第19話 生み出される悪意

 私は人間専門なんだけど。そんな不平を、年かさの女医から三度耳にした頃、診察は終わった。


 被害にあった成猫は今、空きベッドの上に寝かされている。容態が安定しているように見えるものの、両手足を投げ出して眠る様からは不吉さが感じられる。


 医師は手当を施したと言う。しかし、身綺麗にして包帯を巻いたのみという程度だ。羽澄達の不安を払拭するには至らない。特に華房の取り乱し方など、尋常ではなかった。



「先生、あの、使える薬は無いんですか!? 飲んだらバリッと全回復するような凄いヤツ!」


「あのねぇ、漫画やゲームじゃないの。そんなもの有るわけ無いでしょ。あっても、私には怖くて使えないよ」


「うう……もどかしい。私がお医者さんだったら」


「薬は一応あるんだけどね。獣医さんが常駐してた頃の名残で」


「その人は今どこに!?」


「何年か前に本土へ帰って、それ以来は何も」



 そこでふと、疑問を抱いた羽澄が口を挟む。



「前は獣医が居たって事は、動物も診る前提だった?」


「そうよ。この施設も、開設当初はペット可だったの。ニコリを貯めれば売店で買えたからね」


「今は誰も飼っていないようだけど」


「問題が頻発したから。糞尿処理とか、放し飼いとか、森の中に逃げられたってケースもあったかな。それに、ちゃんと管理しててもアレルギーなんてあるじゃない。結局はペット全面禁止になったの。この猫も、本土に返還される前に逃げた子かもしれない」


