陽炎の

 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ

 夢と知りせばさめざらましを


 夢を見るんだ。いつか隣にいた日の。

 ランドセルを揺らしながら走った桜並木の通学路、セーラーの襟を引っ張った夏の教室、髪にかざしたイチョウの葉は風に吹かれて、深紅の振袖を雪の降る下で見た。

 俺の知っている美冬。俺の知らない美冬。

「たちばな」も「あきひと」も舌っ足らずで上手に言えなかった俺たちが、六年隣で机を並べて、泥だらけになって一緒に帰って。セーラー服に袖を通したお前は、いつの間にかグラウンドで砂まみれの走幅跳していたし、時を同じく俺は白球を追っていた。冷たい春の空の下、卒業証書を振り回して「またね」と言って、お前は進学校のブレザー着てたみたいだし、俺は商業高校の学ランに袖を通した。


 夢を見る。俺は何度もお前の隣にいるために学生時代を繰り返す。


 第一志望、受かったんだってね。赤いリボンにお揃いのプリーツスカート。お前は相変わらず着崩すことなんてしなかったんだろう。

 ライトブルーのワンピースのお前と夏の一日を過ごした。なぁ、お前のカメラロールにはどんなお前がいたんだい。


 夢を見る。夏の盛りはどこまでうつつか。

     

 寝返りを繰り返して、深い深い眠り行きに乗車する。

 陸上続けなかったんだな。あぁ、バレーボール始めたのか。野球辞めて長距離走り始めた俺と入れ違いみたいだな。卒業後は俺は就職するよ。うん、地元の企業内定決まったんだ。お前は大学か。ふぅん、小学校の先生ね。相変わらず勉強好きなんね。応援してるよ。俺ん所の体育祭? 来るな来るな、男臭い。美冬んとこ無いの、代わりに文化祭ね。予定合えば行ってやるよ。 え、彼女……は今はいねぇーよ。つまんないって、おい。好きな人か。

 電車が揺れる。ガタン、ガタン、コトコトと不規則な振動を共有をする。


「ずっとお前が好きだった」


 その一言はぐっと心に押し込める。

 夢の中であっても。


 スカートの裾を風に揺らして、汚れた白いスニーカーばかり見るお前なんかに、俺は告白なんて出来ないよ。太陽にお前の自慢のポニーテールが濡れ羽色に照らされても、これ以上泣き顔がお日様に照らされたら可哀想じゃないか。

「青」がフラッシュバックするんだ。何度も脳裏に瞬いて、消えない傷を残すように煌めく。

 車窓は緑からトンネルを抜けて青を映した。

 八月の青海川。駅舎の影が短い昼下がり。車内アナウンスと一緒に手を絡ませたまま下車して、身体中で潮風を浴びた。ホームに燦々と日の光と熱が飽和している。


「とおく、に来たよ」


 ゆっくりとつないだ手を揺らしながら自分たちが乗ってきた電車を追いかけて歩く。

 波打ち際の白が涼やかな音とともに真夏の海の香りを届ける。


「蝉の声とカイチョーオンが聞こえるね」


「なにそれ」


 手のひらから熱が逃げる。両肩をつかまれて海に背を向けられる。


「目ぇ閉じて。潮の音を聴いて」


 言われた通りに瞼を閉じる。

 正面からはじいじいとやかましく蝉の鳴き声が降ってくる。後方に意識を向ければ、


 潮の香りがした。同時に風に乗って甘ったるいラムネの匂いが鼻孔をくすぐる。

 唇に柔く熱を感じた。


 ざざぁん、ざざんと波の音がした。

 目を瞑っている間、何度も波が渚に打ち付けられる音を聞いた。


「海潮音。海の音のことだよ」


 切なげに微笑む。

 俺は知らない。こんな美冬を俺は知らない。


 一瞬だけ触れた熱を確かめようと、自分の口元を触る。

 ラムネの泡は弾けてしまった。炭酸なんて無い。瓶を傾けず、俺がそのまま置いていたからただの砂糖水になってしまったんだ。喉の乾きを潤してくれない。嚥下する度に口のなかに甘さだけが残って、いつまでも甘いまま。ずっと後味だけが甘いまま。どうしたらいいんだよ。


