第12話
昼からの時間はあっという間に過ぎていき、気づけば放課後。授業から解放された生徒たちはそれぞれ部活に行ったり下校したりしている。中には暇を持て余して教室に残り、お喋りをしながら時間を潰す者たちもいた。陽菜乃もその一人のようだ。
しかし、ミチたちと話している表情はどこか彼女らしくない。思ってから結菜は密かに苦笑する。
彼女らしいとは何だ。別に結菜だって陽菜乃のことをよく知っているわけじゃない。ただあの夜の海で会った彼女と、この教室にいる彼女の雰囲気が少し違うだけだ。
――少し、かな。
彼女の笑顔を見ながら思う。控えめな、何かに遠慮したような笑顔。言葉を選んでいるような会話。なんとなく無理をしている感じがして、やはり彼女らしくないと思ってしまう。
昨日の夜に見たあの笑顔の方が彼女らしい気がする。キラキラした真っ直ぐな、あの笑顔の方が……。
そのとき、ふいに陽菜乃の視線が結菜に向いた。彼女は遠慮がちな笑みのまま「松岡さん、帰るの?」と首を傾げた。
「へ?」
思いがけず話しかけられたので、つい変な声が出てしまった。結菜は咳払いをしてから「まあ、うん」と鞄を手にして教室の戸へ向かう。
「また明日ね、松岡さん」
「……松岡さん、ね」
立ち止まりながら結菜は口の中で呟く。そして振り返ると陽菜乃に薄く笑みを向けた。
「さよなら、速川さん」
一瞬だけ陽菜乃の笑顔が強ばったのがわかった。結菜は彼女から視線を逸らして「ついでにミチたちも、さよなら」と手を振る。
「はい、さようなら。って、もー、松岡さん! なんか言葉冷たいよ。ほら、もっとこう、フレンドリーに!」
おどけたように言うミチに結菜は笑って手を振ると教室を出た。そして廊下を歩きながら一つため息を吐く。
――あんな顔するくらいなら名前で呼んでくれたらいいのに。そうすれば……。
「ん? そうすれば?」
自分の心の声に思わず疑問を返す。そうすれば、何だというのだろう。
別に何も変わらない。ただ呼び方が変わるだけだ。それだけのはずなのに、なぜか陽菜乃から名字で呼ばれると突き放された感じがしてしまう。だからモヤッとした気持ちになるのだ。
それはきっと彼女が綾音のことを名前で呼んでいるから。綾音の方が彼女の近くにいるような気がするから。
――会いたいって言ったくせに。
それなのに学校では突き放してくる彼女の気持ちがまったくわからない。突き放してきたからこちらもそういう態度を返した。結果があの表情だ。結菜はため息を吐く。
「……別に、どうでもいいか」
そもそも、こんなどうでもいいことを意識してしまった元凶は綾音だ。彼女が昼休憩に陽菜乃との距離を急速に縮めたりするからモヤモヤした気持ちが生まれてしまったのだ。
「うん、綾音が悪い」
昇降口で上履きから靴に履き替えながら一人頷く。そのとき真後ろから「ほう? わたしが悪い、と?」と声がした。結菜はビクッとその場から飛び退いた。下駄箱に入れかけていた上履きが床に落ちて転がっていく。
「おお、結菜ってばすごいジャンプ力。反射神経いいねぇ」
笑いながらそう言ったのは綾音だった。
「で、わたしが悪いってのは何のこと?」
結菜は深く息を吐きながら「別に。てか、何してんの」と上履きを拾って下駄箱に入れた。
「部活は?」
「あー、休んだ」
「なんで」
「調子悪くて」
言いながら靴に履き替える彼女の横顔を結菜は見つめる。顔色は良好。表情もいつも通り。昼食だってしっかり食べていたはずだ。
「……普通に元気そうに見えるけど?」
結菜が首を傾げると彼女は「まあ、いいじゃん」と結菜の肩を叩いてニッと笑った。
「せっかく偶然こうして会ったわけだし、一緒に帰ろうよ」
そう言って彼女は先に歩き出し、昇降口を出て行く。
「偶然――?」
しかし、彼女が教室を出たのはずいぶんと前だったはずだ。部活を休むことを顧問に伝えに行っていたのだとしても、こんなに時間がかかるわけがない。
「綾音、もしかしてわたしのこと待ってたわけ?」
彼女の二歩後ろを歩きながら結菜は問う。すると彼女は一瞬だけ足を止めて振り返った。
「バレたか」
「なにそれ。怖いんだけど」
「なんでだよ。結菜が一緒に帰りたそうだったから待っててあげたのに」
「わたしが?」
呟いてから「ああ、昼の」と昼休憩のことを思い出した。そして苦笑する。
「わたしはなんで一緒に登校しなくなったのかって聞いただけ。下校のことは言ってない」
「あれ、そうだっけ」
綾音は言いながら「ま、いいじゃん」と前を向いた。
「一緒に帰ろうよ、たまにはさ。昔みたいに」
「まあ、いいけど」
