廃液と沙智子

北見崇史

廃液と沙智子

「おい、ガキがしつけえぞ。邪魔くせえ」

 安物のソファーでだらしなく寝そべっている金髪男の足に、幼女がちょっかいを出していた。好奇心旺盛で遊び心に富んだ女の子は、かまってほしくて仕方がない。ただし、幼いがゆえに絡むべき相手を査定する能力には欠けていた。

「サチッ、やめな。イライラするわ」

 そう叱った女は、幼女の母親である。寝そべっている若い男と同じように金髪であり、口元に大きな吹き出物ができていた。

「沙智子っ、ぶっ叩くよ」

 幼女の名前は沙智子という。無謀にも、まだ男にじゃれつこうとしていた。

「しっかし、コイツ、ぜんぜん可愛くねえな。どこのバカが父親だよ」

 その呟きに女は答えない。雑に染められて枝毛だらけの髪の毛をしきりといじっていた。

「ほらほら、ほーらよ」

 金髪男が足を振ってふざけている。かまってもらえることが嬉しくて、沙智子はキャッキャと黄色い声をあげていた。

「だから、邪魔くせーっ、ていってるんだっ」

 突如、金髪男の態度が豹変し、足にしがみついている幼女に喝を入れた。

 大人の蹴りにぶっとばされて、沙智子がコロコロと転がってゆく。三回転ほどして壁に激突して止まった。後頭部をぶつけたらしく、頭を抱えて唸っている。石膏ボード壁なので大事には至らないが、まだ骨が成長しきっていない子供には注意が必要だ。 

「ちょっとー、壁に穴開けるなよー。大家に弁償しなくちゃならないっしょや」

 沙智子が泣き出そうとしていたが、母親がつかつかと寄ってきて頬をおもいっきりぶっ叩いた。パチーンといい音が響いて、幼女がふせってしまう。

「あんたがしつこくすっから、ぶっとばされるんだ。ざまみろっ」

 怒りを見せつけながら、二度三度と幼女の頭をぶっ叩いた。沙智子は泣き出すタイミングを狂わらされてしまい、少し戸惑い気味である。

「あーあ、ヒマだからスロでもやってくるわ。ちょっと金借りっぞ」

 脇腹を掻きながら金髪男が立ち上がった。女の癇癪にも暴力にも興味がなさそうであり、ガラステーブルに置いてあった真っ赤な財布から札を三枚抜いた。

「あ、それダメだって。今月カスカスなんだから」

「ああーっ、借りるだけだろう。すぐに返すからよ」

 男はさらに一枚を抜くと、口をチャッチャと鳴らしながら出ていった。女は言い返さなかったが、ブツブツとひとり言を吐き出していた。

「おまえがピーピーしつこいからだ。っこの」

 さらにもう一発、沙智子を叩いた。ここでようやく泣き始めるが、その声が癪にさわったようで、母親の目がヒステリックに吊り上がった。

「こっちきなっ」

 髪の毛を鷲掴みにされて、汚れとシミだらけのスエット上下姿の幼女が引きずられてゆく。母親がベランダのサッシ窓を開けて、蹴飛ばすように放り投げた。外は小雨が降っていている。季節はまだ早春であり、夕方の風は冷たかった。

 ガラス戸の向こうで沙智子が泣きじゃくるが、母親は知らん顔でカップめんを食っていた。雨と涙と鼻水でふやけた幼顔に、濡れた髪の毛が海藻のように貼り付いていた。汚れたスエットが雨水を吸収してさらに体温を下げる。それでも保護者は気にすることなく、スマホをイジっていた。

 泣き続けていた幼女は、寒さと疲れからおとなしくなっていた。ベランダ越しに隣人から苦情が来て、母親は悪態をつきながらようやく娘を家の中へ戻した すでに陽が暮れてしまっている。沙智子はびしょ濡れであり、その小さな体から雨に濡れたアスファルトの臭気を放っていた。

「大人しくしてな。うるさくするんじゃないよ、イライラするから」

 部屋の中へ戻されても、着替えをされることはなかった。濡れたまま放置である。

 沙智子は体が冷え切り、お腹が空いていた。ガラステーブルにある母親が食べ残したカップめんを、愛おしそうに見ていた。 

 麺と具材はおおかた食べつくされてしまったが、どんよりと醤油色に濁った汁が残っている。冷めてしまったが、香味漂う油膜があって、食べ物としてのポテンシャルをまだ保っていた。

