第7話 堕ち行く心 〈2〉


 また、夢を見た。


 いつの日のことかは分からない。

 俺の三年間の記憶の中には、似たような日が多すぎて……でも、そのどれもが、同じ顛末を辿る。



 そしてこれは……とびきり酷い、記憶の。




 その日は――何処かの廃屋にて、シュウは縛り上げられていた。

 口は布をかまされて、まともに言葉は発せない。

 足はギリギリ、床に着くか着かないか。


 梁から下げられた縄が、両腕を堅く縛り、つり上げていた。


「……?」

 困惑の目を、周囲へ向ける。

 幾つもの人間の目が、此方を注視していた。

 姿形はよく見えない。


 廃屋を照らす灯りは僅かな蝋燭のみ。

 朧気な光は人々の輪郭を闇の中に僅かに浮かばせるのが精々だ。

 揺らぐ光の熱を帯びた目だけが爛々と煌めきながら、此方を見つめていた。



 どうしてこうなったのか。

 これはいつのことだったか。



 夢の中でもなお奇妙に鮮明な意識が、思考を巡らせる。

 これは……確か西の大陸での記憶、だったか。


 小さな、本当に小さな、名前も無いような村を訪れて……そこにやってきた【獣】を葬り去った後の、記憶。

 いつものように身体の損傷を厭わずに戦い、戦い、戦い抜いて。



 ――そうして気がついたら此処に運び込まれていた。



 頭が、痛い。

 ぼそぼそと、交わされる言葉を、耳にする。


「本当にこいつの血は、【獣】を殺す毒になるんだな?」

「ああ、確かにこの目で……」

「しかも、千切れ飛んだ腕も元に戻ったと」

「ここに運ぶために頭蓋を確かに割ったが……この通りだ」

「はは。そりゃあ確かに……化け物、だな」


(ああ、思い出した)


 これは三年程度の記憶の中で、一番思い出したくない物だ。

 嫌だと思いはすれど、記憶を再現した映像は勝手に進んで行く。


 不意に、頬に鋭い痛みが走った。


「!」

 顔を歪めるも束の間、痛みはすぅっと消えていく。

 恐らく、今し方刃物で付けられた傷も、同じように消えたはずだ。


 感嘆のような声が、廃屋の中に生まれた。

 誰かが、「化け物だ」と、乾いた声で笑い。


 次に無音が、たっぷりと闇の中に満ちる。


 心臓の音が、首筋を流れる血流の音が、どくんどくんと鼓膜を打つ。

 刃が服を裂く。

 肌を這う冷たい感覚に身を捩る。

 誰かの呼吸の音が、涎を垂らす獣のようなそれが、耳に届く。

 熱に浮かされた幾つもの眼球が、ジッと此方を見つめ。

 誰かが掠れた声で「やれ」と言った。

 思い切り振りかぶられたナイフが、ギラリと輝きを放った。


「――ひ、っ……」


 悲鳴染みた声が微かに零れ、それからそれは、一瞬で絶叫に変わった。



 ……そこから一体何を叫んだのか、何をされたのか、ロクに覚えていない。

 まともに言葉は生み出されなかった。


 ただ自分の血の熱さと、痛みだけが全ての感覚を焼き尽くし。

 永遠のような時間を、耐えがたい苦痛に身もだえ、泣き叫ぶしか無かった。


 最初は腕を。

 次に足を。

 そうして、腹を。

 次第にエスカレートする行為は、手を、首を、目を、ありとあらゆる箇所を抉り、切り刻み、溢れ噴き出す血を人間達は桶に収め、樽に収めた。

 【獣】を殺す毒となる血を、彼らは手中に収めようと必死だった。

 生きるために。生き残るために。


 ……だがそれらは段々と、変化していく。


 嫌悪は興奮へ、恐怖は歓喜へ。

 振り上げられる腕は、饒舌に語る。

 暴力によって得られる快楽の心地よさを。


 抑圧、疲弊、恐怖、摩耗――【獣】の危機にさらされ貧しく生きる人間の内側に巣くう、感情。


 それをぶつけるのに、眼の前の死なない肉体はおあつらえ向きだった。

 無尽蔵に噴き上げる血飛沫と悲鳴は、鬱屈した感情を燃え上がらせ、思考を灼き、盲目とするには充分過ぎた。



 目的の為の暴力がいつしか、暴力その物が目的になっていったのだ。



 その時ばかりは、自分の身体をシュウは心底怨んだ。

 自分を怨んで――嘆いて、泣き叫んで。



 



