二枚貝の夜

そうざ

Night of the Bivalves

              1


 すっかり暗闇に慣れた眼で、僕は階段の手摺りを握った。

 音を立てないように細心の注意を払いながら一歩進む毎に段数を数え、十二歩目で無事に一階に降りられた事になる。

 忍び足で廊下を進み、目的の台所に到着すると、迷わず冷蔵庫へ向かう。よく冷えた1.5リットルサイズのペットボトルでコーラをラッパ飲みにすると、儀式のようにゲップを放つ。壁に掛かった時計の針が午前二時前を差し示し、流し台の窓から街灯の青白い光が漏れ込んでいる。

 世界はすっかり寝静まっているようだった。

 両親もとっくに寝ているこの家で、僕だけが眼を爛々と輝かせている。

 今日は何曜日だろう。昨日は何日だったろうか。曜日も日付も季節も、全てが僕と無関係になり始めたのはいつ頃からだろう。明日が明日であって明日でないような、こんな生活がいつまで続くのだろう。いつか終る日が来るのだろうか。そんな事を考えたって仕方がない――僕はいつもそう結論付ける事にしている。

 コーラの所為か、口の中のべた付きが気になる。僕は水道水を直接含んで嗽をした。

 流しの隅に置かれた銀色のボールが目に入った。暗がりの中でよくよく覗いてみると、何か黒っぽい物が水に浸されている事が辛うじて判った。僕は流し台上部の蛍光灯を灯した。

 ボールに入っていたのは無数の二枚貝だった。

 親指の爪くらいの大きさの貝達は、僅かに貝殻の合わせ目を開き、白っぽい中身を覗かせている。

 多分、アサリという奴だ。きっと朝食の味噌汁の具にされるのだろう。

 朝食――僕にはすっかり縁のない食事だ。まともに朝飯を食べなくなったのはいつからだろう。

 また余計な事を考え始めた自分に苛立ち、僕は蛍光灯を消してそそくさと自室に戻った。


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 すっかり暗闇に慣れた眼で、僕は階段の手摺りを握った。

 音を立てないように細心の注意を払いながら一歩進む毎に段数を数え、十二歩目で無事に一階に降りられた事になる。

 忍び足で廊下を進み、目的の台所に到着すると、迷わず冷蔵庫へ向かう。よく冷えた1.5リットルサイズのペットボトルでコーラをラッパ飲みにすると、儀式のようにゲップを放つ。壁に掛かった時計の針が午前二時前を差し示し、流し台の窓から街灯の青白い光が漏れ込んでいる。

 世界はすっかり寝静まっているようだった。

 ここまで、僕は昨夜と全く同じ行動をしている。昨夜は一昨日の夜と同じような事をした。その前夜はそのまた前夜と同じ感じだった。きっと明日の夜も明後日の夜も今夜と変わらないのだろう。

 何気なく流し台に眼をやると、そこに銀のボールがあった。中にはやっぱりアサリが入っていた。

 蛍光灯の下、僕は二枚貝達をぼうっと眺めた。二本のパイプ状の突起と舌状の部分を伸び伸びと殻の外へ伸ばし、時折ぷしゅっと水を噴出したり、ぷくっと気泡を吐いたりする。

 昨夜見たアサリは今朝の食卓に並び、両親に食べられてしまったのだろう。目の前の此奴らも数時間後には食べられてしまう訳だ。

「可哀想にな……」

 僕はアサリの一つを指で突付いた。突付かれたアサリは急いで貝殻の中に身を隠した。次々とアサリを突付いてやる。次々とアサリは閉じ篭って行く。

 僕は自分でも何が可笑しいのかがよく解からないままへらへらと笑った。


              3


 すっかり暗闇に慣れた眼で、僕は階段の手摺りを握った。

 音を立てないように細心の注意を払いながら一歩進む毎に段数を数え、十二歩目で無事に一階に降りられた事になる。

 ここまではいつもの夜と全く同じだが、一旦納戸を経由して台所に向かった僕の手には金鎚が握られている。

 流し台の蛍光灯を点けると、予想通りアサリ入りのボールがそこにあった。僕はボールを床に置き、その場にしゃがんだ。

 アサリを浸した塩水の表面で時折、泡が弾ける。

 僕は水面に指先を突っ込み、五個程のアサリを摘み上げ、床に並べたところで低く呟いた。

「さぁ……どいつから殺ろうか」

 アサリ達は悪魔の囁きを聞きたくないのか、しっかりと殻を閉じている。僕は右の掌に持った金鎚を左の掌にペちぺちと当てながら品定めをした。

「どうせ朝になれば熱湯の中で藻掻き苦しんで死ぬ運命なんだ。だったらいっそこの場で即死した方がマシじゃねぇか?」

 こいつらの命は僕の掌の中にある。気分次第で命を奪ったり奪わなかったり出来る立場にある。

 僕はアサリをボールに戻し、中身をじゃらじゃらと掻き混ぜ、改めて選び出した。

 向かって左端のアサリの上に金鎚を置き、ぐりぐりと弄った。アサリは殻を閉じたまま微動だにしない。

「どうだ、恐いか? 死にたくないか?」

 貝殻は身を守る為にある筈だ。進化の過程でそれが最良の防御方法という事になったのだろう。

 子供の頃、海星ひとでが二枚貝を捕食する映像を見た事がある。海星はあんな小さい体の何処にそんな馬鹿力を秘めているのかと思う程、ばりばりと貝殻を砕いて中身を食べていた。

