第8話 ハラノウチ
個別モニターの前でせわしなくキーボードをたたいていた青年が、手を止めてゆっくりとイスごと振り返った。ノンフレームのメガネを人差し指で押し上げながら、彼はにっこりと微笑んでみせる。
「呼びました?」
「えぇ。彼らの案内、頼めるかしら?」
そう言うマリアに、青年は流れるように視線をずらし、シュウたちの姿を確認する。
「いいですよ。保管室も?」
「えぇ、お願いするわ。簡単にで構わないから、あらかた説明しておいてくれると助かるわ」
「そういうの、僕の仕事じゃないんですけど?」
彼が苦笑しながら言えば、マリアは無言でユキノリを指さしていた。
個別モニターにかじりついているユキノリの興味は、どうやらすでに別のところへ向けられたらしい。こうなってしまった彼をこの場に連れ戻すのが難しいことは、長年の付き合いで互いに承知済みである。
「ははっ、仕方ないですね。わかりました」
青年はイスから立ち上がると、シュウたちに向かって足を進める。着崩した白いワイシャツの上で、ゆるく締められたネクタイが揺れていた。
「はじめまして。
アキトは人のよさそうな笑みを浮かべてそう言った。
◇◇◇◇◇
大地は一面、血の色に染まっていた。
数十分前までは原型をとどめていたはずの周囲の建物は瓦礫となり、生々しく飛び散った血痕が重力に従って滴り落ちる。
いたるところで波紋をえがく赤い水たまり。
そこに、黒い塊がいくつも沈んでいる。
折り重なるペッカートの残骸は、紫色の瘴気を周囲にまき散らしていた。
「……思ってたより多かったなぁ。これじゃ浄化に時間かかりそう……」
目をそむけたくなるような光景の中、ハルは平然とした足取りで水たまりを進んでいく。
彼女もまた、全身から赤い雫を滴らせていた。
だが特に気にするそぶりも見せない。それどころか、「帰ったらシャワー浴びよう」などとのんきにつぶやいている始末である。
「この辺で降りた気がするけど……、まぁいっか。GPSでわかるよね」
バイクから飛び降りた地点からそんなに離れてはいないはずだが、いかんせんこうも周囲の景色が変わってしまうと正直自信はない。視界が紫色の霧に覆われていればなおのことである。
なんとなく見覚えがあるような気がする街路樹の近くで見つけた手ごろなコンクリート片に、ハルは後ろ手で自身の体を持ち上げ腰を落ちつける。
大地を離れたブーツのつま先から、ポタ、ポタ、と赤い雫がこぼれ落ちた。
「早く、帰りたいな……」
ぽつり、と空へ向かってこぼしたハルの声を、生暖かい湿った風が、瘴気の霧とともに巻きこんでいった。
どのくらい空を見上げていただろうか。
紫色の霧はすっかり風にさらわれ、存在理由を失った黒い塊は溶けるようにして消えていく。
「自然浄化かぁ。いつ見ても不思議……」
短時間に目まぐるしくおこなわれているであろう浄化作用は、おそらく学生時代に授業で習ったものとは原理が違うのだろう。いつぞやにユキノリやマリアから聞かされたような気もするが、専門外すぎて正直よく覚えていない。
じわり、じわりと魔法のように色を失っていく液体が、いつしか空色に染まっていた。
「……あ、来た」
遠くから聞こえた低いエンジン音に、ハルは道の向こうへと視線をやった。
ひとけのない景色にポツリと見えた黒い影。
落ちている瓦礫を巧みによけながら近づいてくるバイクに、ハルは小さく手を振った。
空色の水面に複雑な波紋を広げ、バイクはハルの座るコンクリート片の前にゆっくりと停車する。
「わりぃ、遅くなった」
ゴーグルを上げたキョウヤが、躊躇なく大地に足を降ろす。そしてコンクリート片の上でふるふると首を横に振るハルを見上げた。
「ハル、ケガは?」
「大丈夫」
「そっか。よかった」
安堵の表情を浮かべたキョウヤに向かって、ハルはおもむろに両手を突き出す。
「ったく、しょうがないな」
ため息まじりの言葉とは裏腹に、キョウヤは小さく笑みをこぼした。伸ばされたハルの手が肩にかかるのと同時に、彼は軽々とハルの体を持ち上げる。
キョウヤに支えられて地面に降り立ったハルは、はにかみながら彼を見上げた。伸びてきた手に頭をなでられ、緊張感が安堵へと変わっていくのを実感する。
「ハル、おかえり」
「うん。ただいま、キョウヤ」
ひんやりとしたさわやかな風が、二人のすぐそばを駆け抜けていった。
◇◇◇◇◇
「期待できそうな子はいたかい?」
ユキノリはおもむろにそうたずねた。
ちらりと彼の横顔を見遣ったマリアは、小さくまぶたを伏せる。
予想以上に入隊希望者が集まったとはいえ、はたして使い物になる人間がどれだけいるだろうか。
「どうかしらね。いないよりはまし、といったところよ。適性はこれから見定めるわ」
そう言うマリアに、ユキノリはメガネの奥で能天気に目を細めた。
「ふふふー。僕はもう目ぇつけてるよ」
「あら、期待はずれじゃなければいいわね」
互いの腹の底を探るように、二人は挑発的に笑いあった。
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