鳴海沢君の擬似逃避行劇

青いバック

私と鳴海沢君の逃避行?

 まだ夏の残暑が日本列島に残る九月のある日のこと。夕焼け空が教室をまだ咲ききらない椛の色に染めて、蝉の声がやけに静かになった九月のとある日。私は鳴海沢なるみざわ君に声をかけられた。


「夏海さん、一緒に逃避行しない?」


 その日は晴天で、いつも通りに朝早く起きて学校へ登校して、友達とくだらない中身のない将来性すらも感じれない低俗な会話と行為でその日を満喫していて、それが心地よい日だった。私は学校という閉鎖的社会の繭にくるまって、まだ羽化しきれない未熟な子供だからこんなことで笑えている。


 友達との会話中、斜め横に視線をチラッと写すと、有名画家が描いたような一枚絵の鳴海沢君は今日も麗しかった。窓からの日差しは教室の温度をグングンとあげていき、負けじとクーラーも教室を冷やす。寒いと暑いの境界線が生徒の憩いの場で、そこに鳴海沢君の席はあった。


 鳴海沢君は誰かと話すことも無く、ずっと無言で本を読んでいるせいで、周りの人からはイケメンなのに誰ともつるまないから残念イケメン、陰キャイケメンなどと鳴海沢君には似合わない蔑称を付けられ嘲笑われている。


 私はあれだから鳴海沢君なのだと、いつも心の中で反抗している。面と向かって言う勇気はないが、鳴海沢君は一人で黙々と本を読む姿が一番様になっている。


 長いまつ毛が太陽の光をたくわえて風に揺れると、それは桜吹雪のような美しさを持つ。純日本人だと思えないほどに高い鼻はピノキオをも凌ぐ。声は透き通ったガラスのようで、あまりの心地の良さに耳は青空に羽ばたいてしまう。


 そんな鳴海沢君だから一人でいるのがいい。みんなは分かっていないのだ、鳴海沢君ブランドを。


 でも、私だけが鳴海沢君ブランドを知っているのは優越感にも浸れて悪い気はしない。


 もし、そんな高嶺の花である鳴海沢君がお願いごとをしてきたら、どんなお願い事でも私は首を縦に降ってしまうだろうな。


 そう思っていたのが昼の出来事で、まさかそれが半日たって実現されるなんて夢にも思っていなかった。何となく教室に残っていて、鳴海沢君も残ってるなあと視界の片隅に捉えていただけで声をかけられるとは考えもしなかった。


 しかも、その内容がまたぶっ飛んだもので私は素っ頓狂な表情をしてしまった。口をポカーンと開けて餌を待つ鯉のようなアホらしさを前面に押し出している。鳴海沢君の言葉を処理し終わった時、自分の情けない表情を恥ずかしく思った。


「逃避行ってあの?」


 言葉を咀嚼して胃に流し込んだ私は鳴海沢君に逃避行の意味を聞く。私が知っている逃避行とは、世間の目から離れたり、人目を避けることを言うのだが鳴海沢君の辞書では違う可能性もある。


 だからこそ聞いてみたんだが、逃避行に誘われて逃避行の意味を聞くというのはよくよく考えたらおかしい行為なのかもしれない。いや、そもそも逃避行に誘われるという現実がおかしいのだが。


「うん、あの逃避行。あっ、急に声かけてごめんね」


 私は今謝るの?と不思議に思った。今まで話してこなかったから分からなかったけど、鳴海沢君は天然気質なのかもしれない。


「ううん、そこは気にしないで。私が気にしてるのはなんで逃避行するのかなってところ」


「それは読んでいた本に出てきたから。主人公たちの気持ちを知るために僕もしてみようかなって」


「ふーん。でも、なんで私なの?もっとほかに居たんじゃないの?」


「夏海さんは明るい人で、本に出てきたヒロインによく似てたから」


「じゃあ、鳴海沢君もその本の主人公に似てるの?」


「全然。似ても似つかないよ」


 クシャッと紙を丸めたように口角を上げて笑う鳴海沢君。不意に見た知らない一面に、私の胸の奥がドキンと大きく跳ねる。夕焼けをバックに鳴海沢君の黒髪はよく映えている。


「逃避行って具体的には何するの?」


「本に出てきた内容では海へ行ったりするらしいんだ。でも、僕は気付いたんだ。本当に逃避行をするとなったら何日も家を出ないと行けなくなるんだ。そうなると、僕の両親も夏海さんの両親も心配して卒倒してしまうかもしれない」


「まあ、そりゃそうだね。一日だけ逃避行というのもよく分からないし」


「そこで、僕は擬似逃避行を思い付いたんだ」


「擬似逃避行?」


 擬似逃避行という言葉を放った鳴海沢君は誇らしげに胸を張っているが、どこからその造語センスは出てきたのだろうか。私は耳馴染みない言葉に困惑し、擬似逃避行の意味が分からなかった。


「擬似逃避行って言うのは、主人公たちの足取りを真似ることをいうんだ。例えるなら、ごっこ遊びの上位互換といったところだね」


「主人公たちの足取りを現実の世界で擬似的に再現するということ?」


 うん、と鳴海沢君は言う。これはまたぶっ飛んだことを考えるなと思い、それはそのままするりと口から出そうになる。喉の声帯を心に宿した縄できつく縛り上げて言葉をせきとめる。


「どうかな?夏海さんが良ければ、明日の土日でやってみたいんだ」


 サラッと眩しい笑顔で鳴海沢君は言う。子犬のように愛くるしい瞳の奥には邪念の欠片すらも見えない。


 けれど、私の心臓はそんなのを捉える暇すらなく絶え間なく鼓動していた。突然訪れた鳴海沢君との遊びイベント。鳴海沢君本人は擬似逃避行をするという目的に囚われているせいか、まるでそのことに気付いていないようだった。


 人の気も知らないでにこやかにしている鳴海沢君。こんな表情をされて、一体誰が断ることが出来るというのだろうか。一国の大統領も、我が国の総理大臣すらも膝を折って了承してしまう、そんな力を鳴海沢君は放っている。


「全然大丈夫。予定ならいくらでも空いてるよ。もう、穴あきすぎて隙間風通り放題」


 鳴海沢君は口元を隠しながら何それと笑う。それを見て私の胸はまた跳ねる。鳴海沢君の一挙手一投足に惹かれるようになってしまった、私の胸は苦しい思いと嬉しい思いで溢れそうになっていた。


 明日のことを連絡しあうために、鳴海沢君と連絡先を交換する。携帯に表示されるようになった好きな人の名前に、私の顔は自然とニヤつきそうになる。


「じゃあ、詳しいことは後で連絡するね」


「うん、分かった。えっと、またあしたね」


 また明日と言って私達は学校を後にした。もうそろそろ顔を出しそうな月が薄らと見えて、私はポケットにしまっていたスマホを取り出す。開くとそこにいる鳴海沢君の名前に私はニヤついて、これから夜が来る町の中をスキップ混じりに歩く。

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