 多分、烏賊とか蛸も容易く貝殻を砕いてしまうパワーを持っているだろう。魚の中にも歯でガリガリと割って食べてしまう奴が居る筈だ。そうでなくとも、人間に捕まればいとも容易く熱湯で殺されて食われてしまう。

 攻撃する事も、逃げる事も、唯一の防御方法でさえ中途半端な鎧でしかない。捕まって殺されて食われるのを待っているだけの絶対的弱者――それが此奴らだ。

 そろそろ一匹目を血祭りに上げてやろうかと金鎚を振り上げたその時、廊下の方からペタペタとスリッパの音が聞こえて来た。

 僕は急いでアサリをボールに戻し、流し台に置いた。そして、電灯を消すや否やダイニングテーブルの下に身を潜めた。全て反射的な行動だった。

 足音はトイレの方へ消えて行ったが、僕は同じ姿勢を保った。やがて水が流れる音がし、足音は台所に入って来た。

 僕は緊張した。

 僕の位置からは腿から下の部分しか見えなかったが、着ているパジャマの色からそれが父親だと判った。

 僕は更に緊張した。

 真っ直ぐ流し台に向かった父親は、電灯を点けて蛇口を捻った。コップに水が注がれる音が深夜の静寂に響き渡る。足音は直ぐに去って行った。

 全身の汗が一挙に冷めて行く。

 どうして僕は自分の存在を隠さずには居られなかったのか、もし問われても上手く答えられる自信がなかった。


              4


 すっかり暗闇に慣れた眼で、僕は階段の手摺りを握った。

 音を立てないように細心の注意を払いながら一歩進む毎に段数を数え、十二歩目で無事に一階に降りられた事になる――と思った瞬間、僕の素足は思いっ切り床板を叩いていた。深夜の静寂にどんっという鈍い足音が響いた。

 僕はその場で息を潜めた。窓の外を車が通過する。その後はいつもの静寂が戻った。

 両親が目を覚ました気配はない。もし携えていた金鎚まで床に落としていたら、確実に飛び起きているだろう。

 それにしても、どうして一段、多かったのか。毎夜、同じ行動を繰り返しているのに、今夜に限って階段の段数を間違えたのは何だか不思議だった。まるで陳腐な学校の怪談――思い掛けず『学校』という言葉が脳裏に浮かんでしまい、僕はそこで考えるのを止めた。

 その時だ。取り巻く闇の先に呟き声を聞いた。

 耳をそばだてると、声の主は一人ではなく、会話だと判った。台所から聞こえて来るようだった。

 両親に違いない。こんな時間に台所で何を話し込んでいるのか。僕は、蛍光灯の灯りが漏れる台所の間近まで足を忍ばせ、耳に全神経を集中させた。

「僕達がぐずぐずして態度を決めないから、いつまでも事態は変わらないんだ」

「それはそうだけど」

「責任は僕達にある。もう見て見ぬ振りは止めよう」

 身体全体が脈打つくらい動悸が激しくなり、頭に血が上って行くのが判った。金鎚を握った手に自然と力が入った。

 ダイニングテーブルに向かい合って腰掛ける両親。頼んでもいないのに勝手に僕を作ったオッサンとオバサンが僕の将来について密談をしている。僕が最も聞きたくない話題だ。

「このまま放っておくのは却って酷かしらね」

「そうだよ、僕達の手で蹴りを付けてやらなきゃ」

「そうね、私達の手で楽にしてあげましょう」

「いつまでも生かしておいたって仕方ない」

 僕は最後の台詞を聞き終える前に取って返し、階段を這いずり上っていた。自室の灯りを消したまま蒲団を被り、金鎚を固く握り締め、両親を待ち構えた。

 今の今まで、あの人達は僕をこの世に産み落としてしまった責任上、嫌々ながら親の役をやっていたに違いない。それが到頭、自分達を不幸に追いやっている原因――つまりこの僕を排除しようと決断したのだ。

 二組の忍び足が近付くのが判る。

 やがて、ドアノブがカチャッと鳴る音に続き、ドアがギィと鳴いた。

 僕は汗で濡れた金鎚を握り直し、蒲団の隙間から出入り口を窺った。生き物の気配と圧迫感が部屋に流れ込んで来る。

 ――ギリギリッ――

 何か硬い物同士が擦れ合う音が聴こえ始めた。そして、言葉にならない「んうっ」とか「おろっ」とかいう声も聞こえ始めた。妙に大きな人影が出入り口の所でごそごそと動いている。が、中々部屋に入って来ない。

