第9話 神さまのいない世界
──両親も友だちもいない俺の、たったひとりの遊び相手。
二十年も一緒に刻を過ごした相手。
部屋の中で追いかけっこしたり。
一緒に窓の外に浮かぶ月を眺めたり。
たいしたことはしてないけれど、一緒にいるだけで楽しかった。
──みたらし団子を初めて一緒に食べたのは、俺が七歳の頃だった。
じいちゃんが戸棚に入れてあったのを、俺が持って来ちゃって。
ひとりで罪を被るのが怖くて、神さまにもひとつあげたんだ。
そしたら神さま、めちゃくちゃ喜んで、踊ってた。
それから月に一度だけ、じいちゃんの団子をくすねて二人で食べてたっけ。
じいちゃんは何も言わなかったけど、絶対バレてたよな、あれ。
思えば月イチの「みたらしパーティー」は、そこから始まったんだよな。
──そうそう、けっこう絵も上手かったな。
両手でクレヨンを抱えて、画用紙の上を走り回って描くんだけど。
神さまはいつも、俺と自分、あと山を描いていたっけ。
楽しかったなぁ。
そりゃそうだよな。
俺の思い出は、ぜんぶ神さまと一緒だったんだもん。
いや、楽しいとか楽しくないじゃない。
間違いなく、俺の「ぜんぶ」だったんだ。
──後輩の宮沢一穂に
新人研修で宮沢の教育係を命じられて以来、よく話しかけてきたり、ちょっかい出してきたりする奴でさ。
その時は、宮沢って変な後輩だな、ヒマなのかな、くらいにしか思わなかった。
それがある日突然、俺の住むアパートに訪ねて来やがって。
あの頃から高性能ストーカーだったのかね。
その日に限って玄関のカギ掛け忘れててさ。
さらに、その日に限って無警戒に昼寝なんかしてて。
びっくりしたなぁ。
昼寝から起きたら、自分の部屋に会社の後輩、宮沢一穂が座っているんだもん。
しかも、宮沢の両手に抱かれてたのは、どろだんごの神さま。
神さまはなんか無邪気そうに、宮沢の腕の中ではしゃいでた。
けど、これはまずいって思ったね。
動く泥団子の人形なんて珍妙な存在、ぜったい会社で言いふらされる。
神さまなんて言っても、信じてもらえない。
変な科学者とか警察とかいっぱい来て、きっと悪の組織にも狙われる。
そうしてどろだんごの神さまは、此処ではない何処かへ連れて行かれてしまう。
というか、どんな未来が訪れるにしろ、俺と神さまの平和な日々は侵され、壊される。
もうね、会社辞めてどこか遠くに引っ越すしかない、と覚悟したさ。
でもさ。
宮沢の行動は、俺の予想とはまったく違ったんだ。
あの誰とでも話す社交的な宮沢一穂は、神さまのことを誰にも喋らなかった。
それどころか、普通に俺の部屋に遊びに来て、普通に仕事の話をして、神さまとも楽しそうに遊んで。
たまに料理とか作ってくれたり。
そんである時。突然俺は、宮沢に怒られた。
「先輩、なんでずーっと黙っていたんですか!」
ってね。何をかって?
オマエだよ、
「なんでこんなに可愛い神さまの存在を内緒にしてたのか!」ってさ。
そんなん秘密にするに決まってるじゃん。
言うわけないし、言えるわけないじゃん。
二十年の付き合いの
どっちを守るかなんて、言わなくたってわかるよね。
ところが、だ。
ちょっと、いやかなり……超絶可愛い女子だからって、宮沢一穂にホイホイと懐いちゃってさ。
宮沢の膝の上がお気に入りの場所になったりして。
まあ、楽しそうだったから、いいんだけどさ。
──それからの日々は、賑やかだったな。
休みになると、買い物袋を提げた宮沢が遊びに来てさ。
宮沢のストッキングで、
俺はさ。
そんなふたりを見ているのが、好きだったんだ。
もしも俺に幸せがあるのなら、こういう光景なんだろうな、って思った。
──それよりもさ。
俺、
俺さ。
あの里帰りの、大雨の夜。
飛び去る
泣いてないんだよ。
本当は悲しいのにさ。
悲しくて寂しくて切なくて、どうしようもないのに。
泣けないんだ。
涙が、出ないんだ。
な、軽蔑したろ?
