第28話「名前のない怪物」
幼少期に誰かを殺していなかったのは、多分奇跡だと思う。
そう考えるほどには、日嗣晃の生涯は殺人欲求と共にあった。
彼の一番古い記憶は幼稚園で周りを見ながら「どうやったらこの子たちを殺せるだろう」と考えていた時の光景だ。
物心が付くか付かないかの時分から既に、彼の中には当たり前のように殺人を希求する気持ちがあった。
もしかするとそれは、「死」の意味を理解するよりも早かったかもしれない。
ただ幸運なことに、実際に殺人を行える知識と能力が身に付く前にアキラにはしっかりとした倫理観が教え込まれた。
真面目で時に厳しくも、愛情深く頼りがいのある父。
優しくも強く、大らかで思いやりのある母。
二人は幼いアキラに、人として大切なことをきっちりと教えた。
他人に優しくすること。約束を守ること。嘘を言わないこと。人を傷つけてはいけないこと。
そして、命を大事にすること。
温かな家庭でごく普通の両親によって大事に育てられたアキラは、ごく普通にやんちゃで、ごく普通に素直で、ごく普通に優しい、どこにでもいるような男の子に育っていった。
ただその身の内に、溢れかえりそうなほどの殺人欲求だけを抱えて。
自らの内部で燻る欲求に抗いながら成長したアキラは、そのうちに他人はこんなものを抱えてはいないという事実に気付く。
自分は異常であると悟った彼は両親に心配をかけまいと秘密裏にスクールカウンセラーなどに相談したが、結果は芳しくなかった。
辛いことがあるのか? 嫌いな相手でもいるのか? 現状に不満があるのか?
大人たちの質問は全て的外れだった。
誰かを傷つけたいわけではない。
人が痛がったり、泣いたりするのは嫌だ。
それはとても酷いことで、誰かが辛い目に合っていると自分も悲しくなってくる。
力を振りかざしたいわけではない。
強くなりたい、という気持ちは多くの男児がそうであるようにアキラの心にもある。だが力は誰かを従わせるものではなく守るためにあると、大好きな父から教わっていた。
誰かを倒すより、誰かを守るヒーローに憧れていた。
何かを破壊したいわけでもない。
壊す快感、というのは分かるが、それとはまた違った。
それに何かを壊すより、何かを作り上げるときの方がよっぽど楽しい。
命を奪いたいわけでも、ない。
犬や猫が死ぬのは辛い。虫でさえ、命を亡くした死骸を見るとなんだか居た堪れない気持ちになる。
何故生き物は死んでしまうのだろう、と考えるほどには。
辛いことも、不満も、何一つない。
家族は優しいし、友人も良いやつばかりだ。
全く不満がないとは言えないが、現状を破壊しようとは全く思わない。
自分は幸福で恵まれている。彼はそう思っていたし、周囲に感謝していた。
日嗣晃の中にあったのは、ただただ純粋な殺人欲求だけだ。
人を殺したい。それだけ。
基本的に単体で存在することのないその欲求だけが、強烈なまでに心の中心に鎮座している。
その異常性は、誰にも理解できなかった。
思春期特有の暴力衝動だとか、特別な自分への変身願望だとか、とにかくその気持ちはそういった一過性のものだから安心していいと見当違いのことを言う専門家たちを見限ったアキラは、独自に自分を理解するための調査を始めた。
参考にするのは先達者――すなわち過去に捕まった殺人鬼たちの記録だ。
ヘンリー・リー・ルーカス。アルバート・フィッシュ。アンドレイ・チカチーロ。ジェフェリー・ダーマー。ジョン・ゲイシー。テッド・バンディ。大久保清。都井睦夫。
歴史上に数多存在する殺人鬼たち。
どれも役に立たなかった。
殺人鬼の動機は怒りや怨恨、使命感、営利目的、幻覚および妄想、支配欲、スリル、性欲に分類できる。
アキラは、どれにも当てはまらなかった。
