03 微睡

 下拵えを終えると、あとはやっておきますので、とアンに厨房から追い払われてしまった。時間になったら食堂までお越しくださいとのことだが本当にひとりで大丈夫なのだろうか。

 後ろ髪を引かれながらもとりあえず自室に戻ったシルフィールはいつにない倦怠感をおぼえ、ごろん、と寝台に寝転んだ。


「薔薇の一族、かあ……」


 ルイ・ローズレイはシルフィールの首筋を噛み、流れ出た血を啜った。


 その行為は俗にいう「吸血鬼」そのものの行為である。だがアンいわく、その呼び名は彼ら「薔薇の一族」にとって――おそらく、ローズレイ公爵家の父子おやこどちらもを指すのだろう――侮辱足り得ると。


 考えれば考えるほどに、自分の置かれた状況が危ういことに気付かされる。

 怪物公爵の花嫁――正確にはの花嫁、であるのだけれど。くそう、シルヴィアめ。イヴェル家の連中め、憶えていろよ。と内心、悪態を吐きながらシルフィールは目を閉じた。

 

 どうやら、そのまま微睡んでしまったらしい。

 時間の経過は察しているのだが、まだ目を開けるのが億劫だったのでシルフィールは寝返りを打った。かーん、とどこからともなく乾いた鐘の音が聞こえてきた。おそらくこれは夕食の合図なのだろう。

 いままではそういう決まりもない、あまりにも自由すぎる生活だったわけだが――少しずつルールが増えていく。それを歓迎すべきかどうかはまだわからない。


「うー、頭が痛くなってきた……」

「ふうん。馬鹿でも頭って痛くなるんだね」


 ふいに頭上から声が降って来て、シルフィールは瞑っていた目をかっと見開いた。

 ぱさ、とシルフィールの頭の横のシーツを圧す掌の音がやけに大きく響いた。

 青白い手が、すぐそばににょきっと生えていてぎょっとする。そのまま視線を上げれば、顔色がすこぶる悪い美少年が、シルフィールの顔を覗き込んでいた。


「る、ルイ様……? いつの間に此方に⁉」


 どっどっど、と激しく心臓が鼓動している。これはときめきではなく恐怖と驚きの方のドキドキだ。間違いない。


「あんたが来ないから呼んで来い、って言われて来てやったのに。迷惑そうな顔されるのも癪だなあ」

「そそそれは失礼いたしました、ご気分を害したようで申し訳なく……」

「んふふ。冗談だよ、やあこんばんは俺の【蕾姫】。良い夜だね」

「……いま、夜なんですか?」


 何気なく尋ねると、ルイは興味深げに紅い目を細めた。


「ああ、あんたにはわからないか……不便だね、人間って」


 さも自らが人間ではないかのような口ぶりにシルフィールは胸の中がもやついた。薔薇の一族、薔薇様。何者だというのか。怪物、という頭の中に浮かんだ単語を打ち消し「ルイ様」と彼を呼んだ。


「起こしに来てくださってありがとうございます」

「……腹が減ったからね、俺も。起きてるだけで腹が空く、まったく厄介だ」


 ぱっと軽々と身を起こしてルイは寝台から離れた。

 さすがに今日は寝間着ではないようで、漆黒のジャケットにバーガンディのクラヴァットを合わせた夜会服のようなものをお召しになっていた。

 あ。

 寝転んだせいでしわになった衣服を慌てて伸ばしているのシルフィールを見て、ルイは声を殺して笑っているようだった。


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