俺ってそんなに冷血人間だったんだって、俺自身もショックでさ。
自分を責めて、絶望して。
んで、あれだけ呆れた、一週間の有給を勝手に取得した宮沢に少し感謝したり。
偶然にも会社に行かなくて済む期間を与えてくれた宮沢を褒めたくなったりさ。
かと思えば、またすぐに落ち込んで。
何度も、死んだら
でも。
このまま死んでも、オマエに合わせる顔が無いんだよ。
──あの夜。
というか、飛べたんだな、
なあ、どうしたらいい?
どうすれば、いい?
なあ、俺は────
大雨の夜から三日。
拓が目覚めて、一日。
拓と一穂は、未だ拓の叔父の家に滞在していた。
そして今。
一穂は、拓がいる客間の前に立っていた。
泣きっぱなしだった赤い目を雑に拭った一穂は、疲弊した心身に喝を入れる。
「──先輩、拓先輩!」
突然、拓の籠る客間が開いた。
ふすまを開けたのは、宮沢一穂だ。
一穂は、まるっきり換気ができていない拓の部屋に上がって、奥のサッシを開く。
エアコンの音だけが薄く響く、カーテンに閉ざされた暗い部屋。
その左、部屋の中央に敷かれた布団の隅で、Tシャツ姿の拓は膝を抱えていた。
拓が目覚めてから一日経ったが、ずっと拓はこの調子だ。
食事を拒み、病院へ行くのも拒否していた。
少し落ち窪んだ拓の目は、光なく一穂を見て、すぐに視線を逸らす。
「拓、先輩……」
やつれた拓の姿に言葉を失った一穂は、それでも涙を堪え、もう一度自分に喝を入れる。
「拓先輩。こっちを見てください」
一瞬、目を丸くした拓だったが、すぐに一穂に背を向けて体を丸めた。
「……じゃあそのままで、そのままでいいです。けれど私の話を聞いてください」
一穂が話しかけるも、拓は自身の膝に顔を埋めて一層丸くなる。
それが意味するのは、拒絶。
一穂だけではない。今の拓は、すべてを拒絶している。その見えない壁を、一穂は感じ取っていた。
拓の姿に再び涙が溢れそうになる一穂だが、その胸は使命感で満たされていた。
伝えなければならない。
その一心のみで、一穂は拓の眼前にその身を晒していた。
「聞いて、ください」
「……いやだ」
「キュイくんのことなんです。どうか聞いてください」
ずっと一緒にいた
その拓に神さまの話をするのは、さぞかし残酷だろう。
でも、けれど。
神さまは、その身を投げ打って拓の命を助けた。
ならば、拓の心を救うには自分も相応の覚悟を持たなければならない。
そうでなければ神さまに、キュイくんに失礼だと一穂は考えた。
か細い両の拳に力一杯の決意を握りしめて、一穂は語り始める。
「今回の里帰り。強引に進めてしまって、すみませんでした」
弱々しく、だがはっきりとした口調で、一穂は懸命に言葉を紡ぐ。
しかし拓は、一穂に背を向けたまま、膝を抱えるだけ。その拓に、一穂は語り続ける。
「先輩がお望みでしたら、私は消えます。もう私には先輩と一緒にいる資格はないですし。でも」
拓は、ゆっくりと一穂に目を向けた。
「キュイくんの話だけは、聞いてください」
光のない目を向けられた一穂は言葉を失うが、悲しみと苦しみを堪えて、再び語り始めた。
「今回の里帰りは、キュイくんのお願いでした」
拓の肩が、微かに揺れる。
開いた頁には、不揃いな向きのひらがなが、いくつも書かれていた。
その中のある一点を、一穂は指差す。
「キュイくんの、言葉です」
拓は目を見開いた。
そこには、辿々しいひらがなで「やまが へん」と書かれていた。
「……神さま、字を書けたのか」
「はい。先輩が出張の時に教えました。さすが神さまですね。キュイくん、めちゃくちゃ覚えるの早かったです」
掠れる拓の声を聞けたことに、一穂はほんの少しの安堵を覚えた。
が、本題はここから。
ここからが一穂の目的。神さまの言葉を拓に「見せる」のだ。
唖然とする拓に一穂は、今度は自身のスマートフォンを向けた。
