第2話


 僕こと「八木広伏」はシベリア鉄道を経たヨーロッパの観光旅行を終え、念願の大陸往復を果たすべく、寝台車「河底」に乗っていた。この列車の走る「黄河鉄道」は北のシベリア鉄道に対抗すべく、主に中国の出資でつくられた。北京を出発点とし、そこから西へゴビ砂漠や諸々の地形を超開発によりテラフォームし、イスタンブールまで無理矢理ぶち通した大陸横断鉄道である。


 ヨーロッパ諸国を満喫した僕は旅をしめくくる心持ちで「河底」に揺られた。食堂車でコーヒーをすすりながらデジカメに保存されたたくさんの思い出を眺めてはほくそ笑んでいた。

 写真には自分の姿は写っていない。三脚とタイマー撮影を使うと持ち主の離れた隙に置き引きに遭うと聞いていたからだ。

 それを何となく心寂しく思っていると、一枚の写真に目がとまった。いや、正確に言えば写真に写り込んでいた人物にだ。モスクワ、赤の広場で撮った写真。その中で一人の少女が、はっきりとカメラ目線を送っている。カメラをのぞいていた時には気にもしなかった。

 外国人にしては小柄な身体に丸っこい頭が乗り、ショートカットの髪は雪空のように色素が薄い。同じ色をした無感情な瞳がディスプレイ越しにこちらに視線を送っていた。

 他の写真では道行く人は背景かノイズでしかなかった。だがこうなるとどうだろう。引いたアングルで撮られた風景が、あたかもその少女を主役にして撮られたようにも見える。

 顔を上げて窓の向こうを見やる。列車は岩山に囲まれた荒れ地を走っていた。故郷が近づき、旅も終わる。写真の彼女もまた、幽かな思い出へと消えるのだろう。


 デジタルカメラをしまい、コーヒーを飲み干して立ち上がった。

 当分停まる駅もない。昼寝でもしよう……。


 「河底」はずいぶんと古臭いつくりのものだった。個室の寝台はなく、木造二段ベッドが左右平行に八つずつ並べられた開放式寝台のみが客車の設備となる。ケチといえば、まあそのとおりなのだが、それがどこか旅の風情を含蓄していて、有り体に言えば僕の趣味にあっていた。料金も安かったし。


 客車に戻ると。列車の走行音だけが無機質に響いた。カーテンはほとんど開いており、皆出払っていることがわかる。昼下がりだ、食堂車で軽食か、ロビー車で思い思いの時間を過ごしているのだろう。自分のベッドに向かうと下側のカーテンが閉まっていた。誰が使っているのかは知らない。自分はその上側で寝ているが、いつも僕より早く起きてどこかに行っていて、いつも僕より先にカーテンを閉めていた。


 気にならないと言えば嘘になる。せっかく同じ電車に乗っているのだから、あいさつくらい……旅に出会いはつきものだ。最後の思い出をこの列車でつくるのもいいじゃないか。

 しかし鍵こそついてないものの、カーテンを開くなんてとてもできない。僕は彼か彼女の眠りを妨げないよう静かに梯子を登り、カメラと財布を出して横たわった。

…………あと半日もすれば中国か。

 再びデジカメを起動して写真を眺めているうちに、手からカメラが滑り落ち、まぶたが降りた。



 轟音とともに意識が現実に戻された。人の悲鳴と、激しいブレーキ音が耳をつんざく。なんだなんだと思っていると、僕の身体がベッドをすり抜けたかのように落下した。


 なにが起こった? 前後不覚となった僕の頭には心臓がバクバクと鳴る音だけが響く。

目をなんどもしばたたかせ、今が夢か、現実か、見極めようと呼吸を必死で整えた。

…………とりあえず、自分の身に何が起こったかを解析した。どうやら僕のベッドはなんらかの衝撃で底が抜け、僕は下に落ちた……ようだ。無防備に転落したわりには身体のどこにも痛みはない。そういえば、何か柔らかいものの上に乗っているような……。


「…………」


 首をめぐらすと、目があった。雪空のような目が眠たげに開かれ、同じ色の髪は細く透き通るよう。柔らかそうな頬が少しむくれている。どこかで見た、なんて曖昧なもんじゃない。


「……あ…………!」


 頭の中を色とりどりの感情が飛び回る。息をするのも忘れそうだ。だが、まずは。


「ごめっ……ごめんなさい!」


 彼女の上に被さっている自らの身体を跳ね上げた。僕は上のベッドから転落し、下で眠っていた彼女の上に乗っていたのだ。まずそこまで頭の整理がついた。


「すみません、大丈夫で……あっ日本語通じないか!」


 僕がもちうる限りの言語とボキャブラリを用いて、錯乱気味に謝罪を続けているのを聞いていないかのように、彼女の目はぼんやりと僕を見つめている。


「…………」


 すると餅のような頬に朱が差し、目を細めるとこうのたまうのであった


「……日本人、意外とセッキョクテキ……」


「だああぁ! 違う、違うんだ!」


 僕も顔を赤くして取り繕うことと相成った。


「っていうか、日本語!」


「わたし、日本語だいじょーぶ。……でも、今はソンナコトをしている、バアイじゃなさそうだヨ」


 そう言って起き上がると、なんとも子どものようなパジャマ姿だった。


「この列車……何か起こったみたいヨ」


「……! そういえば」


 僕がこうして彼女のベッドに飛び込むことになった原因。衝撃と爆発音。


「列車が止まっている……?」


 先ほどから揺れも線路を走る音も聞こえない。カーテンを除けて窓の外を見るが、周囲には荒れた大地しか見えない。

 前側の車両の方からは今も悲鳴や怒声がかすかに聞こえてくる。

 僕と入れ替わるように窓に顔をつけた彼女は――


「あ、君、名前は?」


「アンナ・カスマデミンスカヤ。アーニャと呼んでください」


 ――アーニャはその窓を開いて、首を車両の外に出してキョロキョロと見回した。


「あ」


 何か見つけたらしく、電車の中に残した手をひょいひょいと動かして僕を誘う。アーニャが首を抜くのを待っていたら手探りで首根っこをつかまれ、窓に引きずり込まれた。いでででで。


「見て。先頭の方」


 見て、と言われても今首を回すと君の頬と僕の頬が激しく擦れ合うことになるんだけれど。

 頬に温かくて柔らかいものと首にギシギシとした痛みを感じつつ、彼女の示す方を見る。先頭の1号車の横に砂埃に汚れたピックアップトラックが止まり、そこから降りたと思わしき黒い頭の集団が運転室に詰め寄っている。よく見ると髪が黒いわけじゃなく、皆、黒の目出し帽を被っていた。


「なんだ、あいつらは…………?」


「どうやらタダゴトじゃなさそーネ」


 と、まるでタタゴトのように言うアーニャ。


 大きくなっていく自分の心臓の鼓動音を聞いているうちに、先頭車のドアが開かれ、そこに例の男たちが乗り込んでいく。そこで僕のハイビートの心臓はきゅっと止まったかと思われた。

 男たちは五人。皆、自動小銃か短機関銃で武装していた。


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