「ふんっ、食いてえのか」

 母親の問いにコクリと一回首をたれた。許可なく一滴でも口にしたら、どんな仕置きをされるかわからない。沙智子は待っているしかなかった。

「かー、っぺ」

 その汁の中へ痰を吐き出した。タバコのヤニで若干茶色く汚れたそれは、生ぬるく冷めた醤油汁には溶けず、かすかな波紋をたたせながらポツンと浮いていた。 

「ほら、食っていいぞ」

 母親がカップを持って床に置いた。犬のように四つん這いになった女の子が、確認するために顔を近づける。食べ物の匂いはするが、すえたヤニ臭ささもあってためらっているようだった。

「早く食えよ」 

 多少の汚さはいつものことなので、沙智子がカップ麺の汁を啜ろうとする。母親がその小さな頭を踏みつけてやろうと足をあげるが、ふくらはぎがつってしまった。

「いてててててて」と大げさに喘ぎながらも、もう片方の足で沙智子の横腹を蹴ることを忘れなかった。イラ立っていたので、存外に力が入っていた。

「キャン」と幼女が呻いて、しばし動きを止めていたが、のそのそと歩き出して冷蔵庫へと向かった。

 小さな手がシールと落書きだらけの冷蔵庫を開けて、下段にあるラップに包まれた白飯をつかんだ。拙くほどくと、痰入りカップ麺の生ぬるい汁へと、その冷え切った飯を落とした。そのへんに落ちていたプラスチックの使い捨てスプーンを握る。母親は本日の嗜虐に飽きてしまったのか、寝ながらスマホを見ていた

 正座をハの字に崩して、沙智子が食べ始めた。子猫が食べるよりゆっくりと、汚れた汁ご飯をもぐもぐしていた。この家庭で、母親が娘のご飯を用意することは稀だ。なんでもいいから食べられるときに食べるのが、沙智子の生きる術となっていた。

 ガチャガチャと玄関が不穏である。ドアが開くと同時に、罵声と悪態をともなって金髪男が帰ってきた。

「おい、メシは」

「パチ屋で食べてきたんでしょ」

 女に素っ気なく返されてしまい、不貞腐れた顔で立っていた。さんざんに負けて帰ってきたようである。

「なんかねえのかよ」

 さも面白くなさそうに冷蔵庫の中を漁るが、冷や飯と消費期限が切れたメンマしかない。チッと口を鳴らして沙智子を見た。

「ガキ、おめえ、なに食ってんだ」 

 幼女が顔をあげた。拙い手でカップを持ち上げ、八割がた食べ終えた汚れ雑炊を見せる。

「ヘドを俺に食わす気か、このくそガキャー」

 カップを蹴り上げた。幸いにも持っていた女の子の手には当たらなかったが、残りが床にぶちまけられてしまった。

「ちょ、やめてよー。掃除するの、めんどいんだからさ」

 母親は沙智子を少しも心配していない。床が汚れて掃除しないとならないことにキレていた。

「知るかっ、うんなもの、けったくそ悪い」

 ペッと吐いた唾が女の子の頬にべチャリとかかる。反射的に手で拭ってクンクンした。

「嗅ぐな」

 いかにも臭そうな足の裏で頭を蹴られてしまう。座りながらも、上半身だけでよろけていた。

「クッソ腹立つなコイツ」

「ぶん殴ってやればいいんだ」

 男の激情を母親が煽っていた。沙智子は、キャンキャンと子犬のごとく泣き始めた。

「コイツ、くせえからフロにいれてやっか」

「水風呂に突っ込んでやればいいんだ」

 母親が投げつけた言葉の意味を理解した沙智子は、とっさに逃げようとする。だが金髪男に首根っこをつかまれてジタバタしていた。

「やだーやだー」と幼女が叫び、その声はどんどん高く、しまいには鼓膜を引き裂かんばかりの金切り声となった。子供が本気を出すと、その音量は鋭利な凶器となる。

「うっせーな、クソガキ」

「早く、水に沈めてやれ」

 母親の進言がなくとも、金髪男はやる気満々であった。沙智子の頭蓋を掴むと、硬質の床に何度も叩きつけた。ガン、ガン、とやるたびに悲鳴はさらに大きくなった。

「もう、服着たまんま、やらりゃあいいんだ」

 母親はせせら笑っている。メントールが濃いめのタバコに火を点けて、鼻から二直線の煙を吐き出していた。

 引きずられようとしている沙智子は、その小さな手を柱にかけて必死の抵抗をしていた。水風呂での折檻は何度も経験している。息が詰まり、ぶん殴られながら水をしこたま飲まされる恐怖を思い出して、パニックになっていた。