画面に流れ始める映像。
小さな体でマジックペンを担いだ神さまが、スケッチブックにひらがなを書いていた。
『かえりたい』
「帰りたいって、静岡に?」
映像の中の、一穂の声だ。
その声に神さまは首を傾げるが、すぐに一穂は別の言い方をした。
『拓先輩とキュイくんの山に、かな?』
「キュイキュイ」
今度は何回も頷く、画面の中の神さま。
そして再びペンを担いで、神さまはスケッチブックの上を駆け始めた。
『やま みる』
「山、見る」
『やま まもる やくめ』
「山を、守る、役目……」
映像の中の神さまと言葉を交わすように、拓は映像の中の神さまが書いたひらがなを音読する。
『そうかぁ。よしキュイくん。来週、里帰りしよう!』
『キュイ〜!』
『私も行っちゃうぞー、キュイくんの山!』
『キュイキュイ〜!』
スマートフォンの映像は、そこで終わっていた。
そこでもう一度、先ほど一穂が差し出したスケッチブックを捲る。
映像の中で神さまが書いていた文字が、そのまま記されていた。
「里帰りはキュイくん、神さまの願いだったんです」
一穂の右目から、一条の涙が溢れた。
「キュイくんは、本当に神さまだったんです。あの山の、ダイラボウの神さまだったんですよ。でも」
「まさかキュイくんがあんな事をするなんて。私、考えもしなくて」
「だから、でも、やっぱり私のせいなんです」
一穂は、強く責任を感じていた。
里帰りを計画したのは、自分。
ならば、拓から
里帰りさえ強行しなければ、こんなことにはならなかったのだ、と。
しかし拓は、首を横に振る。
拓が神さまと呼んでいた、どろだんごの人形。
倒れた石の祠で見つけたから、幼い拓は神さまだと感じた。
けれど、一緒に横浜になんか連れてくるべきではなかった。
山から山の神さまを連れ出すなんて、してはいけなかったのだ。
拓にとっては唯一の友だちでも、山にとっては守り神だったのだ。
そう結論付けた拓は項垂れ、双眸から涙を落とす。
自分のせいだ。自分のせいで、山も神さまも。
後悔と自責が、拓の胸を痛いほどに締めつける。
「……ちがう、俺のせい」
「違いますよ」
突然温もりに包まれ、拓の胸の痛みが軽くなった。
拓が涙まみれの顔を上げると、一穂の顔が目の前いっぱいに映る。
一穂の華奢な腕は、柔らかく拓を抱きしめていた。
濡れた拓の頬に、一穂は自分の頬を寄せる。
涙が、体温が、伝わり合う。
「違うんですよ。キュイくんは、先輩が大好きだったんですから」
「どういう、こと」
「キュイくんは、ずっと昔に忘れ去られた神さまでした。でも」
拓のすぐ横で、一穂の大きな目から涙の雫が落ちる。
その涙は拓の頬を伝って、無精髭の顎先まで流れた。
「先輩が、見つけてくれた。先輩だけが、キュイくんを神さまだと言ってくれた」
一穂の両目から溢れる涙は、止まらない。
「そんな先輩が、キュイくんは大好きだった」
拓から顔を離した一穂は、涙の向こうの拓を見つめる。
「ずっとずっと、タクのそばにいたいって、言ってました」
濡れた一穂の双眸が、静かに閉じる。
そして、自嘲するように微笑んだ。
「私も、どうやってキュイくんが山を守るか、知りませんでした。もしあんなやり方だって知っていたら、全力で里帰りを阻止してました」
やがて一穂の顔から微笑みは消え、自分の唇を噛む。
「キュイくんだって、最初から自分を犠牲にしようなんて、考えていなかったと思います」
その時、拓は気づいた。
一穂の目が、赤い。その下には、
きっと一穂も、ずっと泣いていたんだ。
神さまがいなくなって悲しいのは、寂しいのは。
俺だけじゃなかっ……た。
悟った拓の目からは再び涙が溢れ出て、一穂の手に落ちる。
「けど、あれしかなかった。ああせざるを得なかった。土石流が車を、先輩を飲み込もうとしてたから」
一穂は、拓の叔母に聞いたあの夜の状況を話し始めた。