「まぁ、生き物を飼うのは難しいだろうし」


「そんな訳で薬はある、でも処方はできないの。お嬢さんも分かってもらえた?」


「うぅ……、はい。何となく、薄ボンヤリと」


「人の話はちゃんと聞きなさいね」



 医師は説明の後も、苦々しい顔を崩さない。それは華房を咎めるものではなく、別の理由からだった。



「それにしてもね。この猫、昨日の夜までは元気だったのよね?」


「たぶん。ご飯もよく食べたっぽいし」


「衰弱っぷりが激しいのよね。でも、見た目ほど怪我は酷くなさそうなの」


「ええと、それはつまり?」



 羽澄が問いかけるなり、突如、華房が立ち上がった。そして慌てふためく手元で篠束の肩を揺すった。



「こ、こここ、こねこねこネコネ!」


「あわばばば、おち、おちち、落ちちゅいて!」


「お前ら、どっちも落ち着け。華房は何が言いたいんだ?」


「子猫を1人きりにしてきちゃった! 今頃、怯えてるに違いないわ!」


「あっ華房さん、待ってください!」



 転がるようにして部屋を飛び出す華房、それを慌てて追いかける篠束。2人とも立ち止まる気配なく、足音は次第に遠ざかっていった。


 残された羽澄はというと、医師に後事を頼むことにした。例によって、後ろ頭を乱雑に掻きながら。



「先生。この猫をよろしく。オレはあいつらを追いかけるんで」


「えっ、ちょっとそれは……」


「こんな夜中、しかも防犯カメラのない森に女子だけなんて危険だから。ともかくよろしく!」


「いや、9時までには帰ってきてよ!? 残業申請が凄く面倒なんだからね!」



 羽澄は振り向きもせず医務室を後にした。とりあえず9時、とだけは覚えておく。



「あいつら、どこまで行ったんだ?」



 夜の中央棟は共成者だらけだ。ちょうど夕飯を終えたタイミングで、通路の随所に立ち止まり、談笑している。


 そんな人波をすり抜けては屋外へ。周囲に目をこらせば、思いの外早く見つかる。遠くに騒がしい二人組。間違いなく篠束達である。



「うおおぉーー! コネコネコーー!」


「待ってください、華房さぁーーん!」



 スプリンター然として駆ける華房に、どうにか追いすがる篠束。彼女たちが向かうのは、やはり南方面の森である。


 それから程なくして、3人は合流を果たす。颯爽と駆けつけた羽澄が、華房の首根っこを掴んで捕らえるなどして。



「1人で突っ走るなよ華房。夜はお前が考える以上に危険なんだぞ」


「だって、だって、心配だもの。私なんかどうなっても構わないもの」


「あんま思い詰めんな。そもそも、あんなドタ走りじゃ、猫に逃げられちまうだろ」



 羽澄達は、周囲に気を配りつつ探索を続けた。既に日は暮れ、視界は暗い。空の月明かりと、小道に点在する街灯だけが頼りである。



「華房。こんな時間に子猫を探すのは無理だろ。明日の朝まで待ったほうが」


「だったらアナタは帰って。私は1人でも探し続けるから」


「ハァ……。篠束、お前まで付き合う必要はないぞ。護衛ならオレだけでも十分だ」


「いえいえ、私も残りますよ。羽澄さんだけに大変な想いをさせられませんから。それに、子猫ちゃんの無事も気になりますし」


「仕方ない。徹夜を覚悟しておけよ、晩飯抜きもな」



 それから3人は餌場までやって来た。母猫が虐待を受けた現場付近だ。子猫が戻ってくる事を期待したが、結果は異なる。



「やっぱり足を使うしかないのか。闇雲に探すのは避けたいんだが」


「あっ、羽澄さん。これって、血ですよね?」



 街灯が赤く濡れた芝生を照らす。それは見落としそうな程に僅かで、点々と続き、茂みの奥を示唆する。



「母猫のものじゃ無さそうだ。血が渇いてないし、そもそも吊るされた木から離れすぎてる」


「じゃあもしかして、この先に?」


「可能性はあるだろうな。何があるか分からん、ここは慎重に」


「うおおぉーー! こねこけこねこねこーーッ!」


「華房ァ!」



 再びスプリンターの化身となった華房は、茂みを蹴散らすように駆けていく。慌てて追う篠束。そして羽澄も続くが、顔に焦りのようなものが滲んでいた。



「クソッ。暴走しやがって。どんな危険があるか分からんってのに!」


「羽澄さん。何か心配事でも?」


「一連の出来事は、人為的だ。動物虐待だ。親猫が吊るされてて確信した。前に深い穴に落ちていたのも、恐らく誰かの仕業だと思う」


「じゃあ、子猫ちゃんも?」


「可能性は極めて高い。あの出血さえなけりゃ、迷子という事も有り得たろうが」



 羽澄は推理を披露する傍ら、同時に願ってもいた。自分の思い違いであって欲しいと。


 やがて茂みを抜けた。そこは三方が林で囲まれた草原で、比較的空が広い。


 冷たい月明かりが、硬直する華房を照らす。その先には、薄汚れた青ツナギを着る1人の男が佇んでいた。


 羽澄は一瞥したものの、人相に見覚えは無かった。



「誰だろうな。初めて見る顔だが……。アッ!?」



 男の手には小さな物が蠢く。体毛は3色。抗議するよう甲高く鳴く声。その生物が、何であるか問うまでもなかった。



「お前、今すぐその手に――」



 憤る羽澄を、華房の金切り声が遮った。



「なんて酷いことを! 今すぐ離してよ!」



 男が静かに目線を寄越した。外見は平凡。中背で、痩せ気味の身体。黒毛の髪型も平凡。しかし、口元を歪ませた表情だけが、抜きん出て異様だった。邪悪だと断じてしまえる程に。



「離せって何を。この汚らしい害獣の事?」


「早くその子を離してってば!」


「急にゾロゾロ集まって、しかも僕を責めるような顔をして。邪魔しないで貰いたいなぁ?」



 男は全く怯んだようではない。手のものを固く握りしめたままで、小さく嗤う。



「僕はね、率先して害獣駆除をやってるのさ。自由時間を割いてまでね。むしろ感謝して欲しいなぁ」


「アナタはさっきから、猫ちゃんの事を害獣呼ばわりして、一体何のつもり!?」


「こんなケダモノ、百害あって一利無しだろ? 何にも出来ないのにエサをせびって、その時だけは媚びるくせに、腹が満たされればソッポを向く。働かざる者は食うべからず。生かすだけ地球にとって損失さ。だからこうして始末してやろうってんだよ」