結菜は笑ってさっきよりもほんの少し距離が近くなった背中を見つめる。校庭では運動部の声が響いている。他に聞こえてくるのはボールの音、吹奏楽部が奏でる楽器の音。
「そういえばさ」
校門を抜けて放課後の音が聞こえなくなった頃、結菜は綾音の背中に声をかけた。
「綾音って、部活何やってんだっけ」
「え、ウソでしょ。知らないの?」
彼女は歩きながら振り返る。そこには心から驚いたような表情が浮かんでいた。
「うん、知らない。聞いてない気がする」
「いやいや、言ってるって。ちょっと結菜の記憶力相当ヤバくない? まさか幼なじみが何の部活をやってるのか覚えてないとか……。ん、いや、あれ? 言ってなかったか?」
「おい」
結菜が軽く睨むと綾音は誤魔化すように笑って前を向いた。
「バスケ部だよ、バスケ部。中学と変わらず。まあ、弱小だけど」
「ふうん。試合とかあるの?」
結菜はわずかに目を細めながら問う。道を曲がると綾音の向こうに夕陽が見えた。あまりの眩しさに彼女の背中を見ていられない。
「そりゃあるよ。でも土日にやるからさ」
「ああ、だからわたし知らないんだ」
「うん。それでわたしも言いそびれてたんだわ。どうせ試合とかも見に来てくれないでしょ。あんた高校入った途端にバイトばっかしてるから」
「そうだね」
眩しさに耐えきれず視線を下ろすと綾音の手が見えた。彼女が歩くたびに前後に振られる手。
その手を見ながら、小学生の頃はよく手を繋いで下校していたなと思い出す。もしかすると彼女もそのときの感触を思い出したのかもしれない。だから昼休憩、結菜が握った手を見つめていたのだろうか。
――綾音の手。温かくて、柔らかかったな。
そんなことを思いながら結菜は誘われるように手を伸ばしていた。ゆらゆらと揺れる綾音の右手にリズムを合わせ、両手でそれを捕まえる。
びくりと綾音が右手を引いたのがわかった。しかし結菜はしっかりと彼女の右手を掴んで放さない。
「ちょ、結菜? なにしてんの」
「綾音の言う通り、昔みたいに帰ろうかと思って」
「は?」
「小学生の頃は、こうやって帰ってたじゃん?」
結菜は言いながら綾音の右手を左手で握り直すとブンッと振った。
「そうだけど、さすがに恥ずかしくない?」
「えー。綾音が繋いで欲しそうにしてたからやってあげてんのに」
結菜はニヤッと笑って彼女の顔を覗き込む。綾音は思いきり眉を寄せて「いつわたしがそんな素振りを見せたよ」と首を傾げた。
「昼休憩」
「昼休憩?」
「じっと見てたじゃん。わたしが握った手」
「あ……。いや、あれはただ」
綾音は動揺したように視線を泳がせた。そして深くため息を吐くと脱力したように「あー、はいはい。いいよ、もう、そういうことで」と諦めたように頷いた。
そしてギュッと繋いだ手に力を入れると「今日だけだからな」と前を向いて歩き出した。
「素直じゃないなぁ」
「どっちが」
答える綾音の横顔を結菜は見つめる。その顔が赤く染まっているように見える。自分の顔もこんなふうに赤くなっているのだろうか。だとしたら、きっとそれは夕陽のせいだ。
「――来週だね」
手を繋いでのんびり歩きながら綾音が静かに口を開く。
「よく覚えてるね」
知らない生徒が結菜たちを追い抜いていく。気のせいか、一瞬だけその視線が結菜たちに向いたように見えた。
「そりゃ覚えてるよ……。お墓参りは?」
「日曜。おばさんと一緒に」
「そっか」
それ以上、彼女は何も言わない。
結菜も何も言わない。
無言のまま手を繋いで夕陽が照らす道をのんびりと歩いて帰る。小学生の頃、当たり前のようにそうしていたように。
あの頃は彼女のこの温かな手に救われていたはずだ。それなのに最後に手を繋いで帰ったのがいつだったのか覚えていない。
当たり前だったことが当たり前じゃなくなってしまったのに、そのきっかけすら結菜は覚えていない。いつの間にか、なんてあるわけもないのに。
綾音は覚えているのだろうか。
「結菜?」
綾音の声に結菜はハッと彼女を見る。綾音は不思議そうな表情で繋いだ手を少し挙げた。
「手、痛いんだけど。握力勝負でも挑んでんの?」
「あ、ごめん。つい」
「……いいけど」
ギュッと綾音の手に力が込められる。痛いほどに強く。思わず彼女を見ると綾音はいたずらっ子のように笑って「お返し」と言った。
「馬鹿力」
「そっちこそ」
結菜は綾音と顔を見合わせて笑う。そして再び無言で夕陽の道を歩き出した。結菜の家に到着するまで、その手は繋いだままだった。
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