第10話「アザレアの恋文」

それは、君と交わした最後の言葉。

薄暗い、巨大な建物の中、一人、また一人と倒れて行ったその果てで……

俺は、項垂れて握ったナイフを眺める君に必死で声をかけた。


『諦めちゃダメだ……必ず、ここから出る方法はある!』

『……が……るの……?』

『え……?』

『君に……何が、できるの……?』


そこには、俺達以外に誰も居なかった。

あるのは、かつて人だった、熱を失って動かなくなった大量の残骸だけ。

もう、助けてくれる者は居ない。


『そ、それは……』

『……いいよ、分かってるから』


君の瞳に、絶望が映る。

こんな結末、認めたくないのに……。


見つけてしまったんだ。

残骸の中には、俺達がずっと待っていた、ずっと探し求めていた"もの"があった。

俺たちは、"真実"に辿り着いてしまった。

それは、君の──縁の心を打ち砕くのには十分過ぎる現実だった。


『……もう、いいんだ』


諦めの言葉が、すぐ傍で聴こえた。

気づいた時には、鋭い痛みと共に赤黒い液体が溢れ出していた。

縁の手には銀色に光るナイフが、強く、強く握られていた。


『これで、終わりにしよう』

『縁……、諦めちゃ、ダメ……だ……』


俺の記憶は、そこで途絶えている。


"どうか、生きて……"


*****


俺の赤い瞳は、今日も白い天井を映していた。


いつからか、俺は生きることを止めた。

何度訪れた太陽にも、何度降り注いだ雨にも無関心で。

聴こえるのは、心の中に響き続ける縁の声だけ。


でも、それでいい。

君を想う"永遠"だけが、俺の望んだ結末だ。


だから、地面に落ちる雨の音も、染められた葉の色も……

もう、全部忘れてしまったよ。


元の世界で辿り着いてしまった真実は、残酷なものだった。

そして、この世界で見つけてしまった真実も……。


ふと、窓の外を見る。限りなく夜に近い、落陽の空。

その色が、ふわりと浮かぶ雲が、懐かしい君の髪を、瞳を思い起こさせた。

ふらりと立ち上がった俺は、気づけばドアを開け、行く当てもなく歩き始めた。


君を……あア、なんのタめに……こンなことヲ……?

君ヲ探すタめ、今日も空ノ下を彷徨う……?


虚ろな目には、揺れる草が、色の無い風が映っている。

見ているのか、見ていないのかすら判らない。

地上は輝きを失って、モノクロの世界が広がっているだけ。


「ユン」

「……」

「ねえ、ユンってば」

「……」


懐かしい君の声がする。

だけど、返事をしてはいけない。


「ユンは、それでいいの?」

「……」

「これまで、何度でも立ち向かって来たでしょ?」

「……」


お願いだ、黙っていてくれ。

この静寂が、暗闇が、俺が望んだものなんだ。

ただずっと、君を想い続けられるこの世界が……。


「……意気地なし」

「……」


そんな悲しそうな声で言わないでよ。

今日だって、君のことをずっと想っているんだ。

思わず滲んだ視界に、俺は目を伏せてそっと呟く。


「大好き、だよ」


もう、それを伝えるだけで精一杯だった。

俺という存在の意義が、ただ一つ残されているとすれば……、

きっと、君にこの想いを寄せることだけなんだ。


「……ユン」


知っているんだ。

俺たちが再会する未来はもうないってことを。

その理由も……何もかも知っている。


君はあの時、俺を刺した後……死んでしまったんだ。

だから、ここにいる君は、もう──


「ねえ、憶えてる?」

「?」


予想外の言葉に、思わず前を向いた。

今にも泣きそうな顔をした君が、それでも泣くまいと強い瞳をした君が、立っている。

遠い思い出の中で、いつかそんな君の顔を見たことがある気がした。


「俺も、ユンも……運命に縛られた存在だ」

「……」

「だけどね……抗うことはできる」

「それが、何になるの?」

「……何も無いかもしれない。そして、それが俺たちの"結末"だった。そうだよね?」


縁は淡々と語る。

その綺麗な琥珀色の瞳の中に、俺なんかを映しながら。

そんな姿に、懐かしい声に、耐えられなくなった俺が叫ぶ。


「……俺は! ……ただ、君に……っ……!!」

「ユンは、俺に生きていて欲しいと思った。そうだよね?」

「そうだよ……! なのに……何も、何も守れなくて……!」

「だったら、俺の願いはなんだったと思う?」

「縁の……願い……?」

「ユンにね、生きていてもらうこと」


そんなこと、今更言われたって……。


「縁がいない世界を、生きろっていうの……?」


そんなの、ただ虚しいだけだ。


「俺はいつでも、ユンの傍にいる。

姿が視えなくても、この手で触れられなくても……。

だって、ユンが俺を想ってくれるから」


そんなの、ただの綺麗事だ。


やり場のない感情が涙となって、地面にポタリポタリと落ちていく。

もう何度、この気持ちに耐えてきたのだろう。

そんな想いに打ちひしがれながら足元を見ると──

落ちた雫が、まるで水彩画のような淡い桃色に地面を染めていく。


「……え?」


驚いた俺は、思わずその場から後ずさった。

その視界を、ひらりと舞う蝶が掠めて落ちる。

いや……よく見るとそれは蝶ではなく、一片の花びらのようだ。

それを観察している間にも淡い色は広がり続け、気づいた頃には俺を呑み込んでしまっていた。


(ああ、いつの間にこんなところに……?)