「ぎゃあぎゃあ」と泣き叫びながらも沙智子は手を放そうとしない。華奢なわりにはしぶとさがあった。

「おい、それよこせや」

 女が咥えているタバコをもぎ取ると、なんら躊躇うことなく女の子の首に押しつけた。

「ジュッ」と音がして灼熱はすぐにもみ消されたが、その際の痛みは激烈であり、とくに子供の柔らかな皮膚には耐え難い衝撃となった。

「ギャアーーー」と喚いて激しく跳ねた。成長を始めたばかりであるが、みずみずしくて弾力のある肉が、釣り上げられたカツオのようにバチバチと床を叩きまくる。

「おい、もう一本よこせや」

 嗜虐心をくすぐられた男は、暴力をさらにエスカレートさせる。

「目立たないようにやってよ。見つかったら、あたしが捕まるんだからさ」

 母親は用心深いが迷わなかった。自らタバコを咥えて急いで火を点けた。そして、十分に燃やし灼熱の火球を作ってから金髪男へ渡した。

「ギャアギャアわめくと、こうなるんだよっ」

 再び{ジュッ}となった。

 今度は首筋ではなく脇腹である。タバコの尖った熱球で内臓を焦がそうと意図したのか、グリグリと捩じりながらバラバラになるまで押しつけた。

 目の玉がとび出るような激痛に、女の子の体が撥ねた。その拍子に頭を柱にぶつけてしまう。どこの痛みをケアしたらよいのかわからず、頭に手を当てたり脇腹をさすろうとしたり、滑稽な動作を繰り返していた。

「キャハハ、ウケるう。バッカじゃん」

 母親が手を叩いて喜んでいる。またタバコを咥えて火を点けた。急いで煙を吸い込み、火球を作る。嬉々として娘の上着をまくると背中を露出させて、一息ついてから押し付けた。

「ぎゃっ」と沙智子が呻いた。それ以上の嗚咽が続かない。痛みの連続で声が出せなくなってしまった。

「ぎゃびええええ」

 そのかわり、いまさっき食べたばかりの痰入り醤油汁雑炊を吐き出してしまう。

「おい、きったねえな。こいつ、ゲロ吐きやがったぞ」

 小学生男子のように、金髪男がゲロだゲロだと言って小躍りしていた。

「床汚しやがって。誰が掃除するんだとおもってんだっ、ああーんっ」

 母親が鬼の形相である。我が子の粗相といえども、汚らしい吐しゃ物を掃除するのはイヤなのだ。

「こいつに食わせればいい。自分のゲロだから食えっだろ」

 金髪男の手が沙智子の髪の毛をつかんだ。そして、いま吐き出した反吐溜まりに顔面を強く押し当てた。

「オラア、食えや。おまえのもんだろうが」

 小さな子供相手に大人の力は強すぎた。べちゃべちゃの床面に口と鼻がくっついてしまったために息ができない。必死になって呼吸を試みると、自然に反吐を啜ってしまう。

 醤油とヤニ臭い痰と苦く酸っぱい胃液が混じった汁である。雑炊状になっているので、吸い込むと、ざらざらとした感触が乳歯に当たった。

 普段から野良犬のエサ同然の食べ物しか与えられていない沙智子だが、さすがに自分の吐しゃ物を口にするのは生理的な拒絶があった。

「ぎゃえええ、げぼぼぼぼ」

 さらなる嘔吐を誘って、腹の中にあった残りを吐き出してしまう。

「吐くんじぇねえ。食うんだって」

 容赦のない押しつけが続く。沙智子は吐いては啜って、泣いては吐いてを繰り返していた。

「ねえねえ、これも食わせてみようよ。この子、なんでも食うんだから」

 ニコニコ顔で母親が持ってきたのは、台所の三角コーナーにあった生ごみである。主な成分はカップ麺の残りカスとご飯粒、灰皿のシケモク、焼き魚の骨と皮、痰、その他総菜の食べカスであった。数日間放置してあったのでいいあんばいに腐敗し、コバエの巣窟となっていた。よく見れば糸くずみたいなウジ虫が多数湧いている。立ち昇る悪臭は、鼻の粘膜を爛れさせるほどの勢いがあった。