 やがて、押し殺した声同士が会話を始めた。

「ちょ……ちょっとぉ、もっとそっち寄ってよ」

「痛っ……無理だ、無理無理っ」

「何よ、これぇ」

「一旦、出よっ。出ろって一旦っ」

 どうやら同時に部屋に入ろうとして身体がドアの枠につかえたらしい。

 一旦は引き下がった影が再び入室を試みる。ところが、一際大きなギリッという音が闇に響いた。

「わっ、ちょっ……何してんのよぉ」

「何だよ、どっちが先に入るんだよっ」

「も~っ、やぁねぇ」

 何となく譲り合ったにも拘わらず、結局また同時に入ろうとして激しく支えたようだった。

 自分達の間抜け振りが可笑しくなったようで、会話の語尾に苦笑が混じっている。長年連れ添った者達が醸し出す和気藹々とした雰囲気だった。

 それにしても、はそんなに大柄でもでっぷりとしている訳でもない。どうしてそんなに支えるのか。

「お先にどうぞ」

「ん、あぁ、よしよし」

 応えた男がおもむろに部屋に入ろうとした。

「わっちゃっちゃっ、何だよ、これぇ~っ」

 硬い物とドアの枠とが擦れる音がした。一人ずつでも通れない様子だった。

「ちょっと身体を傾けたら良いんじゃない? 斜めにさ」

「斜めぇ? こうか?」

 ――ガリガリッ――

「だから、ほら。もっと身を屈めてさぁ」

「無茶言うなよぉ」

「また一遍、出るぅ?」

「ああ、あれ……動かない……挟まっちゃったよ、これっ」

「えぇ~、やっだ~っ、お父さんったらぁ」

 軽い口喧嘩のようなやり取りながら何処か和やかな空気が漂っている。

「どうすんの~っ? 引っ張る? 押した方が良い?」

「押した方が……否っ、やっぱり引っ張ってくれっ」

「はいっ、いっせーのぉ……!」

 僕は闇に慣れ始めた目を凝らした。朧気だった人影の輪郭が浮き上がり、全容が明らかになって行く。

 白色のぴちっとした全身タイツで顔以外をすっぽりと包み込んだ中年夫婦が斑模様の大きな貝殻を二枚、ランドセルのように背負っていた。

 父親の貝殻はドアの枠の対角線上に挟まっていて、母親は部屋の外側から懸命に引っ張り出そうとしている。例の耳障りなギリギリッ、ガリガリッというのは、貝殻が擦れる音だった。二人共タイツに染みが出来ている。汗だくなのだ。

「参っちゃったなぁ、こりゃ。はっはっはっ……」

「ほんとにもう~、うっふっふっ……」

 僕は蒲団を被ったまま、貝殻を外せば良いだろっ――と思った。


              5


 遠くで僕の名前を呼ぶ声がした。声は次の瞬間、耳元で響いていた。

「どうしたのっ?! こんな所で」

 声の主は母親だった。不思議そうな顔で僕を覗き込んでいる。その直ぐ後ろに同じような表情の父親が居た。

 どういう訳か、僕はダイニングテーブルの下で寝ていた。

「何か食べる? 食べるでしょ?」

 母親が遠慮勝ちに僕に訊いた。

 僕の腹の虫が応えた。

「良い匂いだ」

 父親が新聞を広げながら言った。

 白いご飯、鮭の塩焼き、そして味噌汁が僕の眼前にも置かれた。焼き海苔も漬物もあった。

「三人一緒の朝食か……」

 父親が誰に言うでもなくそう言いながら鮭の塩焼きをほぐす。

 擦りガラスの向こうに朝日が照っている。台所の全景がはっきり見えるのは奇妙な感覚だった。

 父親は鮭の皮まで食べ終え、最後に味噌汁をあおった。椀がジャラリと音を立て、そこに幾つもの小さな貝達がぱかっと口を開けたまま残された。

「身は……食べない訳?」

 僕が呟くと、両親は顔を見合わせた。問い掛けの内容よりも、問い掛けられた事自体に反応したようだった。

「蜆は出汁を味わうものだからなぁ」

 そんな父親の言葉に、母親が続ける。

「勿論、食べても構わないけど、出汁が出ちゃってるからほとんど味がないんじゃない?」

 僕は特に返事をせず、生命の痕跡を一つ一つ摘まんで口に運び、丁寧に噛み締めた。時々ジャリッとなった。

 久し振りの朝飯は、旅館に泊まったかのような錯覚を覚えさせたが、僕は全て平らげた。

 昨夜は何かしら夢を見たような気がする。単なる妄想とも思えない。よく覚えていないが、何か愉快な内容だったような気もする。それにしても、アサリではなくてシジミだったのか。

 その後、父親は出社し、母親は家事を始めた。

 僕は何もする事がなかった。でも、すっかり目が冴えてしまったので、何かをしようかと思った。

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二枚貝の夜 そうざ @so-za

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