ガラスの靴は、もう履かない

第6話 序章は、不協和音から。

綾葉は、架の指先をじっと、見つめていた。どうしたらいいのか、わからないように、架は、両指を組み、そっと唇を押し当てて、目を伏せていた。

「酷いことを言っているのは、わかっている」

右手の人差し指から、手の甲には、深い傷がある。あの日の事は、忘れない。2人の運命を変えてしまったあの事故。このまま、いけば、架は、海外へ留学に行けるはずだった。憧れの欧州へ、ピアノの勉強をしに。勿論、自分も同行するつもりだった。親に反対されても、駆け落ち同然で、欧州に行き、一緒に生活をする。ピアノのコンクールで、惜しくも、2位だったが、留学の権利を得る事はできていた。それなのに・・・。

「どうしても、今日中に契約書を届けなくてはならないんだ」

架の実家で、契約書を取り違える事件があった。どうしても、その取引は、成功させたい。大事な書類である為、社長である架の父親は、架に届けさせた。それは、建築途中の現場であり、不幸にも、架は、落ちてきた鉄骨の下敷きになり、運悪く、頭を庇った右手を負傷してしまった。事故にあった時、架お母親は、半狂乱だった。架のピアニストとしての、デビューを心待ちにしていたので。父親を責める母親。それに対し、父親は、冷たく母親を突き放した。あの瞬間から、自分達の夢が一瞬にして、壊れた。綾葉は、ピアニストとしては、今一だった。たまたま、祖母の残した資産があったから、続けられたピアノだった。架と欧州で、過ごした後は、小さなピアノ教室を始めるつもりだった。その夢も、何もかも、狂った。架は、魂を失っていた。ピアノを見るのも辛いだろうから、自分も、ピアノは辞めよう。綾葉は、架を支える事にした。苛立ち荒れる彼を恋人として、支え、ピアノを忘れてくれるように願っていた。もう、父親とは、合わないと思っていたが、ピアノを諦めた架に、父親は、優しかった。家業を継ぐように約束させ、仕事のノウハウを教え込み始めた。架が、少しずつ、変わってしまう。綾葉は、すがるように、彼との逢瀬を続けていた。そんな矢先だった、突然、彼に呼び出された。

「ごめん・・・」

そう言うと架は、目を伏せた。何を言いたいのか、綾葉は、すぐ感づいた。

「構わないよ。私は」

自分でも、わからなかった。何を言っているのか。

「私は、何があっても、架の側にいる。体は、向こうにあっても、心がそばにあればいいの」

「綾葉。それでは、君が・・」

いつもの癖で、架は、唇を両手に押し当てた。

「お願い。いさせて」

大きな会社の一人息子だ。ピアノという夢がなくなった今、社長である父親の後を継ぐのは、時間の問題だ。そして、きっと、会社の為に、婚姻の話が出てくる。

「架。私は、変わらない。いつも、架のそばにいる」

言いながら、哀しくなった。本当は、隣にいるのは、自分なのに、架h、自分と別れ、別の女性と結婚しようとしている。それも、父親の決めた相手だ。

「私は、変わらない。だから、架も、私のそばにいて。多くは、望まないから」

架は、何も、言わなかった。視線の先には、すっかり溶けてしまった氷が、アイスコーヒーの中で、揺れていた。綾葉の人生で、2番目に悲しい日だった。