 三角コーナーごと持ってきた。茶色の滴る汁の臭いが凄まじい。

「よっしゃ。口を開けさせるから突っ込めや。全部食わせろ、へへへ」

 金髪男が沙智子の髪の毛を引っぱって、吐しゃ物で汚れた顔を上に向けさせた。なかなか口を開けないので何度も殴る。前歯がへし折れて突破口ができた。そこへ三角コーナーの生ごみ汚物が流し込まれた。

「ゲボッ」とむせた。口の端から茶色の生ごみ汁がしたたり落ちている。たとえようもない味の汁が喉を通って胃袋に落ちた。瞬時に内臓が腐ってしまいそうなほどの汚濁である。ジタバタと手足が空気を叩いていた。幼女の嘔吐は止まることなく、吸い込む息の倍の量を噴き出していた。大人たちの悪ノリは、すでに虐待や折檻の域を超えている。呆れるほど執拗にやり続けていた。

「きったねえなあ。俺の手がこいつのゲロだらけになっちまった。くっそ、くせえ」

 生ごみとその汚汁、吐しゃ物が周囲にまき散らされた。あまりの悪臭に辟易し、虐待の熱気が冷めてしまったようだ。最後に首をグッと絞めてから、投げ捨てるように幼女を放した。

「ねえ、なんか動かないんだけど」

 沙智子がぐったりとしている。反吐だけではなくて脱糞もしたようで、熟成した生ごみと子供の胃液、糞便の臭気が混じり合って目に沁みるほどである。

「知るかっ」

 金髪男は不機嫌になった。それ以上責めると暴力を振るわれるので、母親は娘に八つ当たりをする。 

「さちっ、いつまでふてくされてんだよ。さっさとおきな」

 背中を何度も押すが、沙智子は動かない。さすがにマズいと思ったのか、ぞんざいな手つきではあるが抱き起こした。首の骨が軟体動物みたいに柔らかくなり、頭がだらりと垂れた。瞼を閉じず、目が開きっぱなしである。母親は娘の口の周りの反吐に触るぬよう耳を当てれ、息をしていないことに気づいた。

「これ、ヤバいよ。死んでる」

「あ?」

 金髪男の額に太いシワができた。 

「病院に連れて行かなきゃ」

「よけいなことするな。もう、くたばってる」

 沙智子は死んでいた。窒息死ではあるが、男に首を絞められたからなのか、生ごみと吐しゃ物が喉に詰まったのかは判然としない。とにかく、小さな命が息絶えてしまった。

「ねえ、どうしよう。これって警察につかまるんじゃない」

 娘が死んでも、母親として考える最初のことは己の保身である。

「冗談じゃねえ。年少でさんざんイヤな目にあったんだ。誰がつかまるか。ようは死んだことがバレなきゃいいんだ」

 金髪男には考えがあった。

「おい、ガキを包むから手伝え。車にのせるからな」

 二人の大人が幼女の死体を三枚のバスタオルで包んだ。金髪男は、手に職がない割には手際が良かった。母親だった女は、多少まごついていたが手伝った。そのまま車に乗って、雨の降る夜道をドライブする。

「ねえ、どこに行くのさ」

「こいつを捨てるんだよ。死体さえ見つからなかったら、なんともねえ。サツが動く前に引っ越せば、うやむやだ」

「捨てるったって、すぐに見つかっちゃうよ。あっちこっちにカメラがあるんだから」

「おまえ、バカなのか。人目につくところに捨てるわけねえだろう」

「じゃあ、どこさ。山に埋めるの」

「そんなめんどうなとこまでいかなくても、もっといい場所があるんだ」

 三人が乗った車は郊外に向かっている。住宅地が途切れた場所にある工場地帯で停まった。そこは一時期栄えていたが、不景気となってすっかりと廃れてしまった。工場の多くが閉鎖されて廃墟となっていた。土地建物の所有権があいまいで、暴力団関係者の出入りが噂されている。だから一般人の立ち入りがほとんどない。こういうところを好む暴走族やチンピラの類も、めったに近寄らなかった。   