 それ以上の感情は生まれ出ず、やがては諦めのような感情だけが、胸を満たした。

 この行為によって救われるものがあるのなら、それは仕方ない、と。



 誰かの心が救われるのなら、仕方ない。



 ――そう。



「仕方ない」

 今なら、思える。



「人間じゃないのなら仕方が無い」

「化け物と呼ばれるのも、当然のことだった」

「人間じゃない自分に、人間の世界での居場所がなくて、当たり前だ」



 そう、自分のことを知った今なら思える。


 思える。

 だけど――痛みは痛くて、苦しみは苦しい。

 そんな「当たり前」もまた、今だからこそ分かる。


 こんな仕打ちが「当たり前」である筈が、ない。

 もっと暖かい物が、世界にはある筈、で――。


 それはきっと、あの人の小さな手のような。

 あの人のくれる、柔らかい微笑みのような。


(たすけて)


 火で真っ赤に熱された刃が眼球に近づけられる。

 それだけで目が沸騰するほどの熱さを覚え、弱々しい悲鳴が漏れた。

 首を振って逃れようとしても、逃げられない。


 縄を切られ地に引き倒され……大勢の人間に押さえつけられた身体はピクリとも動かせない。

 幾度となく切り刻まれ、傷つけられた身体はとうの昔に酷く、疲れ切っていた。


 獣の息づかいのような、荒々しい吐息が、聞こえる。

 時折それは、引き攣った笑いの音を、零す。


(いやだ)


 真っ赤な切っ先が、近づいてくる。


(いやだいやだ、いやだ……!)


 激しく、浅い呼吸を何度もくり返し、くり返し、そうして、涙が蒸発する音が、耳に届いて、



「――――――――――ッ!」



 絶叫と共に、覚醒した。

 目からボロボロと涙が溢れて、止まらない。

 汗が全身をぐっしょりと濡らし、なのに身体中が酷く冷たくて堪らなかった。


 右を、左を、見渡しても闇しか見えない。

 それが、夢の中の光景を想起させて、耐えがたい恐怖を胸の内に生み出す。

 早鐘を鳴らす心臓の音が、耳の間近に聞こえた。


 せめて灯りを付けようと、闇夜を探る。

 だが焦燥と混乱を引きずったままの身体は上手く動かせず、足をもつれさせて倒れてしまう。


「……は、……はぁっ……はっ……あ、……ッ」


 激しい震えが全身を襲い、小さく丸まって必死に堪える。

 夢から覚めても消えず、耳にへばり付いたあの笑い声が、吐息の音が、頭の中をぐちゃぐちゃに踏み荒らす。

 呼吸の順番が分からず、滅茶苦茶に息を吸って吐いた。

 吐き気がこみ上げ、胸元を掻きむしる。

「う、ぅ……く、――っ」


 静寂が、恐ろしかった。

 闇夜が、恐ろしかった。


(だれか)


 そして何よりも――今は、誰かの手が欲しくて、仕方なかった。

 あの時は何も思わなかった。

 好き勝手に身体を壊され、廃棄され、崖下で目が覚めても終ぞ、何の感傷も抱かなかった。

 だが今は、喉を掻きむしる程に、胸を抉りたい程に苦しかった。

 悲しかった。

 怖かった。


 水を与えられて初めて飢えを知り。

 温もりを与えられて初めて、寒さを知った。


 そしてそれらは、悲鳴を上げても涙を流しても尽きることない、底無しの苦痛を帯びていた。


(だれか、だれか、だれか……っ)