あの夜……上流で発生した土石流は、拓たちの車のすぐ後ろまで迫っていた。
その時に神さまが飛び去って、ダイラボウが土砂崩れを起こした。
拓たちが無事だったのは、ダイラボウの土砂崩れがダムの代わりをして土石流を堰き止めてくれたからだった。
一穂は祈るように呟く。
一穂の双眸に、再び大量の涙が溢れる。
「だからキュイくんは、先輩を守るために、生きてもらうために、山を崩したんです」
伝える一穂も、聞かされる拓も、つらい話。
けれど、知らなくてはいけない。
命の恩人の、小さな神さまの活躍を。
そのおかげで、拓も一穂も無事であることを。
それを胸に、心に刻み込む。
「じゃあ、神さまは……やっぱり俺のせいで、あんな目に」
しかし自責の念の強い拓の心は、一穂の言葉を曲解してしまう。
「やっぱり、俺のせいなんだよ。あの夜の大雨も、土石流も、神さまが消えてしまったのも。ぜんぶ俺のせ──」
「どうしてそうなるんですか!」
一穂の怒声に、拓の肩が跳ねる。
そしてまるで子どもに言い聞かせるように、優しく拓に語りかける。
「あんまりキュイくんの気持ちを舐めないでください。キュイくん、神さまなんですよ」
「だけど」
「キュイくんが忘れ去られている間も、ずっと山は無事だったじゃないですか」
「でも、それは。山に神さまがいたからで……」
「違うんです」
拓は、意味がわからない。
「神さまって、誰も信じる人がいないと、力を失ってしまうんです」
あの朽ちた祠の存在が人々の記憶から消えて、数百年。
神さまの力は、無に等しくなった。
それでもダイラボウが無事だったのは、自然の気まぐれに過ぎない。
「けれど先輩が神さまって呼んだから、キュイくんは神さまとして復活できたんです。先輩がいたから、キュイくんはこの二十年間、ダイラボウを守ってこれたんです」
神さま曰く。
拓が神さまを救い、復活させなければ、もっと早くに山は崩壊していた。
「キュイくん、言ってました。見つけてくれて嬉しかったって。先輩のおかげで神さまに戻れたって。いつも一緒で嬉しいって。ありがとう、って。何度も、何度も」
拓が目を閉じると、その瞼の裏に小さな神さまの姿が浮かぶ。
友だちがいない俺が小学校でいじめられた時、神さまはずっと拓の横に寄り添っていた。
中学でテストの点が良かった時、神さまは拓と一緒に喜んだ。
大学受験の時も、拓の合格祝いにふたりでみたらし団子を分け合った。
祖父の死も、神さまがいてくれたから乗り越えられた。
拓と神さまの歩んできた思い出のひとつひとつが、少しずつ神さまに力を取り戻させた。
「先輩は、そんなキュイくんの気持ちを、思いを、日々を、無かったことにしたいんですか!」
一穂の叫びに、拓は子どものようにイヤイヤと首を横に振る。
二十余年。拓の思い出にはいつも神さまがいた。
その思い出を、拓は否定などできない。
それは拓自身の否定に等しいのだから。
「ねえ、先輩。キュイくんも私も、先輩が大好きなんです」
一穂の細い手が、再び拓に伸びる。
「その気持ちを、今ここで理解しろとは言いません。けど」
白く華奢な指が、拓の涙を撫ぜる。
そして一穂は、涙を湛えた笑顔で噛み締めるように、拓に諭す。
「キュイくんとの、神さまとの思い出だけは、どうか大切にしてください」
その一穂の微笑みは、拓の記憶にないはずの母親の笑顔に似ていた。
──夏が終わり、冬が来て、新しい暦になった。
そして季節は、新しい夏を迎える。
「先輩、今年の静岡も暑くなりそうですね」
「ほんと、勘弁してほしいよな」
あれから、一年。
拓と一穂は、慌ただしい日々を送っていた。
そしてふたりはある決意を胸に、再度の里帰りを決行する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます