえも紅華炎こうかえんだけだろう? もう一刀、あったほうがいいんじゃあないか?」


「うん……そうだね」


「一緒に外邑を覗いてみるか? それともおまえは周防に顔を出してくるか?」


「うん……そうだね」


 修治は急に車を止めた。

 シートベルトを外すと、麻乃の額に手を伸ばしてくる。


「なに? どうしたの?」


「おまえ、具合でも悪いのか? さっきからなにか上の空だし、刀の話にも食いついてこないじゃあないか」


「別に……具合が悪いわけじゃあないよ。ただちょっと……気分が悪いっていうか……」


「気持ち悪いのか? 西区にいったら家で少し休むか?」


 そういう気分の悪さじゃあないんだけどな……と思いつつも、心配そうにしてくれる修治の気遣いが嬉しくもある。


「大丈夫だよ。それより、早くいこう。帰りが遅くなっちゃうよ」


「なんなら、一泊していっても問題ないだろう? どうせ休みなんだしな」


「そういえばそうか……」


高田たかだ先生のところにも、長く顔を出していないだろう? 買いものを済ませたら挨拶しにいこう」


「そうだね……うん、それじゃあ、そうしよう。修治、実家に帰る? それともうちに泊まる?」


 修治の手が麻乃の髪を梳き、そのまま頬に触れて口づけを交わした。


「泊まるよ。明日は少しゆっくり中央に戻ることにしよう」


 修治はシートベルトを締め直し、スピードを上げて西区へと向かった。

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