そこは、小高い丘の上。

大きな桜が散りゆく、幻想的な春の園。

それは、まるで絵本の世界にでも入り込んだかのような現実離れした景色だった。

突然の出来事に困惑する俺に、誰かが話しかけてきた。


「迷い人とは、珍しいわね。

いえ、貴方は……私と同じなのかしら?」


落ち着いた、しかし確かな温かみを感じる声。

その声の主は、大樹の根元に居た一人の女性だった。

桜の花びらのようにひらひらとした服を纏い、こちらに微笑みかける。


「あの、ここは……」

「さあ? 名前もない、ただの丘よ」


飄々と答える女性は、小脇にハープを抱え、ポロリポロリと絃を弾いて音を鳴らす。

知らない曲だったが、不思議と耳に心地よく響いた。


「ねえ、貴方。名前は何て言うの?」

「……ユン。綾辻ユンだよ。」

「……そう。いい名前ね」


何故だろう?

俺の名前を聴いた瞬間、彼女の表情に少し影が差した気がする。

何か言いたげにこちらを向くのだが、目が合えば顔を逸らされる。

そんな時間が続いた後、漸く彼女は話しかけてきた。


「ねえ、ユン?」

「何?」

「貴方が何を抱えているのか、どうやってここにきたのか、私には分からないわ。

でもね、迷っても、間違っても……前に進み続けるのは、悪いことじゃないのよ」


それは唐突な、それでいて俺の核心を突いたような言葉だった。

まるで、今までの出来事を見透かしているような……。


風に煽られた桜の花が、吹雪のように舞い散っていく。

そんな様子を見上げ、彼女は笑顔で呟く。


「この桜は、もうすぐ全て散ってしまう。

でも、そこで終わりじゃない。

また春が来たら、新しい芽が花を咲かせるの」

「……でも、今咲いている桜は散ってしまうよね?」

「そうよ、それでいいの。

次の春は、また誰かと一緒に新しい桜を観ればいい」


そして彼女は一息ついて、言った。


「だって、貴方という物語は今も続いているのだから」

「俺という……物語……?」


心地のよい風が吹く丘で、ハープの音色と共に散りゆく桜を暫く眺めた。

胸の中に、たくさんの想いが込み上げてくる。


この桜を、縁と一緒に観たかった。

他愛のない話をして、「来年も来ようね」と笑いあう未来を夢見ていた。

できることなら、それが何年先でも続くように……。


ひとしきりの演奏を終えた女性が、すっと立ち上がる。

桜の木の方に向き直り、静かに語り始める。


「私もね、迷ったらここに来てしまうの。

でも、これは小さな家出よ。

少ししたら、ちゃんと自分の居場所に帰れる」

「居場所……」

「それは貴方が決めることよ。

太陽の下でも、月の下でもいい。

大丈夫、勇気を出して。生きていればきっと変えられるわ」


遠くから声がする。


「おーい!」

「あら、お迎えが来ちゃったわ。また、会えるといいわね。……主人公さん?」


頷こうとしてそちらを振り向けば、彼女の姿はもう消えていた。

まるで、最初から居なかったかのように。

彼女が居た場所を見ると、しおりが挟まれた小さな本が一冊残されている。

紙の劣化具合を見る限り、もう随分と古いもののようだ。


それを拾い上げると、どこかで聞いたことがあるような少年たちの話し声が聞こえてきた。


『ねえ、次はどんなお話を書くの?』

『今日はね、逞しい歌唄いの話だよ』

『逞しい?』

『暗い世界の中で、歌でみんなを元気にしてあげるんだ。

それでもって、強大な敵と戦って、どんな時も諦めなくて……』


一人の少年は、楽しそうに登場人物の設定を語る。

もう一人の少年が、ぽつりと呟いた。


『俺も、そんな勇気が欲しかったな』

『え、なんて?』

『だって、俺は……弱いから』

『ユンは、僕のヒーローだよ?

いつでも僕の友達で居てくれる、僕の大切な人なんだ』

『……ありがとう』


最後に聞こえたのは、消え入る程小さな、だけど嬉しそうな感謝の言葉。

本の裏表紙を見ると、読めないほど崩れた文字でサインのようなものが書かれている。


「俺は……」


記憶という名の傷が、じわりと痛む。

こんな想いを抱えながらも、"生きる意味"とはなんだろう?

疑問を抱く俺に、縁の声が聴こえた。


「帰ろう、ユン」


その時、暖かい風が俺の背中をそっと押した。

まるで、遠い日の君がそうしてくれたみたいに。

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