第15話 何者かが後をつけて来る


 イギリスの産業革命は、まだ1世紀も2世紀も後の話だ。

 しかし秀矩に話しかけて来る太郎兵衛と仁吉の話を突き詰めていけば、それは日本の産業革命にも繋がるのではないか。もちろんそんな言葉はまだ無いが、秀矩は可能性の広がりに、胸が熱くなるのを感じていた。

 蘭学は、長崎から日本に入ったヨーロッパの学術・文化・技術の総称であった。オランダの書物を読み始めた当初は蛮学(南蛮学)と呼ばれ、蘭学に変わり、明治以降は洋学と名称が変わっていく。だが、そんな海外の新しい技術よりも、もっと肝心な事は、何かを決定する際の考え方ではないかと秀矩は思うのだ。

 あの方が残されたものは未来の情報だけではない。きっと今の時代の者が持っていない、新しい考え方を置いて行かれたのではないか、そう思い始めたのだった。


「造りましょう。学習処では太郎兵衛殿も仁吉殿も講師をなさって下さい」

「…………」


 寺子屋で職業訓練をさせたいという仁吉の発言を、秀矩は熱く受け止めていた。


「それからパイン殿には、海外の講師を紹介してもらいます。いや、パイン殿自身にも教えを請いましょう」


 イングランドに若者を留学させる話は既に進んでいた。人選も済み、来年には交易船に乗る段取りになっている。大坂城下の学習処に関しては、日本中の大名に趣旨を説明して、協力するように要請してある。すでに全国から学習を希望する者が殺到していたので、留学させる者もその中から選ぶ事になった。







 安兵衛の館では、庭に落ち葉が舞い始めていた。コンスタンチノープルは秋の気配が冬に変わろうとしている。


「寒くはないですか?」

「いえ、あなたの側ですから、ちっとも」


 安兵衛と並んで散歩するミネリマーフは微笑む。いつまでも丁寧な言葉使いを変えないふたりだった。後ろから今ではもう慣れてしまったが、特に指示しない限りミネリマーフの侍女が付き従っている。


「実は前からお聞きしようと思っていたのですが、貴女の祖国はモルダビア公国だったのですね」


 モルダビア公国は16世紀に、北上してきたオスマン帝国の勢力と戦ったが、敗れ従属国になった。その戦の際捕らえられ、奴隷として帝国に運ばれて来た貴族の女性がいる。その後身ごもり生まれた娘が、ミネリマーフの母親だった。


 オスマン帝国が妃や側室を奴隷から選ぶ最大の理由は、外戚の力をなくすためであった。外戚とは妻の親兄弟親戚で、皇帝が操り人形になるのを阻止しようとした。そのためには身寄りのない奴隷の方が都合がいいと言う事になる。

 オスマン帝国はイスラム教国であり、イスラム法がある。これは王でも守らないといけない。イスラム法で妻は4人までと決められており、王も妻は最大4人なのである。だが王の場合、跡継ぎを残すのにそれでは不安がある。そこで女性の奴隷が必要とされた。奴隷は妻ではないので人数制限はない。財力があれば数を増やしてもかまわないわけだ。


 オスマン帝国の奴隷は、主に戦争の捕虜を連れ帰って奴隷にする。領土拡大が落ち着くと戦争は減るが、イスラム教徒の海賊が地中海でとらえた捕虜をオスマン帝国に売っていた。彼らはオスマン帝国に送る目的でキリスト教国に対して略奪行為を行っていたのだ。ハレムにヨーロッパの女性が多いのはそのためである。また中世から近世のヨーロッパ・中東には奴隷商人がいて、オスマン帝国以前からイスラム社会には奴隷売買の市場があった。そしてそこで買われる女性がハレムに来ることも珍しくはなかった。


 奴隷なのに皇后にまで上り詰めたという有名な女性ヒュッレムは、奴隷市場で売られていた。彼女を買ったのが宰相のイブラヒムで、皇帝スレイマン1世に献上したのだった。奴隷商人から買われた少女たちは施設に集められて語学教育を受け、イスラム教や、様々な教養を身につける。教育を受けた女性たちは。宮廷で働く侍女、高官に与えられる人、皇子や皇帝のハレムに行く人など選別が行われ、ヒュッレムは皇帝スレイマンの寵愛を受けるまで競争を勝ち抜くのだった。略奪された者でも容姿の良い貴族の娘などは、さらに高い教育としつけを施されて皇帝の側室に入る事が多かった。ミネリマーフの家系もその例にもれなかったのだ。


