月明かりの下で
第3話
カラッと乾いた空気に包まれた爽やかな朝。結菜は教室で机に突っ伏して深いため息を吐いていた。
「朝からなに、その辛気くさいため息は」
頭上から声が聞こえて結菜は顔を上げる。前の席には、いつの間に登校したのか
「あー、綾音。今日は早いね。いつも遅刻なのに」
「いや、いつも遅刻ギリギリではあるけどそんなに遅刻はしてないから」
綾音は細かいところを訂正すると、結菜の顔を覗き込んで眉を寄せる。
「なんか、クマひどくない?」
「これでもコンシーラでなんとかしたんだけど……」
「隠してそれ? やばいなぁ。てかスカート、それ夏用じゃない? もう衣替えしたのに寝ぼけて間違えた?」
彼女は眉を寄せたまま結菜の足下に視線を向けた。結菜は力なく「違くて」とため息を吐く。
「昨日、海水に浸かっちゃってさぁ」
「え、なにそれ。ウケるんだけど。海に飛び込んだりしたわけ?」
ウケると言いながら笑いもせずに彼女は結菜の机に頬杖をついた。結菜は身体を起こすと椅子の背にもたれて「違うけど」と呟いてから首を傾げる。
「いや、違わないのか……?」
「なんだよ、どっちだよ」
「まあ、色々あってさぁ。全身ずぶ濡れで、おばさんにめっちゃ怒られた」
「未だに夜の海になんか行ってるからだよ」
頬杖をついたまま綾音は結菜を見つめる。何も感情がないような目で。結菜は苦笑しながら彼女から視線を逸らした。
昔はよく彼女も一緒についてきてくれていた。いつからだろう。一人で夜の海へ行くようになったのは。
「やめなよ、いい加減。変態に襲われるぞ」
少し冗談めかした口調で言って彼女は軽く笑う。しかし結菜は笑う気にもなれず「ほんとそれだよね」と呟いた。
「え、なにその反応。ついに出たの? 通報する? 警察行く? てか何された?」
綾音は目を見開いて結菜の方へ身を乗り出す。結菜は笑って「違うって」と誤魔化した。
「いやいや。でも絶対何かあったでしょ」
「ないない。何もないよ」
まさか言えるわけもない。見ず知らずの女の子と水遊びをした挙げ句にキスされたなんて絶対バカにされるに決まっている。
結菜は深くため息を吐きながら再び机に突っ伏した。その頭をペンッと綾音が叩く。
「ま、別にいいけどさ。マジで変質者出たらソッコーで殴れよ? 迷いは捨てろ。殺す気で殴って蹴って全力で逃げろ」
「はいはい。激しいなぁ、綾音は」
「本気で言ってるんだからね」
ふいに真面目な声がして結菜は顔を上げた。そこに座る綾音は僅かに眉を寄せて結菜を見ていた。彼女は結菜を心配するとき、いつもこんな顔をする。
結菜は笑って身体を起こすと「わかってるよ」と両手を伸ばして綾音の頬を挟んだ。
「もうガキじゃないんだから自己防衛くらいできます。綾音は過保護すぎ」
言いながら思い切り彼女の頬を挟み込んでやる。しかし綾音は抵抗するでもなく、ただじっと結菜のことを見つめていた。なんとなく気まずくなって結菜は手を放す。
「ほんと、平気だってば。もう何年経ったと思ってんの」
ため息交じりに言って結菜は微笑む。
「うん」
綾音は頷き、そして前を向いて座り直した。
「――それでも、あんたは海に行くんだもんね」
ポツリと聞こえた綾音の声。そのときチャイムが鳴った。もう綾音は振り向いてはくれない。結菜はため息を吐きながら彼女の背中を見つめていた。
ホームルームが終わり、授業が始まっても結菜の気持ちが晴れることはない。胸のどこかがずっとモヤモヤしている。目を閉じれば、あの少女の瞳が蘇る。彼女の香りも、唇の感触も。
――忘れなくちゃ。
あそこで起きたことは全部忘れなくてはならない。あの少女がどこの誰で、どういうつもりであんなことをしてきたのかわからないが、とにかく忘れよう。あそこへはすべてを忘れるために行っているのだから。
