でんぐり返しのように

牛本

でんぐり返しのように


 でんぐり返しが上手く出来ないことが僕のコンプレックスだった。


 小学校の頃、比較的なんでも出来ていた僕だったが、みんなが出来るでんぐり返しが出来なかった。

 そのことに酷く落ち込んだ僕は、自分が酷く情けない男に感じてしまい、以降何も上手くいかなくなった。


 高校を卒業して二年。

 夢だった小説家にもなれずに社会人になっていた僕は、仕事が出来ないまま後輩を持った。


 昼食時、席を立った後輩は未だに作業が終わらずパソコンと向かい合っていた僕を見た。

「見た」というよりかは、「見下した」という表現が適切そうだが。


「先輩って、本当に仕事できませんよね」

「ははは……」


 明らかになめられていたが、それも全て仕事が出来ない自分のせいだと納得して愛想笑いを浮かべることしか出来ない。

 ただ黙って、あの日――でんぐり返しが出来なかったあの日から上手く回らない頭で作業を続ける。


「その愛想笑い、やめた方がいいですよ」

「は、はは……ごめん、直すね」

「なんか、別の仕事でもやったらどうですか? 先輩に何が出来るのか分かりませんけど」


 そう僕に言い放つと満足そうな顔を浮かべた彼は、「僕、先輩の上司にお昼誘われてるので」と言って、僕の上司と共にオフィスを出た。


「はぁ……」


 僕は一つため息を吐き、カバンの中からランチパックを取り出すと、そのうちの一つを口に詰め込んで咀嚼する。

 後輩である彼に比べて、僕はなんて仕事が出来ないんだろうか。


「あれもこれも、でんぐり返しのせいだ」

「でんぐり返しがなんだって?」


 いきなりかけられた声に驚き振り返ると、部長が居た。

 僕は急いで立ち上がり、背筋を伸ばす。

 彼は僕の顔を見ると不快そうに顔を歪めた。


「あ、ぶ、部長……どうしたのでしょうか」

「あのねえ、君の部下から苦情が来てるんだよね」

「え……苦情、ですか?」

「君は仕事が出来ないだろ? そんな先輩と一緒に働いていたら成長出来ないってさ」

「そう、ですか」


 ショックだったが、仕事が出来ないのは事実だ。

 言われても仕方がないと諦めはつく。

 しかし、それを僕に言った理由は何なのだろうか。


「なんでそんなこと教えたのかって顔してるね」

「は、はい」


 僕の返答に、彼はこれ見よがしにため息を吐いた。


「あのね、君さ、正直邪魔なんだよ。会社にとってお荷物だって話」

「え、あ」

「だからさ、仕事、やめてくれるかな? 引継ぎとかはしなくていいよ。どうせ大した仕事は任せてなかったし」

「あっ、あ」

「じゃ、そういうことだから」


 いうだけ言うと、部長は僕に背を向けて歩き出す。

 もう既に僕はいないものとして扱っているかのようだった。


 日本に住んでいる限りそんなに簡単にクビになど出来る筈はないが、そうでなくとも今後この職場で僕はどういう扱いをされるのかは明白だ。


「――あのっ!!」


 気が付けば、僕は土下座をしていた。


「あの、あのっ! すっ、すみません! 仕事、もっと頑張るので! 頑張るのでぇっ!!」

「はあ……あのさあ、いくら昼休みだからって、煩いよ君」

「すみません! でも、でもっ僕はこの仕事が無くなってしまったら生きていけないんです!」

「知らないよ。この会社にとっては、君はいなくてもいい存在なんだから。君の後輩は優秀な子だし……お、噂をすれば」


 部長の言葉に振り替えると、そこにはニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべた上司と後輩の姿があった。

 僕は恥ずかしい姿をみられたことで大量の汗を噴き出す。


「あれえ、先輩。そんなカッコしてどうしたんですかァ? あ、それが新しい仕事ですか? お似合いですよ」

「ふふ、言い過ぎだよ。まあ、確かにお似合いだと思うけどね」


 そう言って近づいてきた二人。

 僕は土下座を続けるほか無かった。


 そんな僕の様子を見た後輩は、思っていた反応とは違ったのか不満そうな表情を浮かべる。


「部長。こいつ、ずっとケツ向けてますけど、蹴って欲しいってことじゃないですか?」

「お! なあ、そうなのか?」

「ち、違いま……」

「そうなのか?」

「違い……」

「そうなのかって聞いてんだ」

「……そうです」


 僕の言葉を聞いた三人は、一瞬の間を置いて笑い出した。


「はっはっは。なんだそうだったのか。……よし! 部下の願いを聞くのもまた私の務めだ! ……なあ、後輩である君が蹴って上げるのが彼も嬉しいのではないか?」

「え、いいんですか! 蹴らせていただきます!」

「確か君は、元サッカー部だったね」

「そうなんですよぉ……じゃあ、行きますね、先輩」


 そんな合図要らない。

 もう、早く終わらせてほしかった。


「3!」


 絶対痛いだろうな。


「2!」


 なんで僕がこんな目に合ってるんだろう。


「1!」


 もし、もし――。


「ゴー! いけえ!」


 ――あの時、でんぐり返しさえてきていれば。



 ――スパァン!!



 という快音がオフィスに響く。


「おごぁっ!!」


 ケツから頭にかけて電流のような衝撃を受けた僕は、思わず叫んだ。


 叫んで。


 手が地面についていて。


 頭も地面についていて。


 ケツが浮いて。


 脚が地面から離れて。


 ――ぐるん。


 と、一回転した。


「はは、見ましたか。こいつ、でんぐり返ししましたよ」

「はっはっ、傑作だったな」

「こんな奴が部下だなんて、恥ずかしいよ」


 背後でなにやら声が聞こえる。


 だが、そんなことはどうでもよかった。


 本当にどうでもよかった。


「――でんぐり返し、出来たじゃん」


 思わずそう呟くと、今まで錆び付いていたかのように鈍っていた頭が冴えてくるのを感じた。

 鉛のように重かった心が羽のように軽かった。


「はは、ははは!!」

「先輩、愛想笑いやめた方がいいって……」


「ははははははは!!!!」

「な、なんなんですか……!?」


 僕は速やかに立ち上がると、110番に連絡を入れる。

 何やら背後では三人が騒いでいるが、どうでもいい。


 なぜなら僕は、『でんぐり返し』が出来たのだから。




 数年後。


「はい、え、『でんぐり返し』重版ですか! ありがとうございます!」


 仕事を辞めて、会社から慰謝料を貰った僕は、夢だった小説家として活動していた。


 これまでの人生とは180度……否。

 あの日、みんなが出来ていたそれが出来なかった前までの自分を取り戻したのだから、『360度』、人生が変わった。


 ――そう。


 まるで――でんぐり返しのように。

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