第3話 変革の使者

 船着き場から奇跡的な生還を遂げた羽澄俊。それでも疲労がたたってか、帰路は覚束ない足取りになる。


 どうにかして寮の手前までは戻ったのだが、ふと気づかされる。血に濡れたツナギ服は、否応なしに目立ち、只事でない様子を醸し出す。このままでは帰れそうになかった。



「そういや、大浴場の近くに洗濯所があったな。着替えも……」



 男子浴場は寮から少し離れた位置にあり、隣の部屋が洗濯所だ。羽澄の疲労は重たいが、仕方無しに足の向きを変えた。



「この時間だと、うろついてる奴は居ないのか。助かる」



 人目に気を配る。誰かと出くわす事が無かったのは幸いだ。洗濯所は無人で、白色灯の光に蛾が飛び回るだけだった。


 羽澄はまず、棚にある別のツナギ服を掴み取った。棚の仕切りでサイズも分けられているので、選ぶ手間も無い。


 それからは汚れた方を洗濯機に放り込んだ。洗剤もセットすれば、あとは自動。機械がすすぎまで終わらせてくれる。



「まったく……訳分からん。一体何が起きてんだ?」



 気だるさのあまり、立ったままでは居られない。羽澄は揺れる洗濯機を眺めつつ、空きスペースに座り込んだ。


 何をするでもなく、ボンヤリと待つ間、様々な出来事が脳裏を過ぎっていく。それらは全て、荒唐無稽なものばかりである。



「死のうと思ったら全然死んでないし。幻聴も聞こえなくなったし。あのレヴィンってジジイは何者だよ。それに、化物に襲われたし剣が出たと思ったら消えたし!」



 どれ1つとっても非現実的だ。共感など得られない。誰かに相談しようにも、空想だと嘲笑われるのが関の山だ。仮に親身になって聞いて貰えたとしても、心の患者と扱われるだけだろう。


 つまり、人に答えを求めるべきではない。かと言って、調べる目星だって無い。まさに八方塞がりの気分だった。



「これから死のうって決めてたのに。妙な事に巻き込みやがって……」



 羽澄は意識が薄れるのを感じた。耐え難い眠気に抗いつつも、ついには堪えきれず、意識を手放した。


 次の覚醒を迎えたのは、何者かの呼び声に気づいた時だった。



「おい、兄ちゃん。どうかしたのか?」



 羽澄が慌てて頭を持ち上げると、霞む視界に人の姿を見た。やがてそれが、モップを携えた老人である事が分かる。


 掃除夫は、眉間に作ったシワの下に、窺うような瞳を浮かべていた。



「どうしたんだよ、こんな所で寝ちまって。まさか病気? どっか痛いとこあるか?」


「いや、これは……」



 服が血まみれなので洗ってます、とは言えなかった。取り繕いに、昨夜の光景を思い返すうち、言葉が降りてきた。



「トマトスープを派手にこぼしちゃって。それが洗い終わるのを待つ間、いつの間にか寝てた」


「何だい、そういう事か。ビックリしたよホント」


「すいません。気をつけます」


「兄ちゃん、ここに来たばっかだろ? 知らねぇなら無理ねぇが、洗いもんはカゴにブチこんでくれりゃ良い。あとはオレ達がやっからよ」



 掃除夫は、洗いたてのツナギやタオルの場所まで示し、細かく説明してくれた。


 羽澄も話半分を聞いた程度だが、一応のルールは理解した。そして、もうじき食堂で朝食があるとも知った。


 モバイルバンドの示す時刻は、8時前。羽澄は忠告に従い、食堂へ向かって歩き出した。



「結局、部屋に戻れなかったな。別にどうでも良いが」


 

 食堂は中央棟の1階だ。男子寮からは徒歩10分程度離れており、しばらくは歩いて向かう必要がある。


 羽澄の身体は健康そのもの。徒歩に一切の支障は無く、むしろ深く寝入った事で、快調だと言えた。



「オレは本当に崖から落ちたのか……?」



 今となっては、その記憶すらも疑わしい。折れたハズの首に異常はなく、どこも骨折していない。


 ただ唯一、傷跡があると言えば、額くらいのものだ。それすらも、小さなカサブタを残すばかり。致命傷と騒ぎ立てれば、嘲笑われる程に小さい。



「普通に考えたら、夢とか幻覚なんだろうな……」



 昨晩の怪現象を証明する物は、もはや無い。血まみれのツナギ服も洗濯した後だ。


 そうなると、まともな証拠といえば羽澄の記憶くらいのものだ。身の毛もよだつ殺気や怖気は、今でもありありと思い出せる。生まれてより16年間、あれほどの恐怖は一度として味わった事は無かった。