社会や環境、誰かに怒りや恨みがあるわけではない。取り除くべきと思う人がいるわけでも、金銭や快適さを求めて殺したいわけではない。もちろん現実認識も正常で、他人と違うものが見えたり声が聞こえたりということはなかった。
殺人を行うことですっきりしたいという欲求はあったが、それは誰かを支配したり、緊張感と興奮を求めたりといったものとは違った。性欲はあるが、それは殺人欲求とは明らかに別個に存在していた。性的嗜好もごく一般的で、行為の後に殺したり、死体を使って射精したりする行為は全く理解できそうもない。
アキラの殺人欲求は性欲よりも、食欲や睡眠欲、排泄欲に似ていた。他人を見ると殺したくなる。誰が相手でも殺すことを考えてしまう。少しでも鋭いものを見ればそれで周囲の人間の喉をかき切ることを想像したし、細い紐状のものを見れば首を絞めることを考えた。その欲求は強烈で、抗うことには耐えがたい苦しみが伴った。
だがアキラは抗い続けた。
殺したい気持ちより、殺してはいけないという気持ちの方が上回っていた。誰かを傷つけたくない。悲しませたくない。家族や友人に迷惑をかけることなく、皆と楽しく穏やかに過ごしていきたい。
そんなごく普通の善性だけを頼りに、アキラは日々狂おしい衝動と戦っていた。
歴史映画の戦争シーンやサスペンス小説、FPSなどの疑似的に殺人を味わえる娯楽で己の欲望を誤魔化し、人体知識を学んで殺人技術を磨くことでよりリアルさを増した空想で発散し、周囲に心配をかけないように自分の苦しみは一切表に出さずに平凡な青年として毎日を過ごした。
自殺は何度も考えたが、思い留まった。父母や友人が悲しむ姿を想像するだけで辛かった。
大丈夫だ、と自らに言い聞かせる日々。これまでずっと我慢できていた。この先もきっと我慢できる。
生きるのはとてもとても苦しいけど、誰にも本当の自分を理解されるはずもなくて孤独だけど。
みんなの笑顔が好きだから。
苦しくても、辛くても、なんとかやっていける。
このまま死ぬまで自分が我慢すればオールオッケーだ。
そんな危うい綱渡りの日々は、彼が20歳の時に脆くも崩れ去った。
最初の殺人は事故みたいなものだった。
その日、アキラは夜の街を歩いていた。
静かな夜の街は嫌いではない。他人にあまり出くわさないから心が穏やかだ。
ただ、その時は最悪の人物に出くわしてしまった。
人気の少ない路地裏で、ガラの悪い二人の男が女性に絡んでいるのが見えた。男たちは幾分か酔っているようで女性は酷く迷惑そうにしていた。
自然と助けに入っていた。アキラは割と正義感が強く、定期的に献血に通ったり、たまにボランティア清掃に参加したりする程度には親切な男だった。付け足すと自分の身にあまり頓着していなかったのもある。
とりあえず女性を庇うように割って入り、落ち着かせようと穏やかに話しかける。
逆効果だった。
ナメられていると思ったチンピラ達はどんどん威圧的になる。アキラはあくまでも穏やかに話をしたが、決して引き下がることはなかった。それがさらに男たちをヒートアップさせる。
しまった、先に警察を呼ぶべきだった。そう考えるも既に時遅し。恫喝はさらに苛烈になり、ついに男たちの手に刃物が握られた。
殺す気はなかった。
ただ怒り狂ったチンピラがナイフを突き出してきた瞬間、反射的に奪い取ったそれで相手の喉を掻き切っていた。
流れるように自然で、いっそ美しいほどの動き。
それは幾度となく空想した、理想的な殺人の動きだった。
男は何が起きたのか分からないという表情でアキラの手の中のナイフと自分の喉から噴き出す血を交互に見て、それから驚くほど呆気なく倒れた。
ピクピクと動いていた身体はやがて静かになり、体温が失われていく。
呆然とするアキラに対し、激昂したもう一人が鉄パイプを持って襲いかかる。
それも殺した。無意識に、反射的に、当然のように。
気付けば助けたはずの女性は悲鳴を上げて逃げ出していて。
