第8話 鏡に映るのは、誰

大学に行っても、自分の好きな分野ではなかった。早くも、挫折の予感がしている。友人の心陽は、幼い頃から続けていたピアノで注目されていた。自分に才能はない。親の反対を押し切って、都会に出てきたけど、才能の多い人達の中で、自分の才能のなさに落ち込んでいた。

「帰ろうか?」

大学を途中で、辞めて帰っても良い。自分に甘い父親がそう言う。田舎に引っ込んで、父親の勧めで、結婚したら、心も満たされる生活ができるのだろうか。虚しいまま、帰宅する莉子の目に飛び込んできたのは、いつもの通学路に立つビルの1階にある。フラメンコのスタジオだった。外は、寒いのに、窓ガラスは、曇っていて、中で、床をうつフラメンコシューズの音が響いていた。踊り子は、外は寒いのに、ノースリーブのワンピースを身に纏い、一心不乱に踊っている。いつの間にか、窓ガラスに張り付き、見入ってしまう。悲しみや怒り、苦しみ、喜びを全身で、表現する様は、莉子の無くしてしまった感情の全てがそこにあった。何もなく、人に流されるまま、生きてきて、初めて、自分を表現する方法に気づいた。自分に、ピアノは合わない。人は、それぞれ自分を表現する方法は、違う。上達しないピアノに、縛られている自分。縛っているのは、自分。指先まで、しなやかにリズムに合わせて、踊る姿に、思わず、教室に入る生徒さんに声を掛けていた。

「見学させてください」

その陽のうちに、申込書に記入していた。モノクロだった、日常生活が、鮮やかな色に変わっていった。何もかも、初めてだったが、フラメンコのリズムには、すぐ、慣れていった。ピアノで、慣れたリズムが、莉子の体を動かしていった。入門クラスにh、不釣り合いな高価な靴を、お金を貯めて手に入れた時は、どんなブランドのバックより、嬉しかった。リズムに合わせて無心に踊る。

「あの時が、楽しかった。なのに・・・」

なぜ?莉子は、暗闇の中に居た。体が、思うように動かない。冷たく固い椅子に、鎖で、縛り付けられているような、下半身は、底なしの糠に沈んでいる様だった。

「ここは、どこなの?」

唇は、動くが、声は出ない。足は、冷たく、動かない。思い切り、床を打ち、踊りたい。あの日、夫、架と逢った。彼は、気付いていない。ヴィオリンとピアノとのコラボだった。何度も、同じステージに立つ事があったが、架は、自分の存在に気づいていない。遠い所に、彼は、いた。何年か、経過して、彼とお見合いする事になった時、莉子は、嬉しかった。が、実際、お見合いの現場で、逢った彼は、抜け殻の様だった。もう、ピアノを弾いてはいなかった。自分の人生は、光と影が入り混じっている。フラメンコの様・・。莉子は、笑った。

「意識が戻った?」

突然、頭上に光が差し込んだ。視界が開け、何人かの顔が、覗き込んでいるのが、わかった。

「良かった。意識が戻った」

いつものリハビリ訓練士が叫んだ。ずっと、付き添って、いたようだ。

「意識を失っただけで、何も、異常はないって」

看護師が、この忙しいのにと、言わんばかりだ。

「また、頭を打つと大変だからね」

様子を見に来た、医師が、やれやれと言った様子で、呟いた。

「どうして、あんな所に行ったんだい?」

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