「ここって、ヤーさんのたまり場だって話じゃん。拷問してるって。けっこう殺してるんでしょ」

「だからいいんだ。死体を捨ててもヤクザしか来ねえし、あいつらは警察にチクったりしねえし、そのうち腐ってなくなるって」

 車は最も奥にある廃工場の脇に停車した。バスタオルで包まれ沙智子の体を二人で持って、中へと侵入する。

 だだっ広い工場内に、汚水を処理する巨大な水槽がいくつもあった。もちろん設備は稼働しておらず、長期間放置され続けている。ときおりアウトローたちがやってきて、安値で引き取った未処理の汚水や食品工場のゴミ類、屠畜場からの残骸、医療機関から出された血まみれの感染性廃棄物までが捨てられていた。

「ここって、すんごく臭い。イヤになる。具合悪くなるわ」

「うっせーんだ。文句言ってんじゃねえ」

 男がバスタオルの梱包をほどいた。さらに沙智子の服を脱がせて裸にする。

「服ぐらいは着せてやってもいいんじゃね」めずしく母親らしいことを言う。

「身元がバレるだろう」バカなのかと叱られた。

「だって、見つからないんでしょ。ここは」

「もしもがあるかもしれねえからな。ほらよっと」

 沙智子を下の水槽へ放り投げた。シーンと静まり返った闇から、ボッチャンと手ごたえのある音が響いた。懐中電灯で照らすと水面はどんよりと濁って泡立ち、なんともいえない異臭を放っていた。

「ここの汚水はめちゃくちゃ汚えからな。すぐに腐って骨までなくなるわ」

 かー、ぺっと痰を吐き捨てて、ひどく汚れた液体の中へと沈んでゆく女の子を見ていた。

「沙智子、成仏しなよ。あんたが悪いんだからね」

 母親が手を合わせた。ただし一瞬であり、二秒後には笑顔になって男の後に続いた。完璧な仕事をやり終えたと、二人は満足しながら廃工場から出ていった。



「ぎゃっはーー、ああああああああ」

 凄まじく汚染された廃液の池で沙智子が覚醒した。

 窒息して心臓が止まったはずだったが、息を吹き返した。いや、呼吸をしているかどうかはわからない。とにかく動き出しているので、生きているという範疇に入っているのだろう。

 劇物である薬品の残りカスと識別不能のさまざまな廃棄物、猛毒の化学物質が小さな女の子の命をぶっ叩いた。いかなる生体化学反応が作用しているのかは知るべくもないが、とにかく蘇生した。ただし、ふつうの女の子としてではなかった。

「キャアアアアアアアー」

 幼女がけたたましく叫んだ。いまわの際の悲鳴ではない。生命の図太さを感じさせる確固とした咆哮だった。

 バキバキバキバキと、骨の軋む音が連続している。体のあちこちが腫れて、華奢だった体躯にボリュームが出てきた。筋肉質というよりは、腕や足がハムの塊になったみたいだった。

「ギャウー、ギュギュ」

 急激な成長にともない腹が減ったのだろう。汚濁に浮いている小動物の死骸をつかんだ。廃油にまみれたドブネズミを、頭からバリバリと食らい始めた。肉は存分に腐っているので噛みしめるたびに濁った肉汁が飛び散り、ありえないほどの悪臭をまき散らした。とくに膨れていた腹部は腐りきっていて、犬歯の先が触れた瞬間に破裂し、霧散した強烈な腐臭は空気をいちじるしく重くした。

 ネズミの死骸を食っても、まだもの足りなかった。太くなった手でドロドロとした汚水の中をかき回していると、人間の女の毛髪と思しきものが多量に引っ掛かった。ねちょねちょしたヘドロにまみれていて、見るからにおぞましかった。

 沙智子はそれを啜った。小さなおちょぼ口が大人の吸引力でもって、ずるずると下品な音を立てて食べていた。口の中いっぱいに入れて、ジャキジャキと嚙み切ってゴックンした。毛髪の先には、まだ頭皮が塊となってくっ付いていた。その肉の塊は当然ながら腐っていたが、沙智子はかまわず食した。舌で触れるとすぐにトロけて、腐りきった肉の味が、じわっとひろがった。鼻から抜けた息が辺りの空間を黄色く汚す。

 水槽の下へ潜ると、そこに溜まったヘドロを食べ始めた。恐ろしく汚染されてはいるが、あらゆる有機物が詰まった栄養満点のジェルを泥水とともに啜った。食事と同時に脱糞もしている。幼女は汚水のあらゆるものを栄養としていた。