足元には二つの骸が転がっていた。
一滴の返り血も浴びていないアキラだけが、暗い路地裏に一人佇んでいる。
それが、殺人鬼・日嗣晃の初めての殺人だった。
我慢できると思っていた。
我慢できるはずだった。
だがそれは、一度も殺人を犯していない状態での話だ。
一度弛んでしまった箍は、今までのようにはいかない。
日嗣晃は知ってしまった。
人を殺したときの――狂おしいほどの悦楽と、味わったことのない爽快感。
それはまるで何日も砂漠を放浪した後に与えられた冷えた水のような。
もしくは激しい便意を我慢した末にようやく辿り着いた便器に腰を下ろした時のような。
あるいは一週間にも及ぶ徹夜の果てに柔らかな布団に倒れこんだ時のような。
そしてそれら全てを足してなお上回るほどの。
抗いがたい、至上の法悦。
自分はこういう生き物なのだと――殺人を何よりも快く感じる生き物なのだと、はっきりと自覚してしまった。
殺した。
二回目の殺人は夢遊病のように、熱にうなされるようにふらふらと。
宴会帰りのサラリーマンを、後ろから。
殺した。
誰か止めてくれと思いながら、衝動に抗いきれず。
人気のない道を歩いていた若者を。
殺した。
どうせ誰かを殺すならと自らヤクザの事務所に押し入って、そこに居た極道全てを。
命の選別を行うような傲慢さに、終わった後吐き気を催した。
殺した。
白昼堂々すれ違いざまに老婆を。
何故か捜査の手はなかなか伸びてこなかった。
殺した。
幸せそうな赤ん坊連れの家族を。
殺した。
成績が伸び悩んでいた相撲取りを。
殺した。
物静かな女の子を。
殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。
男を。女を。老人を。若者を。良い人を。悪い人を。
殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。
夜に。昼に。都会で。田舎で。山で。海で。
殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。
なんとなく。計画性を持って。いきなり。ゆっくりと。静かに。やかましく。
殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して――。
殺せなかった。自分は。
多くの命を理不尽に、自分勝手に奪っておきながら。
どうしても、死ぬのが怖かった。
泣きながら、震えながら。
生きたいと思ってしまう自分を呪った。
何故か遅々として辿り着く気配のなかった警察による捜査の手も、流石にアキラを捕えつつあることを彼自身感じていた。。
その日、進学を期に一人暮らしをしていたアキラは久々に実家に顔を出した。
22歳の誕生日だった。
両親に囲まれて、ごちそうを食べ、子供のようにお祝いされて。近況を聞かれたり、小言を言われたりしながらも。とても穏やかで愛おしい、かけがえのない一日を過ごす。
アキラは少し照れくさそうに。両親に対し育ててくれた感謝の気持ちと、愛してるという言葉を伝えた。
二人もまた照れくさそうに、でも本当に嬉しそうに笑顔を浮かべ、自分たちも愛してると返した。
その言葉に泣きながら二人を抱きしめると、大げさだなとからかいつつも、子供の頃のように優しく抱きしめ返してくれた。
その夜、日嗣晃は眠っている間に両親を殺した。
身に着けた殺人技術を最大限生かして、ただの一瞬であっても苦しむことのないように。
二人は自分が死んだことに気付くこともなく、穏やかな寝息のままに旅立った。
翌朝、彼は両親の死体と共に刑事たちを迎え入れた。
こうして、73人を殺した日本犯罪史上最悪の殺人鬼は逮捕された。
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