東京『の』大学に行きました。

ミコト楚良

浪人生活のはじまりは恋の

 玄関を出るとき、外に人の気配がないか、うかがう。1軒はさんだところのヨネダさんにつかまってはことだ。

 一気に門を抜け、いちばん最初の通りを抜けきらねば。


 門と言っても、建売住宅の門はオープン外構ゆえの立札のようなものだ。

 うちは、その建売群の左から2番めだ。ヨネダさんの家は、建売住宅が畑だったころから、ある。母は、ヨネダさんの家を〈関所〉、または〈干渉地帯〉と呼んでいる。


「あらー、今からお出かけ?」

 ぼくは見えない腕に肩をつかまれた。


「……おはようございます」

 午前11時に、むなしい朝の挨拶。

 振り向くと、予想通りのヨネダさんだ。


「いまどきの予備校って朝からじゃないの~」


(いえ……、それは、ぼくが文系志望にしぼったせいです)

 そんな己をも傷つける文言を、ヨネダさんに言った日にはバスに乗り遅れる。

「それではっ」

 ヨネダさんに、どう思われようと知ったことか。

 ぼくは駆け出した。




 予備校は駅前にある。

 バスで12分程度の道のりだ。

 今年の桜は、もう葉桜になっていた。


 中途半端な時間にバス停で待っている人はいない。1時間に2本の駅前行きのバスに乗り込むと乗客はバス前方に帽子の人、ひとりだった。なんとなく、後ろの席にする。

『ご着席いただきました。発車します』

 バスのアナウンスが流れた。


 もう2つバス停を過ぎたら終点というところで、ぼくは小銭入れをジャンパーのポケットから出した。

(定期券買うほどでもないから、回数券買わないとだな)

 バスの中でなく、駅前バスターミナルのバスセンターで回数券は買ってね、と母からのお達しだ。領収書がいるそうだ。

 そのとき、バスが、かすかにブレーキをかけた。

「あっ」

 指から、つまんでいた10円玉が落ちた。

 硬貨は足元へ、あっという間に転がって行った。

 声が大きかったのか、バスの前方に座っていた帽子の人がふりむいた。


 信号でバスが止まった。

「あの。後ろの人が小銭を落としたみたいです。駅前に着いたら探してもいいですか」

 バスの運転手に言ってくれたのは、その人だった。


 終点の駅にバスがついた。

 10円玉は、車内前方まで転がっていた。

 その人が硬貨をつまみあげて、「はい」と手渡してくれた。

「あっ、ありっ(がと)う」

 ぼくは、どぎまぎして、おかしな礼を口走った。

 てっきり、こんな時間にバスに乗っているのは婆さんだろうと思っていたら、女子だったからだ。


 女子が降りた後、ぼくは、ぼぉっとしてしまって、「お客さん?」とバスの運転手さんに呼ばれてしまった。



 そして奇跡の再会をした。

 彼女も、また同じ予備校の生徒だったのだ。


「この間は、ありがとうございました」

 1ヵ月もたってから、ぼくは勇気をふりしぼって、休憩室に、ひとりでいた彼女に声をかけた。彼女は、ぼくのことを忘れていたようだ。

「バスで。10円玉」と言うと、「あ」と、思い出してくれた。ふにゃりとした笑顔に、ほんわりした。


 それから、挨拶するようになって。

 話すようになって。

 自習室で隣に座って自習したりして。


 早い話、ぼくは彼女に恋をしていた。

 どうして、その前に彼女の志望校に気がつかなかったんだろう。 

「第1志望、どこ?」

 気軽に聞いて、打ちのめされるとは。


「東京大学です」

 小さな声で言うと、彼女は赤い表紙の分厚い過去問本かこもんぼんをぼくに向けた。『東京大学』と書いてある。

東京トウキョウ——」

 ぼくは耳を疑った。

 いや、そういう人たちが存在することは知っていた。


「昼近くのバスに乗って予備校に来てたし? し、し私大狙いかと勝手に」

 ぼくは、しどろもどろになっていた。


「たまたま?」

 彼女は、ふにゃっと、ほほえんだ。

 それ。その、ふにゃあっとした笑顔。いかにも、現役のとき、第1志望の私大に10点足らなくて不合格だったという、ほほえみじゃなかったんだ。

 ぼくの第1志望校が彼女の〈安全圏の大学〉だった。



(もう、だめだ。もう、だめだ)

 ぼくは模試の結果でD判定が出たときと同じく落ち込んだ。

 告白する前に終わった。



 国立トップ難関コースの彼女と、私立難関文系コースの、ぼくとの予備校スケジュールは合わない。

 それでも、ぼくらは友人にはなった。

 ライン交換までは、こぎつけた。

 だけど、これ以上はどうにもならない。


 夏休みに取る講座も彼女とぼくは、まったくかみ合わない。

 冬休みに取る講座もだ。

 でも、新幹線で3駅向こうの、でっかい予備校本部の講座に行く日が重なって、その日は、お昼をいっしょに食べる約束をした。

「都会に行くの、心細かったんだ~」と彼女は言った。

「それで東京トウキョウ行ったら、もっと都会だよ」ぼくも内心は、びびっていた。


 彼女は1月の共通テストを戦う。私大は共通テスト利用で狙う。

 共通テストの会場が現役の時と、まったくちがった場所で、「それ、どこ? どう行くのさ」という、そこそこ遠くの大学であったと彼女からラインが届いた。

 もしかして、現役生が近くの大学に案内されるのかもねぇ。

 彼女は、ぼやいていた。浪人生に世間はキビしいね。


 ぼくと彼女の共通点は、浪人生であることしかなかった。


 彼女は、ぼくと話すと、ほっとするのだそうだ。

 それは、ぼくの性格が好ましいとかでなくて、競争相手ライバルじゃないから力を抜いて接することができるということではないのか? ぼくは自嘲した。

 ぼくは、ぼくで彼女と話していると、上の人はいるのだと、自分を鼓舞する心と、あきらめの心がせめぎあった。

 

 もし、スーパーミラクルが起こって、ぼくが難関トップの私大に合格したら、彼女に告白する権利を得るだろうか。こういうカタカナ英語を使っている時点で、もうダメっぽい。


 敬愛する講師は、「みんな、浪人したからにはって志望校、あげたがるけどね。去年、落ちたところに合格すれば、万々歳なんだよ」と言う。

 敬愛していない講師は、「——第1志望は早稲田です! ぐらい公言できないと。だいたい2ランク下に落ち着くからね」と。


 もし、合格したら告白する勇気は、わくだろう。

 いや、合格もしないで告白って、言われた方が困るだろ。

 せめて、彼女をいたたまれない気持ちにすることは避けたい。



「わー。東京冒険旅行だねぇ」

 彼女は、ぼくの受験スケジュールを見て感嘆の声をあげた。

 受験日の前日入りするから、3泊4日の上京が2回。

 1回の上京で2校、受験。地方受験のない大学もあるせいで、なぜだか関西圏の大学の受験を東京で受ける。学部で受験日がちがうから、地元でも関東圏の大学の地方受験。地元中堅私立大学も、もちろん受験する。


 国立1本にしぼっている彼女のスケジュールは、比べればシンプルだ。



 どうして、どうして、ぼくらは知り合ってしまったんだろう。

 父が休日に自称書斎(押し入れリフォームした場所)で聞いていた曲が、耳から離れなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る