「秋人」


「ねぇ、今なんで」


「何でもないよ。何も答えない言わない黙ってる」


 手ぇ出して、と離れた手を再び絡めてホームをゆっくり歩きはじめた。

 きゅっと真一文字に唇を固く結んで、海の向こうを見ている。唇を噛んで、俺と目を合わせてくれない時。何度もあったから知っている。

 初めから何も無かった。橘美冬と藤原秋人は交わらない。ずっと二人、平行線を歩いているんだ。そう言われた気がした。なぁ、それは建前だろう。

 それでも気付かないフリをしよう。オサナナジミは曖昧な関係で過ごすのにちょうどいいの。私をどんなフィルターから覗いていたっていいわ。私にバレずにレンズを覗いて。撮った写真は見せないで。「名前の無い関係」でいましょう、これからも。今までと変わらず、ずっと。


 冷房で冷えた手に体温が戻らないよ。

 一瞬であってもお前の目を見れば解るんだよ。何年隣にいたと思っている。頭ん中全部俺もお前も筒抜けだろう?


 お前が聞くな、というから気付かないフリをする。

 お前が言うな、というから名前を付けない。


「……ゆめとしりせばさめざらましを」


「うん?」


「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ

 夢と知りせばさめざらましを」


 忘れないで。よぉおく、その頭で覚えておいてよ。解らなくてもその胸に刻み込んでおいてよ。


 水平線を背に言うお前の言葉は一言一句忘れてないさ。

 伏し目がちだった瞳には俺だけが映っていた。蝉の声も波音も聞こえない。お前の声しか聞き取れなかった。


「夢と知りせばさめざらましを。私たちは夢を見ていたんだよ。出会ったあの日から長い夢を見ているの」


「そんな、そんなことない」


「いつか目を覚まさなきゃ。秋人に頼らず生きれるように」


 この瞬間を何度夢で見たのだろう。いつまで経ってもフルカラーで色褪せない。鮮明な青と鼓膜を震わすお前の声。真夏の青海川。頬を撫でた磯の香り。背中を伝った汗。絡めたままの指先と、ラムネ味が弾けた。


「腐れ縁はここで切ったから」


 するりと自分の身体から体温が消える。

 世界でいちばんきれいなポートレートだった。コマ撮りが辛うじて繋がって、ぎこちないスローモーションで再生が始まる。それでも記憶が一枚でも抜け落ちることなんてないんだ。


「秋人、アンタの運命の人は私じゃない」


 それでも、と貴女は海に叫んだ。


「夢と知りせばさめざらましを」


 呪いの言葉だ。あの日、あの時、身体に記憶に刻み込んでしまったのが運の尽き。

 知らない歌だと忘れることができたなら、こんなにもいつまでも、今日までも呪われていなかった。




「俺たちは結局、泥舟に乗ってたんだよ」


 鈍色の雲から雪がちらちらと降り、月のない夜の冷え切った風が俺の頬を刺した。

 呪ったお前も、呪われた俺も。二人そろって海の底に溶け行く舟を漕いでいる。どちらか一方が木舟なんて、そんな器用な真似はできなかったんだ。お前が切ったはずの腐れ縁は泥舟に結えられたままなのさ。誰が言ったよ「一蓮托生」。沈んでしまったらどうしようもないのに、俺もお前もお互いに手を伸ばしあってきっとそのまま。海の泡になるのも悪くないだろう。


 夢を見ていたことにしたんだろう。

 夢ならばどれほど良かったのだろう。



 ゆめとしりせば、ゆめとしりせば。

 意味なんて知らない。誰の歌。なんの想いをお前はこの歌に託したんだよ。

 スマホで調べるのは反則負けな気がして、今すぐにこの暗号を解読したいのに、頼りたい相手は出題者。


 嗚呼もう!!


