皇国2436
山口遊子
第1話 天津事件その1
皇紀2436年(西暦1776年)現在。皇軍銃兵の装備銃は28年式小銃である。それまでの正式小銃である15年式小銃の場合、弾に溝が彫ってありそれを銃身内の線条に合わせて銃身底まで挿入していた関係で、弾の装填に時間がかかった。28年式小銃は15年式小銃同様前装式線条銃であったが、28年式小銃用の弾丸は椎の実型で弾の後部に空洞を設けその空洞に薄い鉄製のキャップが嵌められた構造をしている。弾径は銃身径よりわずかに小さいため、銃弾の装填が容易である。装薬が爆発して弾が発射されると弾後部のキャップが爆圧で広がり弾の後部が押し広げられることで弾が線条に食い込み、弾が前進することで回転力が与えられる。
28年式小銃は工作精度の向上などと相まって、15年式小銃と比べ射撃速度が3倍から4倍となり、射程で2倍。命中精度も約2倍に向上した画期的な小銃だった。
銃兵の28式小銃弾の員数は60発。皇国の1個銃兵中隊約200名は西洋列強諸国の1個大隊に匹敵すると皇国軍務局陸軍部
皇国陸軍、独立銃兵第1中隊。中隊長は堀口明日香陸軍少佐。中隊人員は中隊長以下195名。4個小隊180名と中隊本部分隊15名からなる。独立銃兵第1中隊はいずれの連隊にも属していない文字通り独立中隊で、皇国陸軍部長直属の部隊である。さらに言えば、皇国陸軍最強の部隊である。通常中隊長は大尉が務めるが、中隊長である堀口明日香の階級が少佐であることからも、独立銃兵第1中隊が特別な部隊であることが分かる。ちなみに、皇国陸軍に独立中隊は独立銃兵第1中隊しか存在しない。
現在、堀口明日香少佐は麾下部隊の中から抽出した14名の部下とともに、皇国海軍襲撃艦千歳丸(注1)に乗艦していた。千歳丸は黄海を北上後、現在は進路を西に取り午後8時(注2)前後に天津沖に到着予定である。
千歳丸の後方50里には安土の近衛第1連隊と大坂の第1連隊合計4000余名の将兵を乗せた20隻の輸送船が6隻の襲撃艦に護衛されて続いていた。さらに本土各地の兵営より10個連隊、2万の将兵が広島に集結しており輸送船への乗船を待っていた。先の20隻を除き広島湾で将兵の乗船を待つ輸送船はいずれも一般商船を徴用したものである。なお今の季節広島湾から天津まで10日前後の航海を要する。
当時の天津は清朝の直轄地であり、北京と黄海を結ぶ運河の要衝として栄えてた。天津城内の人口は40数万。清朝は鎖国政策を取っていたが天津と広州は例外として外国に開かれており、イギリス、フランス、オランダ、ポルトガルの商館(注3)が設けられていた。もちろん日本皇国の商館も設けられている。そのため天津は貿易や外交を行う重要な拠点となっていた。
12月24日、午後8時。千歳丸は天津港の沖合に到着し、搭載した1艘の7
「堀口以下15名、これより特殊演習を実施してまいります」
「武運を祈る」
皇国軍銃兵の軍装は、小銃、軍帽および鉄兜、紺色の上衣と軍袴、鉄靴に脚絆、軍帯となり、行軍時にはこれに6貫(1貫=3.75キロ、6貫=22.5キロ)相当の背嚢が付属する。通常背嚢には弾薬60発分、銃剣、3日分の食料、水筒、手拭いなどを入れるが今回の作戦では食料を1日分とし、弾薬を120発分入れている。
千歳丸の艦長以下に見送られ堀口少佐以下15名と漕ぎ手7名が舷側から垂らされた網を伝い小早に乗り込んだ。各自の小銃は背嚢に括り付けている。堀口少佐だけは小銃の代わりに軍刀のみ背嚢に括り付けており、背嚢内に弾薬および銃剣を入れていない。その代り1貫の火薬を詰めた油紙で出来た火薬包を2つ背嚢に入れている。
港のわずかな明かりに向けて黒い水面を小早が音もなく漕ぎ出した。小早は後方両舷に3名ずつと、