「何て酷いことを……! そんな理屈――」



 食ってかかろうとする華房を、羽澄が割って入る事で制した。自然と矢面に立つ位置となる。



「たいそう立派なご意見だな。それがお前の正当性か」


「おや、意外と冷静だね。そっちの女に比べたら、よっぽど話が出来そうだよ。もしかして共感してくれたり?」


「猫は歴とした、地球の一員だ。ネズミを獲るなどして食物連鎖の一角を担っている。無闇に殺す理由なんてどこにも無い」


「フン、殺鼠剤でもバラ撒けば済む話さ」


「他の面でも役に立つ。華房のように、猫を支えに生きてる者も少なくない。少なくとも、お前みたいな陰湿にいたぶるヤツよりは、ずっと有益だろう」


「この僕がケダモノ以下だと!? クソ野郎め……。無駄に口が回るヤツだな!」


「論戦を吹っ掛けてきたのはお前なんだが」


「この状況が理解できてないのか? 僕はな、お前らの大事なクソ猫の、生殺与奪権を握ってんだぞ!」



 男は、右手を前に突き出した。するとそこには、頭を握られてブラ下がる子猫の姿があった。か細い鳴き声が、華房の理性を奪い去りそうだ。


 実際、彼女は駆け寄ろうとする。しかし、男の脅し文句が、その足を縛りつけた。



「おっと動くなよ! 一歩でも近づいたら、コイツの首をへし折るぞ」


「止めてよ! その子に何の罪があるっていうの!?」


「コイツを助けたいなら、そこの女。お前が身代わりになれ」



 男は真っ直ぐ華房を指さした。そして臆面も無く、汚れきった動機を露わにする。



「そろそろ人間をブッ殺したいと思ってたところさ。キイキイ女、お前が代わるってんなら、害獣は勘弁してやるよ」


「華房、落ち着け。誘いに乗るな。約束を守るような手合いじゃないぞ」



 しかし華房は、羽澄の忠告を無視して歩き出す。



「おい待てよ! ヤツの言うことを聞くな!」


「私、無理だもの。猫ちゃん達の居ない毎日なんて、絶対、死んだって堪えられない!」


「だからってお前が死ぬ事は無いだろ!?」


「別に構わない。それほど生きていたい人生じゃないから」



 華房は、線の細い長髪をなびかせつつ、一歩ずつ進んだ。刻むように歩んだ13歩。


 そこは既に男の間合いで、手の届く範囲内だ。



「意外と素直じゃないか。お前ら女どもが、普段から従順なら、こうして恨まれる事も無かったのに」



 男は空いた方の手でナイフを抜いた。刃渡りの短いもので、殺傷能力も低い。それでも、当たりどころ次第では致命傷に成りうる。



「さぁて。覚悟は良いか、キイキイ女。どんな声で泣いてくれるか、愉しみだなぁぁーーッ!」



 男がナイフを掲げ、華房の首筋に目掛けて振り下ろす。


 だがその瞬間、羽澄が両者の間に割って入った。そして男の手首を弾くことで、凶刃を跳ね上げてみせた。



「なっ、邪魔するな! 口だけ男!」


「今の一太刀、殺す気だったろ。冗談や悪ふざけの力加減じゃなかった」



 男は後ずさると、改めて子猫を見せつけた。魔除けでも翳(かざ)すような仕草である。



「僕の言うことが分からないのか! この害獣を捻り殺すぞ!」


「やってみろ。やれるモンならな」


「脅しじゃないぞ、後悔しろ!」



 男が指先に力を込めるよりも速く、羽澄が動いた。猫を握りしめる方の腕を取って捻り、肘関節を上に向けさせる。そして、そこに渾身の力で拳を振り下ろした。


 羽澄の手に、枝を叩き折る感触が伝わった。



「ギャァア! 痛い痛い、痛ァァイーーッ!」


「あぁ、猫ちゃんが!」



 男は腕をあらぬ方に曲げながら、辺りをのたうち回った。子猫も汚い手から解放された刹那、華房が飛びつき、無事確保。


 虐待事件は、一挙に進展した。解決まで目前である。



「さてと、ゲス野郎。お前の処分はどうしようか。警備どもに突き出しても良いが、どうせ証拠不十分で釈放だろうな」


「うぅ、やめろ。来るな!」


「自由の身になったお前が大人しくするとも思えん。だったら2度と悪さを企まないよう、骨身にキッチリ教えるしか無いな」


「い、いやだ! なんで僕がこんな目に遭わなきゃならないんだ、チクショウ!」


「歪んだ持論と悪癖のせいだろ。諦めろ」


「僕はただ、好きな事をやりたいだけなのに! 気に入らない奴らをブッ殺したいだけなのに! どうしてだよーーッ!」



 その時、不吉な風が羽澄の頬を打った。視界から色彩が消え失せていく。


 木々や草花はもちろんの事、やがて華房と子猫も灰色に染められた。



「異界化だと!? 一体誰が……」



 そこで羽澄は気づく。男の全身は黒い霧に覆われており、脈動する気配まで感じられた。


 そして右手のタトゥーも、何かを告げるように痙攣を起こしている。



「篠束、お前は華房を安全なところへ!」


「はい! やってみます!」



 華房は、子猫を抱きかかえたままで硬直していた。あらゆる色彩を奪われており、指先すら動く気配が無い。


 だから篠束は華房を『連れる』のではなく『運ぶ』事を強いられた。モノクロになった腰を両腕で抱えると、引きずるようにして去っていく。


 歩みはどこまでも遅い。それでも彼女に委ねるしかなかった。羽澄には、イービルを相手取る役目があるのだから。



「うふ、ウフフフフ。何だよこの身体。最高じゃないかァァ?」



 黒い霧は晴れた。しかし男は、姿を晒す前に虚空を駆けた。身体はみるみる舞い上がり、満月を背にしながら羽ばたいた。



「どうだ、口だけ野郎! この変身には言葉も出ないだろぅぅぅ!?」



 男は、全身に黒い羽毛を生やし、両手も黒い翼と化した。悠々と飛び回る姿は大鳳(たいほう)の如し。


 ただし、顔だけは変わらず、人間のままである。



「ひどくゴキゲンだが、率直に言うぞ。キモい。これならオークの方がよっぽど美男子だ」


「こいつ、この期に及んで減らず口を……!」


「御託はもう十分だ。いでよ、龍鳴剣!」



 羽澄が右手をかざすと、眩い閃光がほとばしった。頼もしき剣が掌の宿る。


 羽澄は労い半分で、剣の腹を気安く叩いた。そして両手で柄を握りしめると、刀身を寝かせては脇構えになる。 



「悪事に手を染めるイービルと、それに対抗するS.H.A.Tのオレ。構図がだいぶ分かりやすくなったな。こちらとしても助かる」



 両者は闇夜の下で対峙する。虫の音も聞かれない中、白い月明かりが、戦場を怪しく照らしていた。

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冤罪者よ悪意を砕け おもちさん @Omotty

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