 それでも結局は、現実だと受け止める事が出来なかった。



「昨日はオレもどうかしてたし。海の側で気絶して、夢でも見てたんだろ」



 一応の結論を導き出したころ、ちょうど食堂へと辿り着いた。並ぶ列は長い。島内の共成者が押しかけるので、4列の待機列は気が滅入る程の長さだった。


 やがて列が進むと券売機が見えてくる。機械に腕のモバイルバンドをかざして認証し、券を受け取る仕組みだ。どこにも料金が書かれていないのは、全品が無料のためである。


 何を食えばいいか。羽澄がボンヤリと悩んでいると、やたら目立つ声を聞いた。列の先で赤髪が揺れる。ルームメイトの根岸遊真(ネギシユウマ)であった。その隣には伊藤公好(イトウキミヨシ)の姿もある。



「おい伊藤ッ! 朝はビュッフェスタイルとか、超絶豪華だぞ! 腹いっぱい食い倒そうぜ!」



 アレに見つかったら面倒だ。羽澄はそれとなく身を屈め、人影に隠れようとする。しかし不運。根岸から目敏くも声をかけられた。



「おい羽澄。お前、昨晩は何してたんだよ? 全然帰って来なかったよな」



 他人のフリ、気づかないフリ。それは通用した風でなかった。



「まぁいいや。とにかく飯食うぞ飯。席取っておくから、お前も後で来いよ」



 羽澄に従う義理はない。それでも待機列に並ぶ間、根岸達の視線が代わる代わるに感じられた。さながら監視かと思うほどだ。


 結局は、朝食を共にする事を覚悟した。羽澄が簡素な食事を手に、根岸達のテーブルに座る。伏し目がちな羽澄と違い、ルームメイト達はここでも興奮しきりだった。



「へへっ。フレンチトーストにハムエッグ、ボルシチ、ベーコンのニンニク炒め。デザートには杏仁豆腐ゥ! マジすんげぇ、オレの期待をスイッと超えて来やがったな!」


「僕は和風にしてみたよ。鯛茶漬け、鮭の塩焼きと浅漬、それから納豆」


「おい、朝っぱらから生物兵器食ってんじゃねぇ! 向こうに戻してこいよ」


「何て事を言うんだ。ちゃんと美味しいんだよ?」



 はしゃぎ倒す2人を、羽澄は遠く感じていた。無言でバターパンをかじり、気怠げに咀嚼。たまにパンプキンスープをすする。


 美味いかどうかは分からない。空腹感も薄い。とりあえず、補給だと割り切って口の中に放り込むだけだ。



「おい羽澄」



 根岸の声には、聞こえないフリをした。視線を下げたままでパンに齧りつく。



「シカトすんなよ羽澄ッ!」



 強い怒声に、一瞬だけ付近が静まり返る。そして、小さなざわめきが広がっていく。


 あまり目立ちたくない羽澄は、仕方なく手を休めた。



「何だ?」


「1回で聞けよ。周りからスゲェ見られちまったぞ」


「お前が悪い。それと、用が無いなら話しかけるな」


「チッ……。そのタトゥーが気になっただけだよ」



 根岸の視線が、羽澄の右手へと向けられた。


 何の話をしているのか。羽澄は胡乱な瞳で自身の手を見た。だが、すぐに刮目する事になる。


 右手の甲には根岸の言う通り、確かにタトゥーが刻まれていた。墨で大きく、炎を模した形のものだ。身に覚えのない羽澄は、静かに狼狽してしまう。



「これは……」



 羽澄は内心で舌打ちした。予めモバイルバンドを利き手に付けていたなら、早く気づけたはずだ。そうすれば、根岸から無意味に絡まれる事態も避けられた。


 悔やんでも今更である。そうと分かっていても、手の甲を左手で隠してしまう。



「昨日まで、そんなもの無かったよな? もしかして夜の内に彫ってもらったとか?」


「お前には関係ないだろ」


「ハァ!? 何だよその態度! オレ、何か嫌なことしたか?」


「理解する必要はない。それと、もう関わろうとするな」



 羽澄は、口先だけ平静さを保てたものの、食事という気分ではなくなる。料理には大して手を付けず、一式を棚に返却。食堂から出ていった。


 逃げ込んだ先は中央棟裏手のベンチだ。人通りは無く、正面には細々とした花壇が広がる。落ち着きを取り戻す好条件が揃っていた。



「どうしたんだマジで。オレの身体は……?」



 昨晩の怪奇現象は、物証を1つすら残していない。だが、このタトゥーだけは、何らかの事実を示唆していた。


 自らの意志で刻んだものではない。それこそ、根岸に指摘されるまでは、全く気づかなかったくらいだ。



「炎の形をした、タトゥー? もしかしてあの剣と関係があるのか?」



 まじまじと右手を見つめてみる。そして手首を回して見たり、手を握って開く事を繰り返した。何の変哲もない入れ墨だ。特に何か光るでも色味が浮き出るでもなく、素肌に合わせて伸び縮みするばかり。


