第3話 恋に落ちた時 2/3

 十二月二十四日の夜に予約が取れた時、私は年甲斐もなくガッツポーズをしてしまった。


 マコちゃんは出勤日が多い方ではないみたいなんだけれど、クリスマスの二日間はピンポイントでスケジュールが出ていた。

 わざわざクリスマスの日に出勤するということは、もしかして一緒に過ごす特定の人はいないのかもしれない。

 そんな余計な詮索をして、ちょっと嬉しくなってしまう自分がいた。


 最近の私は以前にも増してマコちゃんのことばかり考えるようになっていた。

 それは仕事の年末進行に忙殺されそうな現実から逃れるためだけじゃなくて。

 彼女のことを思い浮かべるだけで幸せな気持ちになれるからだった。


 だからこそ、今までならこだわらなかったかもしれないけれど、どうしてもクリスマスにデートをしたかった。

 クリスマスに誰かと過ごすなんて、それこそ高校生の時以来だ。

 あの時は三年間ともマコと一緒だった。


 みんなが大切な人と過ごしたいと思う日を、私もマコちゃんと過ごしたかった。


「マ、マコちゃんだめ……こんなところじゃ……」


 そうして訪れたクリスマスイブ当日。

 奮発していつもよりも長いコースを予約したので、私たちは夕方ごろに待ち合わせをして。

 そして夕食前に訪れた水族館で、私はマコちゃんに迫られていた。


「どうして? 嫌じゃないでしょ?」

「嫌じゃ、ないけど……でも人が見てる……」

「見てないよ、誰もね」


 徐々に輝きを灯し始めていた街のイルミネーションを見ながら歩き、そして静かな水族館に入ってしばらくは平和だった。

 いつも通り和やかに楽しく、雰囲気も良かったと思う。


 小さな水槽の中を泳ぐ小魚たちなんかを眺めて歓声を上げるマコちゃんが可愛くて、私はそれだけでも満足で。

 最近はライトアップや装飾が凝っているものが多くて、色鮮やかな水槽に囲まれながら一緒に歩くのはとても楽しかった。


 けれど、この水族館のメインと思われる大きな水槽があるエリアに来た時、マコちゃんは急に私を隅の薄暗い影に引き込んだ。

 元から薄暗い水族館は、展示物から離れると途端に見渡しが悪くなる。

 そんな暗がりを利用して、私は壁へと押し込まれてしまったんだ。


「今日はどこもかしこもカップルばっかりだから、みんな自分たちのことしか見てないよ。だから私たちもおんなじようにしてたって誰にもバレないから」

「で、でも……」


 私よりも小柄なはずのマコちゃんに、いつの間にか壁ドンをされていた。

 迫り来る彼女の存在に、萎縮と期待が入り混じった感情がぐるぐると暴れ回る。


 二ヶ月前のデートの時、私たちは初めてのキスをした。

 あの時は少し強気に二度もできたけれど、でも次のデートの時はどうも同じようにはできなくて。

 だからなのか、前回からマコちゃんは少し積極的になって私を誘惑してくるようになった。


 それが気恥ずかしくもあり、でもちょっぴり嬉しくもあって。

 強く拒まないでいたら、まかさこんな人前で迫られるなんて……。


「恥ずかしかったら目瞑ってて。大丈夫だから」

「マ、マコちゃん、でも私……」

「ほら」


 まごまごしている私にマコちゃんは容赦なく顔を近づけてきた。

 あぁ可愛い。顔が良すぎる。良すぎてドキドキが止まらない。

 もういい歳したアラサーなのに、なんだか乙女みたいな気持ちにさせられる。


 どちらかといえば可愛いという表現が似合うマコと同じ顔。

 けれどその整った顔でちょっぴりクールに振る舞われるだけで、こんなに突き刺さるような美しさを感じさせられるなんて。

 私、全然知らなかった。


 言われた通り、ではないけれど、その顔を直視できなくて私は反射的にぎゅっと目を瞑ってしまった。

 その瞬間、柔らかな感触が唇にそっと触れ、更にははむっと優しく撫でられた。

 嬉しさ以上に羞恥心がゾクゾクっと込み上げてきて、私は慌ててマコちゃんの肩をぐいと押した。


「もうおしまいっ……」

「ちぇー」


 俯いて髪で顔を隠す。こういう時、伸ばしておいて良かったと思う。

 ただ、いくらそんなことをしようが、辺りが暗かろうが、きっとマコちゃんにはバレている。


「もうちょっとアリサちゃんの唇食べたかったな〜」

「食べるって、美味しくないよ……」