「秋田せんせー! 今時間ある?」


 お盆明けの部活は時間ピッタリから参加して、途中でバックれて教務室の国語教師を呼び出した。


「藤原どうした? 国語だけは補習なかったろ」


 歳の近い国語教師は扉の外のむわっとした空気に顔をしかめた。

 すかさず俺は少し背伸びをして耳打ちをした。


「せんせー、恋文の解読手伝ってくれない?」


 それはなかなか風流な。粋なことをする人だね。


 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ

 夢と知りせばさめざらましを


 千年以上昔の歌。小野小町の恋の歌。


 愛する貴方を想って眠りについたので、夢に現れたのかしら。夢だとわかっていたならば覚めなかったろうに。


「夢以外でも会いに行ってやりなさいな。健気なことだね」


 違う。アイツはそんな意味だけでこの歌を贈ってこない。。わかりたくない、気付いてしまった。オサナナジミが嫌になる。ああ、なんで。だってアイツは。


「せんせ、ありーがとね」


 お礼の言葉をそこそこに、顔なんて見ずに駆け出した。抜け出したはずのグラウンドに戻っても、練習中の生徒は誰もいない。隅の錆びた蛇口を捻って頭からぬるい水を被る。


「うああああああ!!!!」


「いつか目を覚まさなきゃ。秋人に頼らず生きれるように」お前の声が反響するんだ。

 縁が腐れているなら一思いに断ち切ってくれよ。夢でも会いに来ないでおくれよ。

 夢に見るほど俺を慕ってくれた、会いたいと願ってくれていた。これだけの意味であるのならどれほど救われたか。……俺らは夢ので会っているんだ。

 なぁ、美冬。お前の言う「夢」は俺と過ごした時間だろう。青海川の一日、いやそれ以前も含めて全部なんだろう。俺が隣にいたことを「夢」だったことにしているんだろう? 思い出全て、長い夢の出来事にしているんだろう。


 汗も涙も鼻水も。ぬるい水が混じり合う。


 忘れないでよ。時間が経って思い出せない、なんて言わないでくれよ。

 朝になって目が覚める。夢の続きは夜までお預け。おぼろげな記憶、仄暗くてぼんやりしてて、ぬるくて、曖昧に揺れ動くもの。朝焼けの霧をいつまで待ってくれている? 真夜中に触れた琴線をいつまで覚えていられる?