 たくさん食べて飲んで満足したのか、汚物だらけの池で泳ぎ出した。バシャバシャと汚水を叩くたびに、異次元の悪臭がふりまかれる。それらは糞ハエも近寄らない毒のガスだ。

「キャッキャ」と喜びながら、初めてのプールで泳ぎを満喫していた。ドブ川でも悠然と泳ぐドブ魚のように、す~いすいと優雅であった。その廃工場にはいくつもの水槽があって、快適な人間生活の果てに排出された廃棄物で溢れていた。人工的に作り出された、とびっきりの汚物窟である。  

 どのような状態であれ、沙智子は生存していた。その小さな胸にある鼓動が脈打っている。通常の人間とはかけ離れた異様なリズムだが、強固なハートビートだ。ここは食べ物に事欠くことはなかった。極めて異質ではあるが新たな生命として蘇った沙智子には、またとない棲家となった。



「あそこに行くのはイヤだって。あんた一人でやってよ」

「うっせー、てめえが産んだクソガキだろう」

 金髪男と女が廃工場にやって来た。沙智子を放り込んでから半年が経っている。もちろん、供養しようというわけではない。

「なんだって児相がきたんだろう」

「近所の誰かがチクったんだろうよ。サツに通報されるのは時間の問題だな」

「警察はイヤだって。なして面倒なことになっちゃったのさ」

「とにかく、ガキの死体さえ見つからなければ逮捕されねえ。逮捕されたって、すっとぼければムショには行かねえ」

 二人は住所を変えることなく相変わらず同じアパートに暮らしていたが、沙智子がいなくなったことに周囲が気づいた。児童相談所の調査が入り、ケツに火がついた。

「そんで、どうするの」

「もう腐って骨だけになってるから、それを引き上げて、粉々にして海に捨てる。ずいぶんと軽くなってるはずだから、そんなに手間はかからねえよ」

 暗闇の中、安物の懐中電灯が濁った液面を照らした。

「うっ、くっさー。なんか前よりも臭くなってんじゃん、ここ」

「知るかっ。温暖化だ。んなことより、おめえも棒でかき回せよ」

「モップの棒じゃあ、届かんじゃんか。もっと長いのないの」

「るせえ。そのへんで探してこい」

 半年前に沙智子を放り込んだ辺りを探すが、目的を達成するには道具が拙すぎた。短い棒は、表層付近を撫でるだけで深くまでは届かなかった。

「この臭い泥水の中だから、警察は探しに来ないんじゃないの。もう止めて帰ろうよ」

「サツはしぶてえんだ。糞の中だろうが、しっかり探してガキの骨を見つける。DNAでバレて一発だ」

 屈んで目いっぱいまで棒を突っ込み、なんとか骨の残骸に当たらないかと一生懸命にかき混ぜている。泥水の中から泡が沸き上がり、それらが弾けて内包していた瘴気をまき散らした。

「うわっ、くっせ。下痢便のニオイがするぞ。鼻がひん曲がりそうだ。クッソ、糞だらけだ、ったく、最悪だ」

 悪態をつきながらも、手を止めずに動かしていた。

「お、なんかに当たったぞ。ガキじゃねえか」

「ナマンダブ、ナマンダブ、アーメン」

 母親だった女が念仏を唱えるが、ふざけた口調だった。 

「って、なんだ」

 金髪男が揺れていた。

「なんか引っぱってるぞ。おいおい、なんだこれ」

 汚水に突っ込まれた棒が激しく動いていた。金髪男が端を握っているが、その腕が上下左右に振り回されている。

「ちょっとー、ふざけないでよ。遊んでるヒマないっしょや」

「うっせー、遊んでるわけじぇえ。なんかがよう、棒の先を引っぱってんだ」

 懐中電灯が空気と液体の境界面上を照らすが、ドロッとしたドブ水が揺れ動くだけで原因が見えない。

「はなせばいい」

 女に言われてから、ようやく棒を手放した。それはヘラブナ釣りのウキのように直立すると、ツンツンと微妙な上下を繰り返している。

「おい、なんかいるぞ」

「沙智子じゃないの」

「バカ言ってんじゃねえ、殺すぞ」

 女の胸倉を掴んで睨みつけているうちに、棒は完全に沈んでしまい見えなくなった。かすかではあるが、粘っこい波紋がいくつかひろがっている。

「ハマチでもいるんじゃないの。だって、ここって養殖の池かなんかでしょ」

「おまえ、バカなのか。このドブに魚がいるわけねえだろう、ったくよう。たぶん、ネズミだ。でっけえドブネズミが棒の先っぽをくわえてんだ。動画にとってネットに出すから、ちゃんと照らしとけよ」