日本皇国はアメリカ独立戦争を戦うイギリス政府(注4)の依頼により、天津へのフランスおよびオランダ商船の侵入を阻止するため、大和(注5)を始めとした戦列艦により黄海を封鎖している。今回の堀口少佐たちによる特殊演習は、天津城内のフランスおよびオランダ2国の商館に対して焼き討ちを企図していた。もちろん他国領内での第3国同士の紛争は主権侵害にあたるが、皇国陸軍はあえて堀口少佐たちを送り出している。
堀口少佐たちを乗せた小早は天津港に隣接する運河を遡上して一路天津城を目指した。
天津府の知府(注6)は楊廷秀(ヤン・ティンシウ)。彼は当日フランス商館に招かれ数名の下僚を引き連れ本館内で催されたパーティーに臨んでいた。
「
それから何度か乾杯が繰り返され、着飾った男女によるダンスパーティーが始まった。
しばらくダンスを眺めていた楊廷秀たちは商館長らに別室に案内され、それなりの供応を受けていた。
注1:千歳丸
千歳丸は、2330年(1770年)に就役した蒸気外輪襲撃艦、阿賀野丸の同型艦で2432年(1772年)に就役。皇国海軍の蒸気外輪艦。排水量は2650石(1000トン)、全長は23間(42メートル)全幅は外輪部を含め7間半(13.6メートル)、砲門数は30門。外輪のみによる最高速度は時速4里(時速15.7キロ=8.5ノット)だった。
皇国の襲撃艦は西欧諸国のフリゲートに相当し、皇国は海外航路の安全を図るため襲撃艦の整備に力を入れていた。
注2:12月24日、午後8時
日本皇国は100年ほど前から太陽暦が採用され1日24時間制をとっていた。
注3:商館
実際どの国の商館があったのかは定かではありません。
注4:イギリス政府
当時皇国は英国と緩やかな同盟を結んでいた。
注5:戦列艦大和
大和:2425年(1765年)に就役。皇国海軍の60門艦。排水量は4500石(1700トン)、全長は30間(54.6メートル)全幅は8間(14.5メートル)、砲門数は5寸砲(151ミリ)60門。砲弾重量3貫半(13.1キロ)。同型艦4隻。
注6:知府
知事に相当する。
[付録1]
1貫=3.75キロ
1石=100貫=375キロ(貫の上の単位として石を定める)
1尺=30.3センチ
1間=1.82メートル=6尺
1丈=3.03メートル=10尺
1里=36町=約3.93キロメートル
1町=60間=110メートル
[付録2]
皇国本土の人口は5000万を数えていた。当時の皇国は積極的な海外進出の前に東北、北海道の開発を進めており、海外領土および海外直轄地は基本的には航路の安全と船舶の補給目的の色合いが強かった。皇国の領有する海外領土および海外直轄地は琉球、樺太、台湾、呂宋島、婆羅島(ボルネオ)の一部。嘉定(ベトナムの一部)、亜留申列島(アリューシャン)、多倫多(トロント)など。
[付録3]
日本皇国(皇国)
首都は安土。織田宗家および織田家直参が要職に就く
大君:皇国元首
軍務局:軍事に関する政策を立案し、軍隊を統括する。
陸軍部:陸軍に関する政策を立案し、軍隊を統括する。
海軍部:海軍に関する政策を立案し、海軍を統括する。
内務局:国内の行政を統括する。
外務局:海外領土および海外直轄地の行政と外交を統括する。
財務局:財政を統括する。
農務局:農業を統括する。
商務局:商工業を統括する。
鉱工務局:鉱工業を統括する。
法務局:司法を統括する。
教習部:教育全般
医術部:医療全般
[付録4]
軍制
軍務局
陸軍部
兵法方
戦務方
造兵方
教務方
陸軍伝習所
海軍部
兵法方
戦務方
造艦方
教務方
海軍伝習所
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