しかし、あまりにも衝撃的な出来事だったので簡単には脳裏から離れてくれない。
なんだか頭がクラクラしてくるのは、めずらしく考え込んでいるからだろうか。身体が怠いような気もする。教師の声が今日はやたら頭に響く。結菜は息を吐くと机に伏せて目を閉じた。
そのとき「先生」と聞き慣れた声が教室に響いた。少しだけ顔を上げると、前の席に座る綾音が手を挙げている。彼女は結菜を振り返ってから教師へと視線を戻した。
「松岡さん、体調が悪そうなので保健室に連れて行ってもいいですか?」
「え、わたし……?」
結菜はゆっくりと身体を起こした。教師は結菜を見て「わかりました」と頷く。
「行こう、結菜」
綾音は立ち上がって結菜の手を取った。
「いや、わたしは別に」
「まあ、気づいてないとは思ってたけど。あんた今、最高に顔色悪いよ」
「へ? そうなの?」
「そうなの。ほら、さっさと保健室行くよ」
半ば強引に引っ張られながら結菜は教室を出た。
授業中の廊下は静かだ。聞こえてくるのは自分たちの足音と、どこかの教室で授業をしている教師の声だけ。
綾音は何も言わず、ただ結菜と並んで歩いている。すんとしたいつもの表情で。しかし、その歩調は結菜に合わせてゆっくりだった。
保健室で熱を測ると三十八度二分だった。結菜はベッドに横になりながら体温計の表示を見て「おー、ほんとに熱がある」と呟く。
「あんた、その自分の体調に鈍感なところ、そろそろどうにかしなよ」
綾音がベッドの横に置いた椅子に座ってため息を吐いた。
「どうにかと言われても……」
「もうガキじゃないんでしょ? だったら体調管理くらいちゃんとしな」
たしかに綾音の言う通りではあるが、今回の体調不良はどう考えても昨日のせいだ。しかし、あまり詳しくも言えないので結菜は布団を被って顔を隠した。
「まったく……」
「ねえ。松岡さんには早退してもらうことになるんだけど、ご家族の方でどなたか迎えに来られたりする?」
綾音の声に続いて養護教諭である田中の声が聞こえた。結菜は少しだけ顔を布団から覗かせる。
「あの、昼は家に誰もいなくて。仕事で」
結菜が言うと、田中は困ったような顔で「そうなの。でも一人で帰すには熱が高いし」と考え込んでしまった。
「わたしが送ってあげたいんだけど、今日は外出予定があって無理なのよ。困ったわね。他の先生にお願いして――」
「わたしが送って行きますよ」
仕方ないなとばかりに綾音が言う。
「でも、それだと藤代さんも早退扱いになっちゃうけど」
「平気です。別に皆勤狙ってるわけでもないし。わたし、成績もいいですから。あ、元気なのに早退が許されないってことなら、わたしも体調不良ってことにしといてください。ね、先生」
綾音が可愛らしく首を傾げる。
「先生はウソはつきませんよ」
田中はため息交じりに微笑むと「しょうがない」と頷いた。
「担任の先生には松岡さんの付き添いってことで話をしておきます。藤代さんの家にも連絡しておきますからね」
「ありがとう、先生」
「遊びに行っちゃダメよ?」
「行きませんよ。わたしを何だと思ってんですか。ちゃんと看病しますって」
綾音の言葉に田中は頷くと「一限が終わったら荷物持ってきなさいね」と言って保健室を出て行った。
綾音は「ラッキー」と呟きながら結菜に視線を向ける。
「今の、一限はもう戻らないでいいってことだよね」
ニッと笑って綾音は言う。結菜はため息を吐いた。
「別にわたし一人でも帰れるんだけど」
「うん。そう言うと思ってあんたの意見は聞かなかった」
当然のように言って彼女は制服のポケットからスマホを取り出すとゲームを始めた。
「……サボりたかっただけだろ、綾音」
綾音は結菜をちらりと見たが、ニヤリと笑っただけだった。
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