第三章 朱蜂宮(しゅほうきゅう)
十四話 西苑統括、司午翠蝶貴妃殿下は上機嫌
後宮である。
「このたびは、わたくしめのような非才浅学の小人(しょうじん)を、かような貴き園にお招きいただき、誠に幸甚のいた」
「あーもう待ちくたびれたわよ! どうでもいい挨拶なんて抜きにして早く入って顔を見せてちょうだい!」
皇帝陛下のおわします、皇都、河旭城(かきょくじょう)。
その北部に特別に区切られた、皇帝の宮殿域。
後宮はその内部にあっても、更に特別な庶人(しょじん)禁足(きんそく)の地である。
大勢の高貴美麗な妃(きさき)と、そこに仕える侍女たちが蟄居するその建物は「朱蜂宮(しゅほうきゅう)」と呼ばれる。
麻耶(まや)宦官の案内で、そんな恐れ多い場所に入って。
「え」
丁重に、無礼のないように。
これから私がご奉仕すべき司午(しご)翠蝶(すいちょう)貴妃殿下のお部屋の前で、挨拶をしようと思ったのである。
「いいから早くして! 今日あんたが来るって聞かされて居ても立ってもいられなかったんだから!」
扉が開き、中から数人の先輩侍女さんが出てくる。
私は両腕を抱えられるように拘束連行され、部屋の奥にいる、大声の主の前に引っ立てられる。
「あら本当に似てるわね! これなら上手く行くわ!」
ふわふわの毛皮を表面に張ったデカい椅子に座る女主人は、私の顔を見て、大喜びしていた。
この人が玄霧(げんむ)さんの妹君、翠蝶貴人なのだろうか。
彼女は私が混乱しているのもまるで意に介さず。
「やっておしまいなさい!」
周囲に控えた侍女に威勢良く、手をヒュッと掲げて指令した。
わさわさ、と女たちがうごめき出す。
「失礼、お顔を剃らせていただきます。動くと切れて、血が出ます。目が潰れるかもしれませんよ」
「は!?」
私の横に立つ侍女の一人が、そう言って私を長椅子の上に、引きずり倒すように寝かせた。
もう一人の侍女が、キラリと光る、よく切れそうな剃刀を持って立っている。
「うぐっ」
本当に容赦なく、侍女たちは私の顔の毛を剃り始めた。
これは、動くと殺(や)られるやつだ。
私の顔面は生暖かい油を塗りたくられ、剃刀の刃はそれでも優しく当てられて。
「エッ」
「静かに。動かないで」
眉毛まで、全部剃られてるんですけど!?
そのまま体勢をひっくり返されて、耳の横の産毛や、うなじ周辺も、綺麗につるんつるんに。
「次はお化粧です」
侍女さんが床屋の蒸しタオルのように、超あっついお湯を含んだ手拭いで私の顔面をゴシゴシ拭いて、化粧台の椅子に私を座らせた。
「あ、あの、一体なにが始まってるんです?」
私の質問に答える人は誰もいない。
侍女さんたちはパタパタと私の顔に粉を打ち。
眉毛を書き直し。
頬や唇に紅色を差し。
真珠粉のようにキラキラ光る粉末を、顔の各所にペタペタと押し当て。
アイラインを引いて。
まつ毛を二倍盛りに濃く繁らせて。
「翠さま、これでよろしゅうございましょうか」
背が高く恰幅のいい侍女さんが、化粧の終わった私の顔を、翠蝶さまの面前に突き出した。
「そうねえ」
私の顔をまじまじと近距離で眺めて、この横暴な女主人は。
「ほっぺたが薄いんじゃない? あんた綿でも口に入れてみなさいよ。そうすればちょうどよくなるわ」
骨っぽくて顔がふっくらしていない私のコンプレックスを、真正面からえぐった。
「な、なにをむぐっ」
異論の隙もなく、脇に立つ侍女さんから、綿を口に詰められる。
気分はリス。
あるいは無理矢理にエサを口に入れられて太らされるガチョウ。
口に綿を含んで、再度の審判を私は受ける。
「いいんじゃな~い? 鏡持ってきて!」
貴妃殿下、ご満悦。
侍女さんが持って来た円形の大鏡を私の顔に向けて。
「ほらこれが今のあんたの顔よ!」
実にいい笑顔で、私に鏡を見るように促した。
そこには見事に華やかな化粧を施されて、ほっぺたも適度に丸く柔らかそうになった、まるで別人の私。
「そしてこれがあたしの顔!」
鏡を避けて現れた、翠蝶さまのいたずらっ気満面の笑顔は。
「お、同じ!?」
私と翠蝶貴妃殿下は、顔のつくりが、特に目鼻立ちが、よく似ていたのだった。
いや、似ているとかのレベルを超えている。
化粧をして、ほっぺたを膨らませるだけで、遠目ではまるで見分けがつかないくらいに、瓜二つだ。
「そうなのよ! 玄兄(げんにい)さまからあんたの話を聞いて思ったの! 絶対にあたしの侍女にするって!」
大喜びではしゃぎまわり、長い袖を振り乱しながら部屋の中央でくるくると踊る、翠蝶貴妃。
いや、自分に似た顔の人間を、そんなに自分の近くで働かせたいもんか?
