第2話
どれくらいの間そうしていたのだろうか。次第に疲れてきた結菜は「ちょ、ストップ」と肩で息をしながら片手を上げた。
「もう無理。疲れた。終わり」
「なにそれ。一方的」
まだ遊び足りないとでも言うように少女は不満そうに眉を寄せる。結菜は苦笑して「これ以上やってると風邪ひくよ」と砂浜に上がった。
「こんなことで風邪ひいたらバカじゃん」
「……たしかに」
彼女も納得したのか、渋々といった様子で砂浜に上がってきた。そして腕を抱えるようにしながら「え、寒っ……」と首をすくめる。
「だね」
結菜もまた同じように腕を抱えて苦笑した。
「もう海に入るような季節じゃないんだからさぁ」
それでも海水をかけあっていたときは動いていたのであまり寒さを感じなかったのだろう。ふいに少女が可愛らしいくしゃみをした。このままでは結局、風邪をひきそうだ。
「ちょっと待ってて」
結菜は彼女にそう告げると走って道路へと上がる。そして倒れてしまった自転車を起こしてから、その近くに放り投げられた鞄を持って砂浜に戻った。
「はい、タオル。ないよりはマシでしょ」
結菜は鞄からスポーツタオルを出して彼女に差し出す。それを少女は不思議そうに見ていた。
「あ、大丈夫。未使用だから。今日、体育あると思って持って行ったんだけどなかったんだよね。時間割勘違いしちゃって」
「でも、あなたも濡れてるし」
「ああ、もう一枚あるから平気」
言いながら結菜はタオルを少女の頭にかぶせると鞄からもう一枚取り出した。
「なんで二枚……」
「こっちは友達に貸してたやつ。返してもらってから一週間くらい入れっぱなしだったんだけど、役に立った」
結菜は笑いながらそのタオルで自分の頭を拭いた。少女も笑いながらタオルで髪を拭いている。その屈託のない笑顔からは、もう怒っている様子は感じられない。結菜は安堵しながら「ねえ」と少女の綺麗な笑顔を見つめた。
「なんであんなことしようとしたの」
「あんなことって?」
「……自殺」
結菜の言葉に彼女は目を丸くした。
「誰が?」
「あんたが」
「なんで?」
「それをわたしが聞いてるんだけど……」
言って、結菜は「え?」と目を大きく見開いた。
「……まさか、違うの?」
「キーホルダー落としたから探してたんだけど」
彼女は低く、そう言った。
「マジで……?」
「マジで」
少女は頷くと「勘違いにも程がある」と怒ったような表情を浮かべた。
「いや、だってさ、こんな誰もいない夜の海に一人で服着たまま入って行くの見たら誰だって……」
少女の鋭い視線が結菜に突き刺さる。結菜は深くため息を吐いてから素直に頭を下げた。
「すみませんでした」
そして頭を下げたまま海へ視線を向ける。
「探す? キーホルダー」
すると、ため息が聞こえた。
「もう見つからないだろうし、いいよ。別に」
「でも――」
大切なものだったのではないだろうか。でなければ、夜の海で探そうなどと思わない。
「いいよ、もう」
寂しそうな声だった。
月が雲に隠れたのか、月明かりが弱くなった気がする。頭を上げると彼女は遠い目で海を見つめていた。しかしすぐに結菜へ視線を戻すと「あなたはここで何を?」と首を傾げた。
「ああ、わたしはバイト帰りで。たまにね、ここに寄ってから帰るの」
「へえ、なんで?」
「好きなんだ、夜の海。とくに夏が終わったあとの誰もいなくなった海がさ」
「一人で来て楽しい? 夜の海」
冷めた表情で彼女は言う。結菜はムッとしながら「自分だって一人で来てるくせに」と言った。
「わたしは越してきたばかりで散歩してただけ」
「あ、そうなんだ。どこから来たの?」
しかし彼女は答えずに「なんで好きなの? 夜の海」と質問をしてきた。
「なんで答えないかな、人の質問に」
呟いてみるものの、彼女は答えを待っているように結菜の顔を見つめてくる。結菜はため息を吐いて「ここに来れば、全部忘れられそうだから」と答えた。
「忘れる?」
「そう。嫌な事とか、面倒なこととか、好きとか嫌いとかそういう面倒くさい感情も全部」
「感情も……」
「うん。真っ暗な海を見てれば全部忘れられそう。空っぽになれる気がするの。それで心が癒されるような、そんな気がするから」
「デトックス、みたいな?」
彼女の言葉に結菜は「ああ、うん。そう、そんな感じ」と笑みを浮かべて頷いた。そのとき彼女はなぜか目を少しだけ大きく見開いて結菜を見つめてきた。そして「ふうん」と頷くと、一歩結菜に近づく。
「全部忘れるの? ここに来て」
静かな声は、それまでと少し違う雰囲気を纏っている。不思議に思いながら結菜は「まあ。そうだね」と頭に被っていたタオルを首にかけた。
「本当に忘れるなんてできないけどさ。気持ち的にリセットできるっていうか」
「……じゃあ、ここで起きたことは?」
また一歩、彼女が結菜に近づく。
「え?」
「ここで起きたことも、この砂浜から上がった時点で忘れる?」
距離が近い。綺麗な顔がすぐ目の前にある。それでも彼女はまた一歩近づいてくる。結菜は急に恥ずかしくなって視線を彼女から逸らした。
「ねえ。ちょっと近くない?」
「忘れる?」
もしかすると、このずぶ濡れの状況を忘れて欲しいのかもしれない。そう思い、結菜は「あー、うん。忘れる。忘れるから」と頷く。そのとき、ふわりと頬に何かが触れた。冷たくて温かいそれは彼女の手だった。
「なに――」
しかし言葉を発しようとした口は柔らかな感触に塞がれた。温かくてしっとりとした不思議な感触。それは一瞬だけ結菜の唇に触れて、すぐに離れた。甘くて良い香りがふわりと鼻をくすぐる。
「……は?」
声を漏らしながら結菜は自分の唇に手を当てた。すぐ目の前には弱い月明かりに照らされた涼やかな瞳。波の音がザザッと静かに響いていた。
何が起きたのだろう。
いったい、この少女は何を……。
そのときバサッとタオルが結菜の頭に降ってきた。そして「じゃあね、結菜」と耳元で聞こえた囁くような声。
「え……?」
結菜はタオルを手に取って下ろす。しかし、少女の姿はすでに道へと向かっていた。そのまま彼女は振り向くこともせず去って行く。
「え、何。なんで名前……」
呟きながら手にしたタオルを見つめる。
「ていうか、さっきのって」
唇だった。出会ったばかりの名前も知らない少女の唇。しっとりとしていて柔らかくて、そして一瞬だけ感じた温かな吐息。
「ウソでしょ」
呟きながら結菜はその場にうずくまって顔をタオルで覆い隠す。さっきまで少女を包んでいたそのタオルからは潮の香りとは別の甘くて良い香りがする。それは、さっきふわりと感じた彼女の匂い。
結菜は慌ててタオルを下ろすと自分が使っていたタオルを力一杯顔に押さえつけた。そして気持ちを落ち着けようと深く息を吐き出す。
「何なんだよ、あいつ……」
高校一年の秋。生まれて初めてのキスは、海の味がした。
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