「えー美味しいよー。アリサちゃんごと食べちゃいたいくらい」


 髪の隙間から覗き見ると、マコちゃんはニコニコ楽しそうにそう言ってから、わざとらしく舌なめずりをした。

 見せつけるようなそれにまた顔を赤くする私は、きっと素直すぎて扱いやすいんだろうな。


「ふふ、アリサちゃん可愛い。もっといじめたくなっちゃうなぁ」

「ほどほどにして……。心臓がいくつあっても足りないから」

「えー? そんなこと言って、アリサちゃんは案外欲しがりさんだと思うんだけどなぁ」

「そ、そんなこと……!」


 ない、と思う。別に私、欲しがってなんかない。

 私が求めるよりも早く、マコちゃんが与えてくるからいっぱいいっぱいで。

 こうやって迫られる経験なんて私にはほぼないから、どうしていいからわからないんだ。


 これはマコとはしなかったこと、できなかったこと。

 当然と言えば当然のことだけれど。

 マコはスキンシップが激しいタイプだったけれど、でも案外一線を越えるのはかなり臆するタイプだった。


 例えば、昔一度お試しでキスした時とか。

 最初は向こうから強く迫ってきたくせに、結局ヘタれたから私からしたんだった。

 だから、こうも迫られることに免疫が全くできていない。


「別に強がんなくてもいいのに。アリサちゃんがしたいこと、してほしいこと。なんでも私がしてあげるから」

「…………」


 ニコニコっと優しく笑って、マコちゃんは私の手を引いた。

 攻めるのは一旦おしまいにしてくれたようで、大きな水槽がよく見えるベンチへと連れられる。

 歩く時はいつも私が引っ張る方だったのに。だからこうして連れられるのもなんだか恥ずかしかった。でも、悪い気はしない。

 それでも何を口にしていいかわからなくて、不機嫌なわけでもないのダンマリをしてしまう。


 そんな私の態度をマコちゃんは特に気にしていないようだった。

 二人で揃ってベンチに腰掛けると、さっきまでと一転して甘えるように私に寄りかかってきたりして。

 こういうふうに頼られている方が気は楽だけれど、さっきとのギャップに調子が狂う。


「マコちゃんがあんなに積極的になるなんて、何だか意外」


 少しして気持ちが落ち着いたところで、私は水槽を眺めながら口を開いた。


「普段はこうやって甘えん坊さんなのに。今までは隠してたの?」

「……そういう私は嫌い?」

「その聞き方は、ズルいよ」


 私と同じように水槽を眺めているマコちゃんは、コテンと私の肩に頭を預けてきている。

 だから目を向けても彼女の表情は窺えなくて、私はその代わりに手を握った。


 嫌いなわけじゃない。嫌いなわけがない。マコちゃんに求められるんだから。

 ただ正直戸惑いはある。それは単に私がそういうことに慣れていないから、というだけじゃなく。

 なんていうか、こういうことを想像してないかった。想定していなかったから。


 つまり言ってしまうと、ずっとマコを見出していたマコちゃんの、マコらしくなさに戸惑っているんだ。私は。

 好き嫌いとか、良い悪いとはまた別の話で。


 マコとしたかったこと、マコとはできなかったこと、マコがしてくれなかったことをマコちゃんはしてくれる。

 確かに私はそれをマコちゃんに求めて、こうして彼女の時間を買っているんだけれど。

 私の想像を飛び出すマコちゃんの行動は、私が求めていたものなのか、なんて。


 でも、そういうマコちゃんのことが────


「嫌いじゃ、ないよ」


 どうしてだろう。手がとても汗ばんでる。

 恥ずかしいけれど、でも今手を放したら、何か大切なものを見失ってしまうような気がした。


 マコちゃんの頭が動いて、こちらを見上げた。

 本能的がそっちを向いてはいけないと言った。

 けれど私は視線を下ろし、その目を見つめてしまった。


 水槽から煌めく淡い光が瞳に反射して、甘く優しい上目遣いの視線が絡みつくように私を捉える。

 いつもの優しい笑みの中にどこか拗ねたような、けれど意地悪な色を浮かべて、マコちゃんは言う。


「好きだよ、とは言ってくれないんだ」

「……だからズルいよ、マコちゃんは」


 どうしてこんなに、私はドキドキしているんだろう。

 わからないよ、マコ。

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