変わった趣味の人もいるんだなー、と私が半ば呆れていると、彼女はとんでもないことを言い出した。
「あんたを身代わりに宮中に置いておけばあたしはいつでも外に遊びに行けるわ! あーこの日をどんなに待ったことか!」
「なんですと?」
「なんでもへったくれもないわよ。あんたはこのために後宮に呼ばれたのよ!!」
要するに、そういうことらしい。
翠蝶貴妃はご覧の通り、お転婆レベルがカンストしているようなお方。
当然のように、閉ざされた後宮の暮らしにストレスが溜まる。
特に、皇帝のご寵愛を受けておられない暇な時期が続けば、それはなおさらである。
「あたしが主上に相手にされてないってわけじゃないのよ? でも女にはどうしても月の障りがあるじゃない?」
「え、あ、はい、そうですね」
いきなり生々しい話になった。
主上というのはもちろん、皇帝陛下への敬称である。
妃が月経、生理期間にある前後は、皇帝はその妃を寝室に呼ばないし、部屋に遊びに来ることもない。
その禁止期間は、万全を期して長めにとられている。
生理が終わって、生理痛が軽く済んで体調が良くても、皇帝とイチャつけない日が長くある、ということだ。
「どうせ主上からお声がかからないんだからあたしは外に遊びに行きたいのよ。でもそのためにはあたしの代わりにここに座って知らん顔してやり過ごしてくれる身代わりが必要なのよね」
私が後宮の、司午翠蝶貴人の侍女に抜擢された理由は、それであった。
顔が似ている。
だから、影武者になれる。
「なんだその安直な発想!」
と、危うく声に出すところであった。
百歩譲ってわかるとしても、マジ説明しろや玄霧の野郎!!
ちょっとイケメンだからって、言葉が少なくて許されると思うなよ!!
「そういうことで、ございましたか」
私、すっかり脱力。
化粧を落とさないままの、翠蝶さまと同じ顔で、がっくりとうなだれた。
「あははは! 見て! あたしと同じ顔の子が肩を落としてしょげてるわ! こんな光景滅多に見られないわよ!」
なにが楽しいのか、翠蝶さまの笑い声は、夜までずっと絶えなかったのであった。
私の勤めることになった後宮、西苑(さいえん)と呼ばれる区画の一室は。
笑顔の絶えない、アットホームな職場です。
「お話はまとまったようでございますな」
就寝前の業務連絡みたいなタイミングで、麻耶さんが顔を出した。
当然この人も、影武者作戦を知ってて、私をここに連れてきた、言わば共犯である。
「少しくらい、事前に教えてくれたって、良かったじゃないですか」
私は抗議と不機嫌の意志を隠さず、ブーを垂れた。
ここに来るまでの道中、大まかな後宮の様子やしきたりを麻耶さんは教えてくれたけど、こんな計画であるとは少しも匂わせなかったのだ。
「朱蜂宮の外でかようなお話をいたすわけにも参りませぬ。どこで誰が耳を立てているかわかりませぬので」
「ってことは、この作戦は翠蝶さまと、限られた周囲の人しか、知らないってことですね」
影武者なんだから他人にバレていいはずもないけど、一応の確認。
「その通りでございます。もっとも、主上におかれましてはご承知、ご理解いただいておりますが」
「あ、皇帝陛下はご存じなんだ」
さすがに一番偉い人に、こんなバカげた隠し事はできないか。
許可を出した皇帝も、一体なにを考えておられるのやら。
やんごとなきお方のお考えになることは、下々の身にはわからん。
わからん方がいいけどね。
今の段階ですでに自分のキャパを超えるくらい、ややこしい。
「天に則(のっと)り、地に安んずれば、即ち万事足る。そう泰学(たいがく)にもあります。こだわりや迷いはひとまず脇に置かれまして、誠の心を尽くして宮中の務めに励まれますよう」
私の混乱をなだめるように、麻耶さんは泰学の引用からありがたい訓戒を口にして、去って行った。
あるがままを受け入れつつ、あるべき立場を弁えよ、ということだろうか。
私の果たすべき役割。
私がここにいる理由。
「まずは、明日のためにも、しっかり寝よう」
後宮生活における覚えるべき情報、慣れなければいけないしきたりは山積みだ。
体力を万全に回復して朝を迎えるため、断固たる決意で寝室に向かう、その途中。
「ちょっと央那(おうな)! 眠れないからなにか退屈極まりない話でもしてちょうだい!」
奥から翠蝶さまの、夜中だというのに実にご機嫌な大声が響いたのだった。
今はこれが私の役目なわけか、なるほど。
呼ばれた私は翠さまの寝室におずおずとお邪魔する。
さて、極めてつまらない話とはどういうものか。
軽く考え、次のように切り出し。
「広い海のどこかに、タコの足と吸盤を持ったサメがいるという話がありまして」
「ちょっとそれ面白そうじゃないの! 気になって仕方がないわ! これ以上眼が冴えたら困るのよ!」
見事、話題の選択を間違えたのであった。
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