 金髪男がスマホのレンズを向けて限りなく液面に近づいた。女は指示されたとおりに懐中電灯で照らしている。ひょっとしたらいい動画が撮れて金になるのではと、二人とも期待していた。

 ボコボコと泡が浮いて弾けた。鼻の粘膜がヤケドしそうなほどの悪臭が蒸気したが、金髪男と女は顔をそむけなかった。汚いことに鈍感で慣れてしまったのと、どんな巨大ネズミが出てくるのかと期待していた。幼女の骨を拾いに来たのだが、目的が逸れてしまうのは毎度のことである。

「なんか浮かんできたぞ。ちゃんと照らせ」

 泡が止まった。スマホを持っていた金髪男の顔が濡れる寸前まで接近している。初歩的な警戒心さえ忘れていた。

 ぬーっと、顔が現れた。

「・・・」

 あまりに唐突だったので金髪男が面食らっていた。しばしその顔を見下げて、その顔から見上げられていた。対面する顔と顔の距離は三十センチもない。

「沙智子っ」

 女が叫んだ。

「えっ」

 金髪男が驚き、すぐに上体を起こそうとしたが遅かった。

「うわっ」

 ドブ水からとび出した沙智子の顔が金髪男の顔面にぶつかった。さらに図太く水膨れした腕が首に巻きつき、汚れた液体の中へ引きずり込もうとする。

「うおう、やめろやめろ」

 かつて、か弱き幼女だったモノの力は強大であって、大人の男が必死になって抵抗してもムダだった。あっという間にヘドロ水の中に落ちてしまい、姿が見えなくなってしまった。

「ちょっとー、なんなのー、これドッキリか」

 現実を受け入れられず、沙智子の母親はオロオロして水面を照らすだけだった。

 十数秒後、ヘドロ臭がきつい泡とともに金髪男が浮かび上がってきた。「プハー」と大きく息を吸ってから、バシャバシャとやっている。泳いでいるというより溺れていた。

「ゲエーーー」

 そして嘔吐していた。液体があまりにも汚いために、アップアップするたびに胃袋が猛烈な拒絶反応を示している。汚水を飲み込むそばから倍の量を溢出させていた。

「ヤバい」

 ツレを助ける気もなく、女が逃げにかかった。だが腰が抜けてしまい、一歩目で崩れ落ちた。すると背後から、キャッキャと聞き覚えのある笑い声がしている。

「沙智子か、沙智子なの」

 振り向いて懐中電灯を向けるが、汚れた液面は静かだった。さらに、ゲボをまき散らしながら溺れていた金髪男がいなくなっていた。かすかな波紋だけが残されている。

「なんなのこれーっ。ヤバいヤバい」

 女が四つん這いで水槽わきの通路を這い進んでいた。逃げているのだが、彼女には忘れモノがある。

「た、たすけ、げぶっ、げぶっ、たすけてー」

 金髪男が遥か上にいる。なんと、天井の梁部分の鉄骨に絡みついていた。自力で登ったわりにはほとんど瞬間だった。尋常ならざる強制力で連れ去られたようで、その際にぞんざいに扱われたのか、手足があらぬ方向にへし折れていた。

「げえええええー」

 まだ吐いていた。ドブ水をたらふく飲んだために、逆流させようとする胃袋の痙攣が止まらない。嘔吐スイッチが入れっぱなしになった状態であった。吐き出された茶色のジェルが、女の目の前にびちゃびちゃと汚らしい音をたてて降ってきた。

「うわあ、く、臭い」

 ひどいニオイだった。この廃墟に来る前に餃子とラーメンを食べていたので、それらが胃液に溶かされてほどよく熟成されていた。とくにニンニクと醤油風味の反吐は強烈な悪臭を放って、さらなる嘔吐を誘った。

「おげえええええー」と逆流させたのは女の方だった。濡れた野良犬のような力ない四足歩行だが、それでも力強く吐き出していた。周辺のニオイにも我慢していたのだが、ニンニク臭とご飯混じりの日常的な反吐に遭遇してしまい、決壊したようだ。

「ああ~、な、なんなのよ」

 一通り吐き終えたら、上からなにかが落ちてきた。それは、タンッ、と軽く手足で着地した。 

「沙智子なの。う、ウソ、そんなわけない」

 沙智子の変容が著しい。幼女の体は汚水池に適応し、超常的な生き物へと生まれ変わっていた。有機的な汚物のほかに、あらゆる種類の化学物質がふんだんに含まれた廃液の泉で、その現出自体は倫理的に間違っているのだが、新たな命を得たのだった。  

