第17話

 父の墓は結菜がカナエの元へ来るまで暮らしていた街にある。きっと父はこの街に一生腰を据えるつもりだったのだろう。まだ三十代だというのにすでに霊園の一区画を購入していた。しかし墓石はなかった。だからきっと、この場所をそのまま使う必要もなかったはずだ。松岡家の墓に父を連れて行くこともできたはず。けれど、カナエはわざわざここに墓石を建てた。

 父は家族がいるこの街が大好きだったから、と。

 しかし、まさかここに父一人が眠りにつくとは本人は思いもしていなかっただろう。


「兄さん。今年はちゃんとあのお店のおまんじゅう、買ってきたからね」


 そう言って墓石に微笑みかけるカナエの隣で結菜は街を見下ろしていた。高台に作られたこの霊園からは街がよく見える。

 昔暮らしていた家もきっとどこかに見えるのだろう。今は賃貸物件として貸し出しているとカナエに聞いたことがある。いつか結菜がそこで暮らしたいと思ったとき、すぐに戻れるように処分はしない、と。しかしそんな気持ちに自分がなるかどうか、今はわからない。

 結菜は視線を移した。街の向こうに広がる海には、やはり少し白波が跳ねている。空を見上げると朝よりも雲が厚くなっている気がした。生暖かい風に吹かれて線香の香りが結菜を包み込む。


「結菜ちゃんも兄さんに近況報告とかする?」


 声に振り返ると、カナエはまんじゅうを食べながら首を傾げた。結菜は思わず苦笑する。


「おばさん、食べるのもう少し我慢できなかった?」

「だってお腹減っちゃって。兄さんだって一緒に食べた方が喜ぶかなって。ほら、結菜ちゃんも食べようよ」


 言ってカナエは袋の中からまんじゅうを取り出して結菜に差し出す。しかし結菜は首を横に振った。


「帰ってから綾音と食べるよ」

「そっか」


 カナエは笑みを浮かべて頷くと「兄さん」と墓石に向き直った。


「結菜ちゃんと綾音ちゃんは相変わらず仲良しで可愛いです」

「……何の報告なの、それ」


 カナエは笑いながら腕時計へ視線を向けた。


「そろそろ行かないと電車に間に合わないかなぁ。兄さん、そろそろ行くね」


 言って彼女は手を合わせる。結菜もその隣で同じように手を合わせた。そして顔を上げる。


「ちゃんと挨拶できた?」


 カナエが墓石を見つめながら結菜に問う。結菜は頷いた。


「大丈夫だよ。ちゃんと言えたから」


 ――ちゃんと、今年も謝れた。


 自分のせいで死んでしまった父に、ちゃんと今年も謝ることができた。だから大丈夫。

 結菜はカナエに笑みを向ける。


「帰ろう、おばさん」

「うん。じゃ、兄さん。またね」


 霊園を後にしながら結菜はスマホを見る。そこにはメッセージが一件届いていた。綾音からだ。


『今日はごちそうだよ!』


 そんなメッセージと一緒にスーパーの買い物かごが写された画像が表示される。そのかごには山のように食材が積まれてあった。


「おお、ごちそうだ……」


 つい呟いてしまった結菜に、前を歩いていたカナエが「なに?」と不思議そうに振り返る。


「綾音から、今日はごちそうだって。ほら」

「わー、すごい! ごちそう楽しみ!」


 子供のように嬉しそうな笑みを浮かべて、カナエは歩く足を速めた。


「早く帰ろう、結菜ちゃん。今日は藤代家でタダ飯食べ放題だよ!」

「おばさん、少しは遠慮しようね……」


 結菜は苦笑しながら彼女の後に続いた。

 いつからそういう習慣になったのかわからないが、父の墓参りに行った日は夕食を綾音の家で食べることが当たり前になっていた。

 子供の頃はよくそのまま綾音の家に泊まったりもしたが、それもここ数年の間になくなってしまった。だが、それでいい。いつまでも綾音の家族に甘えたくはない。


「今年は泊まっちゃう?」


 ぼんやりと考えながら歩いているとカナエがそんなことを言って振り返った。結菜は笑って「泊まらない」と答える。


「えー、泊まろうよ」

「おばさん、酒がぶ飲みするつもりでしょ。恥ずかしいんだからね。おばさん酔うとめちゃくちゃ泣くんだから」

「そんなことないでしょ。わたし、お酒は強い方だよ?」

「……本気で言ってる?」


 結菜はカナエをジトッと見つめてから「ご飯食べたらすぐ帰るからね」と歩調を速めてカナエを追い抜く。

 湿気を帯びた風が気持ち悪い。なんだか嫌な気候だ。父の墓参りのときくらい晴れていてほしかったのに。そうすれば、あの脳天気な父の笑顔を思い出せたかもしれないのに。


 ――なんで、あの日みたいな天気なんだろう。


 おかげで思い出すのは嫌な記憶だけだ。

 あの日の前日。結菜が軽い気持ちで言ってしまった言葉を父は嬉しそうに聞いていた。しかし、きっとそのせいで父は――。


「結菜ちゃん、タクシーで駅まで行こう」


 ハッと顔を上げるとカナエが心配そうに微笑んでいた。


「え、バスでいいじゃん」

「早く帰ってごちそう食べたいんだもん。今からタクシーで行けば一本前の電車に乗れるかもしれないよ」


 気を遣ってくれているのだろう。カナエは無邪気な笑顔でそう言うとスマホでタクシーを呼び始めた。結菜はため息を吐きながらスマホを見る。もう一件、メッセージが届いていた。しかし綾音からではない。表示されている名前は陽菜乃だった。その名前を見て、ほんの少しだけドキッとする。


「……なんだろ」


 呟きながら開いてみると、送られてきていたのは画像だけだった。それは光の筋で作られたハートマーク。昨日の夜、花火で宙に描いた落書きだ。そういえば最後にまとめて花火をつけたときに陽菜乃がスマホでしきりに何か撮っていたなと思い出す。そのとき、ポンッと新たに画像が三枚送られてきた。

 そこには花火の光で描かれた『ユ』と『イ』、そして『ナ』の文字。さらに続けてメッセージが届いた。


『上手に描けてるでしょ! 綺麗!』

「自画自賛か」


 思わずツッコミながら、少しだけ疑問に思う。


 ――忘れるつもり、あるのかな。


 あの場所でのことは、あそこから離れると忘れる。そうするつもりではなかったのだろうか。それでも忘れたくないほどに花火が楽しかったのだろうか。

 結菜は昨日の陽菜乃の楽しそうな笑顔を思い出しながら微笑んだ。不思議と、さっきまでの鬱々とした気持ちが晴れていくような気がする。


「結菜ちゃん! タクシー来たよ!」


 いつの間にかカナエが先に国道まで出ている。結菜は陽菜乃にスタンプで返信すると、急いでカナエの元へと走った。

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