 時計の針が回って、カレンダーのページをはぐって、窓の外の景色も移りゆく。


 長い「夢」ならば。

 二人で過ごした時がすべて「夢」ならば。


 ──夜よ、明けないで。


 まだ忘れるな。遠くになんていかないで。俺を一人にしないでよ。夢の続きを一緒に見ようよ。ねぇ、美冬。美冬ってば。


 お前ともっと、

 お前のことが、


 恋焦がれている。手を伸ばして走っている。

 ありもしない「もしも」が正夢にならないだろうか。


 冷たい水を拭って、グラウンドの埃っぽい空気を吸い込む。


「夢」を見るには夏は暑すぎる。

 夏の夜は短くて、日差しが強くて目覚めがどの季節よりも早いから。


「ゆめとしりせば、、!」


 別れがもしも「冬」ならば。

 雪の冷たさが心の痛みを紛らわしてくれただろうか。長い夜は夜明けを曖昧にしてくれただろうか。夢の終わりに気付かない「春」の暁はすぐそこになる。



「あきひと」



 名前を呼ばれたから振り返る。

 名前を呼ぶを見る。


 あの夏の日は栗色の髪の少女だった。



「秋人」



 手櫛で整えただけでも艶のある黒髪。相変わらず貴女の素顔は童顔のまま。

 春も夏も秋もずっと。雪が降りしきる冬のこの日、貴女に、美冬に名前を呼ばれるのを待っていたんだ。


「なぁんだよ」


「呼んでみただけ」


 そういう貴女を、橘美冬との再会を俺はずっと待っていたんだ。


「心のどこかでさ、名前を呼んだら会えないかって考えてたのかな」


「思っても呼ぶ気はなかったろ」


「そうね」


 俺にとって「橘美冬」を呼ぶこと、お前にとって「藤原秋人」の名前を呼ぶこと。


「多分だけどさ、お互いに名前を呼んだら会えるってわかってたんだろ」


 呪いが解かれてしまう。


「わかってたから呼ばなかったのかも」


 きっとそう。知ってたんだよ、心のどこかで。

 お前が「秋人」と名前を呼べば今度こそ呪いが、魔法が本当に解けてしまうんだ。

 あの夏の日の答え合わせをしてしまう。貴女が俺に贈った恋文の返歌をしなければ。曖昧なまま「夢」が「思い出」に変わるようなら、俺は橘美冬、貴女の、お前の存在を──


 街灯の光が薄ぼんやりと雪を照らしている。

 真白い氷の粒がとめどなく長い髪を濡らすのをじぃと見る。

 冬の外気温とおそろいの指先で、もう一外度君に触れることが出来たなら。また胸いっぱいに抱きしめて、夢より確かなお前の香りに包まれたい。

 コートのポケットの中で固く左こぶしを握った。薬指の金属は立派な呪い返しだ。俺にとってお前こそ「夢の中の人」だと主張する。


 一歩半。肩も当たらない。手も触れない。よく通るお前の声が車の音に掻き消されないこの距離が、夢と現ほど近くて遠いんだ。

 隣を歩くお前が見えなくなるほど酷い雪だったのなら。お互いの声が聞こえないほどの吹雪だったのなら。


 もしもなんてありもしない。どうせ朝が来れば夜は夢だ。雪が溶ければ直ぐ春になる。

 次は俺が呪ってやる。「夢」だと受け取ればかやろう。


「美冬、俺、お前のこと──」


「夢と知りせばさめざらましを」


 キッと瞳が見開かれて言いよどむ。

 美冬の目はもうずっと前から開いていたんだ。なぁんて知っちゃったらさ、お前と夢の続きを見ることも、ましてや呪いなんて。

 ……叶いっこないじゃんね。先に逃げたのも、縋ったのも全部俺。忘れたいことだとわかっているのに、薄れゆく記憶に手を伸ばして、大事な人を裏切ってまで会いたいなんて。


 はらりはらりと静かに降る雪。

 マフラーごと貴女の髪を揺らす風。


 冷たくて、痛い。

 外気に触れる肌も、胸の奥も。


「ここまででいいよ。ありーがと」


歩みを止めて、さいごに、と星が瞬く瞳を覗く。

これ以上は魅入ってはいけない。わかってはいるんだ。サヨナラの挨拶が喉奥につかえて、言葉にならない想いのせいでやっぱり俺の台詞は貴女には届けられない。


「美冬。サヨナラは……言わない、


 熱くて、苦しい。

 涙をこらえる目頭も、貴女に触れた指先も。


 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ

 夢と知りせばさめざらましを


 貴女との出会いすべてが「夢」であるならば、貴女には夢の終わりに気付いて欲しくないんだ。


 一人で改札を抜け、凍りかけた鈍色の車両に乗り込む。青白く淡く照らされる街路に人影はない。


 これでいい。俺は貴女の運命の人ではなかった。一蓮托生の腐れ縁を泥舟に固く結わえて、ただ、夢から現に出港しただけの仲。俺は貴女の幸せを願うよ。俺の知らないところで美冬、お前が笑っていればそれでいいんだ。


 お願いどうか雪を払って春まで眠れ。

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