 沙智子は元気いっぱいである。まるで忠犬が数年ぶりに飼い主と出会えたように、おだって、とびはねて、はしゃいでいた。 

「おまえ、バケモノじゃんか」

 実の母親に心無い悪口を言われても、沙智子は怒ったり、ぐずったりしなかった。さっそく、ハムみたいに膨らんだ腕を振り回して抱き着いた。そしてドロドロの指で顔を撫でた。ヌメヌメと汚れていて臭い汁が女の顔をびっしょりと濡らした。たまらず逃げようとするが、娘がガッチリと押さえ込んで離さない。「やめて助けて」と喚くが、その口に指を突っ込んで喉の奥をグリグリと刺激した。

「うおえーーー、げぼげぼげええーーー」

 女の嘔吐は止まらない。じゃれついている娘の剛力で手足の骨がへし折られようとも、内側からの逆流は継続された。

 沙智子が見つめている。投げだされた懐中電灯が照らすのは、天井の金髪男から吐き出されたニンニク臭い不浄物と、女の胃袋からから逆流した未消化レバニラ定食のコンボメニューだ。それらの食材は新鮮さを見せつけるように、スパイシーな湯気を立てている。ヘドロ池の沙智子には、またとないご馳走に見えた。

 女から離れて床面に顔をつけると、クンクンとニオイを嗅いだ。いわゆるタコの口にして、じゅるじゅると啜り始めた。未消化の分だけ、米のツブツブの感触が残っていてのど越しがよい。ニラとニンニクの強いニオイが胃液の酸っぱさと相まって、沙智子にとっては絶妙の味付けとなっていた。久しぶりのご馳走に喉が鳴る。その吐しゃ物溜まりはほぼ飲み物であったが、家族だったものの味を懐かしむように、十分に咀嚼してから飲み込んでいた。

「げっぷー」

 満足した幼女がゲップをした。キャッキャとはしゃぎながら、母親の髪の毛を掴んで水槽へ飛び込んだ。手足を破壊された女は当然のごとくドブ水を飲んでしまうが、すでに吐くものを自前で用意できないので、飲み込んでしまったドブ水だけ吐いていた。

 沙智子に髪の毛を引っぱられながら女が浮かんでいた。生きてはいるが、ほぼ気絶状態である。反吐で汚れた口元を、波打つヘドロ水が洗い流していた。


 沙智子のテリトリーには巨大な水槽がいくつもあって、すべてが彼女の池であり、ゴミと廃液と汚物で満たされていた。ただし、一番奥の水槽は乾いていた。ドブ水やヘドロは溜まっていない。そこは社交の場となっていた。

 採光窓からの月光に照らされて、底のほうに四人の男が転がっていた。もぞもぞと芋虫のように動いてはいるが、活発ではなかった。手足の関節が破壊されて、それぞれがあらぬ方向を向いている。かなりの重症であるが、生きていることには生きていた。

 彼らはゴミや廃液を違法に投棄する業者や、バラバラにした死体を捨てに来たアウトローだった。暗闇の中、悪事の証拠をぶん投げにきたのだが、沙智子に捕まってしまった。抱きつかれ、関節を壊され、そこにいることになった。ひどい目に遭っているが、沙智子は加害しようと意図していたわけではなかった。

「きゃきゃきゃ」

 じゃれついたための結果であった。とにかく遊び相手が欲しかった。元々好奇心旺盛の子供である。遊びたい盛りであり、生きている人間だったら相手は誰でもよかった。ただし、バケモノとなってしまっていたので力の加減ができない。ちょっとした興奮で、簡単に怪我をさせてしまっていた。

 毎晩毎晩、汚物の池で泳ぎ、ヘドロを啜り、様々なゴミを食べていた。それらは腹をすかせた友達や家族にも与えられた。

 沙智子は、ほぼ動けなくなった母親の顔を押さえて口と口をくっ付けた。

「ケポケポゲボゲボ、げええええええ」

 汚物の池でたらふく食べたものを、吐しゃ物として与えた。口移しで大量の汚濁が母親の腹の中へ流し込まれる。酸っぱくて臭くて、栄養満点なのだ。

 



 


 

 

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廃液と沙智子 北見崇史 @dvdloto

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