 ――――、と。



 鈴の音が一つ、答えた。

 それから、


「……シュウ?」


 頭上から上がる声に、ハッと身体の震えが止まった。

 見上げれば、驚いたような顔で佇む椿の姿が、あった。


「ど、どうしたの?」


 自分が殺そうとしている筈の魔女は、洋燈を床に置いて膝をつき、優しい声で問いかけてくれた。

 そうして優しく、両の手で頬を包み込んで、涙を拭ってくれる。


「大丈夫? 悪い夢でも見た?」


 暖かい、小さな手の感触に、呼吸が徐々に、落ち着いていく。

 シュウは床に伏せたまま、彼女を見上げた。


「つばき、さん」

 そして彼女の名を、呼ぶ。


「なあに」

 彼女は甘く、優しく、答えてくれる。


 それだけで胸の中で暴れていた感情が、鎮まる。

 彼女の両手を、包むように手を重ねる。


 シュウは何度か、口を開いては閉じて……何を言いたいのか分からなかった。

 あの、だとか、いえ、だとか。意味の無い言葉だけが、形を作る。


「大丈夫。ゆっくりで、いいよ」

 私はちゃんと、待つから。


 幼子をあやすように、彼女は言う。

 掠れた声でシュウは「はい」と、答えた。


 それから、ゆっくりと時間を使って、言葉を、探す。

 胸の中にある感情を一つ一つ、解いていく。


 何が悲しくて、何が怖くて。

 どんな言葉でそれらを語るべきなのか。

 考えて、口を、開く。

 それから、


「……教えて、ください」

 乞う。

 彼女は小さく笑って、頷いた。

「うん」



 そこからは……勝手に、言葉が零れ落ちた。



「化け物が、人のために生きることは、悪いことですか」

 ――痛みに叫ぶ。笑い声が、指を指す。


「如何して俺には居場所がないんですか」

 ――悲鳴。恐れ怯えた目が、幾つも向けられる。


「何故、世界は俺に痛みしか返してくれないんでしょうか」

 ――戦い、欠け、血まみれの身体で立ち尽くす。



 その傍には誰も、いない。

 いつも、白く凍えた景色だけが、共にあった。



「なんで、俺は……こんなに……世界を……すくいたい、なんて……」

 言葉は、止まらなかった。


 口から溢れる、自分の数年間の経験に対する、思い。

 生まれ、消えてはあふれ出す、様々な記憶。痛み。


 願いとは裏腹に与えられる物は冷たくて痛くて、恐ろしい物ばかりで。

 それでも自分は、彼らを救いたいと思った。願った。


 世界を救いたいと、望んだ。渇望した。



 何度裏切られても、盲目に。

 何度拒絶されても、真摯に。



 それが異常なことであると、今漸く、気付いてしまったのだ。


 眼の前で悲しそうに顔を歪める【魔女】がそれを、教えてくれたのだ。

 優しく抱きかかえ、頭を撫でてくれる彼女の温度が、教えてくれたのだ。


「シュウは、憎くないの……?」

 問いかけに、力なく首を横に振った。


「そう、思えないんです。そうするのが普通だと分かっていても俺は、誰かを救うことをやめたくない……それがどうしてなのか、分からない……だけど俺は、やめられない……誰かを救うことを……それで、誰かが受け入れてくれたことなんて、ないのに……」


 今でも自分は、世界を救いたいと望んでいる。

 その願いは薄れることも絶えることもなく、自分の胸の中に未だ、在る。


 世界を救うための『機構』。人形。

 それがきっと、シュウという作り物が生み出された、目的なのだろう。

 あの時椿がはぐらかした、答えなのだろう。


 それくらいはもう、分かっていた。


 だが同時にそれは、自分の歩みの空虚さの証明に他ならない。

 取り憑かれたように歩み、救い、守り続けた三年間は、その『機構』故の行動でしか無く。


 何も、シュウ自身は望んでこなかった。


「俺はどこにいたって、どこにもいない……」

「此処にいるよ。シュウは。……今は、ここに、いるの」


 それを椿は、……世界を壊し滅ぼす魔女は唯一、肯定してくれる。

 抱きしめ、繋ぎ止め、赦し、与え、護ってくれる。


「きみはもう、何も救わなくて良い。助けなくて良い。此処には私と、シュウだけしかいないから……大丈夫……大丈夫だよ……」


 その言葉の温かさに、涙が溢れた。

 その腕の優しさに、心が暖かくなった。

 だから、


「だからただ……私を殺すことだけを、考えていれば、いいの」

「……はい」


 だから本当はもう、彼女を殺す事なんて、頭の中の何処にもなかった。

 彼女が与えてくれる言葉、温もりがもう、どうしようもなく手放したくなくなっていた。


 自分は彼女をずっと欲しがっていたのかも知れない……そんな風にさえ、思った。

 ずっと此処にいたい。

 彼女と共にありたい。




 そう――――――――――――――――思って、しまった。



  *




 少年と少女は出会った。

 白と黒と、灰色の世界で。


 そして彼らは手を取り合った。

 白と黒と、灰色の世界で。


 少年の心を少女は埋め、少女の心を少年は埋めた。

 互いが欲していた物を互いが埋め合い、慰めあい、救いあい。


 そうして二人は長く、永く、幸せに生きました。

 世界が滅ぶ時まで、二人きりの幸福に、満たされて。




 そうして世界は静かに終わりましたとさ。




 本当に――そう締められるのなら、どれ程よかっただろう。

 



椿?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る