「私ももちろんですが、母も祖国の事は全く知らないんです」

「…………」

「今ではこの国が私の祖国のようなものです」


 ミネリマーフがヤスべの顔を見た。


「ヤスべ様のお国の事も話して頂けますか」

「そうですね……」


 安兵衛は話が苦手だった。特に女子とは。


「日本の女性は綺麗な方が多いと伺っております」

「いや、私には良く分かりません」

「え、何故ですか?」


 しきりに日本の女性の事を聞いてくるミネリマーフに、安兵衛はたじたじだった。その時、


「ヤスべ様」


 召使が宮殿から使いの者が来ていると言って来たのだ。安兵衛は正直ほっとした。


「分かったすぐ行く」


 宮殿からの使者は、ムラト4世がお呼びだと言って来たのだ。安兵衛は愛刀を掴んだ。

 皇帝ムラト4世が知識人や宮廷人、さらには軍人から市井の人々までを驚かせた決定がある。それは異教徒であるはずの安兵衛を側近として、常に帯刀を許し傍に置いた事である。戦時でもないのに、玉座に座る皇帝の横に帯刀して立つのである。これには宮廷内部でも一波乱起きたのだが、ムラト4世は引かなかった。



 宮廷に入ると、後宮宦官長が声を掛けて来た。


「これはヤスべ様、陛下がお待ちで御座います」

「分かりました。お願い致します」


 宦官長が先に立って歩いて行くのだが、途中で大宰相と出会い会釈をした。宮廷では、サドラザムとよばれる大宰相がいて、その下には次席大臣がいた。大宰相は能力と努力次第では、低い身分の者でもその地位に上り得る。奴隷から成り上がる者も居た。典型的な能力主義で、オスマン帝国の強みはそこにあった。

 ターバンを被り、長衣カフタンをまとって正装した宰相達は皆ひげを蓄えていた。ただし、スルタンの逆鱗にふれれば、突然の解職、さらには死を賜る危険性もあった。

 時折後ろを気に掛けながらしずしずと歩く宦官長。やがて奥まった部屋の前に着いた。


「ヤスべ様です。陛下にお取次ぎを」


 部屋の内外で、作法通りの所作をする者達が居て、


「通せ」


 中からムラト4世の声が響いて来た。

 安兵衛は部屋に入る。さらに奥まった場所にムラト4世は居た。

 手招きされ、傍に行くと、


「ヤスべ」

「はい」

「どうだ、ミネリマーフは気に入ったか?」

「はい、有難う御座います」


 ムラト4世は満足げな表情を浮かべると、もっと近くに来てこれを見ろと手を伸ばして来た。その手のひらには信じられないような大きさで、赤く輝く宝石が乗っていた。


「キリスト教徒どもが持っていた物だ」

「…………」


 スルタンは宝石のコレクターでもあるのだった。だが、ムラト4世はすぐ表情を変えた。


「ヤスべ」

「はい」

「これより大臣達と会議がある。付いて参れ」

「はっ」


 あまり飾り気のない部屋に入ると、そこには既に数人の大臣達が並んで立っている。玉座に一番近い位置に立つのが大宰相だ。

 ムラト4世が玉座に座る。

 だが安兵衛が大臣達の末席に立とうとしたその時、


「ヤスべ」


 ムラト4世の指が玉座の横を指さした。戸惑う安兵衛に、大臣達の視線が集中する。スルタンの指示は明かに玉座の横に立てと言う意味だ。だがすぐには動けなかった安兵衛に、


「何をしておる、常に私の傍に居ろ言ったではないか!」

「はっ」


 その叱責はムラト4世の気遣いでもあった。大臣達にこの先余計な口出しをさせぬ為にも、こうして傍に来させたのだ。これで大臣達は何も言えなくなった。安兵衛の行為に口を挟む事は、ムラト4世に意見を言う事であるからだ。会議ではバクダードへの侵攻時期について議論され、後は酒場で喫煙が後を絶たないと言う報告がなされた。ムラト4世のタバコとコーヒー嫌いは徹底していた。


「酒場を見回り、喫煙をしている者は片っ端から捕えてしまえ。それから夜間の外出は禁止だ」


 イスラムの国は今でも酒たばこを禁止していて、夜の街と言うものも無いようだ。安兵衛はもともと酒は飲まないしタバコも吸わないので、よそ事のように聞いていた。コーヒーと言う物も、まだ飲んだ事が無い。会議が終わると安兵衛はムラト4世の供をして、最初の部屋に戻って来た。


「ヤスべ」

「はい」

「今日はもう良い。ミネリマーフの所に帰ってやれ」

「有難う御座います」


 宮廷から安兵衛の館までは、男の足なら何とか歩いて行ける距離だ。日が暮れる頃には着けるから、馬などを使う必要はない。

 だが、その道すがら、安兵衛は気配を感じた。何者かが後を付けて来る。

 盗人暴漢などを恐れる安兵衛ではないが、相手が誰で何が目的なのか気になった。

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