 さすがに、単なる入れ墨と武器を紐付けるのは安直すぎたか。自嘲の波が押し寄せた丁度その時だ。羽澄は老いた声をかけられた。


 聞き覚えがあると思って振り向けば、そこにはやはり老人が佇んでいた。



「おや。君は確か、昨日来たばかりの。羽澄君だったかな?」


「……何か用ですか?」



 所長の浦兼誠司(ウラカネセイジ)が、穏やかな笑みを向けた。


 羽澄は何食わぬ顔で、右手をズボンのポケットに隠した。これ以上の厄介事は避けたかった。


 幸いにも追求されないまま、穏やかな雑談が続いた。



「浮かない顔をしているが、ここを気に入って貰えたかね?」 


「まぁ、それなりに」


「君はまだ若いんだ。そんなに俯いてても仕方ないよ。人生はやり直しがきくんだ。何度だってね」



 その言葉に、羽澄は弾けたように顔を持ち上げた。


 それから万の言葉で罵りたくなる。お前は冤罪を被せられた事はあるのか、家族を人質に取られ、人生を捻じ曲げられた経験は。あらゆる人間から縁を切られて、追放される辛苦を知っているのか。


 しかし、それらは言葉にならない。ただ羽澄の唇をわななかせるに留まった。


 この激情は浦兼に届いたのか。彼は、視線を僅かに逸しただけだった。



「今はともかく、心身を休めることだよ。腹を満たし、スポーツやゲームなどに興じ、風呂で垢を洗い落とす。そんな日々が、やがて君を健やかにしてくれるだろう」



 浦兼はそう言い残すと、別れも告げずに立ち去った。


 独り残された羽澄は、拳を固く握り締め、空いた方の掌を殴った。



「絡んでくるなよ。人の気も知らないで……! オレの辛さなんて、何も分からないくせに!」



 振り返れば、羽澄は昨日から酷く慌ただしい。島に来るなり幻聴に追いたてられ、レヴィンだの化物だのと遭遇。どうにか生還したものの、全てが謎だらけ。ヒントが得られるどころか、コミュニケーションの不協和音に苛立たせられる。


 彼の末路はもっとシンプルだった。死んで終わる、ただそれだけだった。しかし今は、様々な謎を両手に余るほど投げつけられてしまった。これから死にゆく者の運命としては、騒がしすぎる。



「クソッ。放っときゃ良いのに、何でこんな気になるんだ……」



 羽澄の心の奥はザワついている。この謎を早く解き明かせと急かすのだ。それは知的好奇心が言うのではなく、焦燥感、強迫観念に近い。解明しなければ、取り返しのつかない事態になるという、予感まで有る。急き立てられるがまま、羽澄は場所を移した。


 向かう先は南方面。船着場へと続く道を、ひたすら黙々と歩き続けた。そうして一時間も歩けば辿り着く。彼が昨晩に身を投げたであろう、断崖絶壁の傍に。



「雑草が掻き分けられてる。多分、オレが通った跡だろうな……」



 それから羽澄は、長い坂を降りていった。船着場へと続く道だ。


 辺りは人の気配がまばらだった。停泊した船から積荷を降ろすなどして、何らかの作業を見かけたが、それくらいだ。



「確か、この近くだよな。オレは崖から落ちて……」



 羽澄は血溜まりの跡を探した。かなり広範囲を、自分の血で汚した事は覚えている。等間隔に並ぶ街灯の、ちょうど中間地点。


 しかし、血の跡は見られない。まるで何事も無かったかのようで、羽澄の記憶と一致しなかった。



「消えてる。いや、そもそも血溜まりなんて無かった? だとすると、飛び降りたのも夢とか幻覚って事になるが……」



 そう結論づけようとした所で、彼は気づく。アスファルトの方々で、僅かに赤く染まるシミを。両手を広げたスペースにのみ点在しており、記憶の血溜まりと重なるようだった。


 更にはその周辺だけ濡らした形跡もある。ほとんど渇いており、特別な経緯を知らなければ気づかない程、さりげない差分である。



「もしかして、誰かが消した?」



 そう考える事もできた。何者かが、ブラシなどを使用して血を掃除したのだと。


 だが、その割に辺りは騒がしくない。警察が来るとか、現場保存するといった事もなく、ただ濡れた道があるだけだった。



「アレだけの出血を見て、事件性を疑わないって………おかしいよな?」



 羽澄の疑問は膨らむ一方だ。あの事件が夢なのか、それとも現実か。更に言えば自分は正常か否かが、知りたくなる。だが答えは一向に見つからない。


 それからも海岸線を歩き、砂浜をさまようのだが、何もない。誰かと出会う事も、疑問解消に役立つヒントも。



「あぁもうマジで分からん……! いっその事、また化物でも襲ってきてくれたら!」



 羽澄は立ち止まり、痒くもない頭を掻きむしった。


 すると、背後で人の気配を感じた。羽澄の歩調に合わせるような動きだった。



「つけられてる? だったら、おびき寄せてみるか……」



 決断は速やかだった。苛立ちが、彼を無謀な策へ誘ったとも言える。


 羽澄に迷いはない。足早に岩場へと向かい、物陰に身を潜めた。


 そうして息を殺して待ち続けると、追跡者が姿を見せた。見知った顔である事に驚きはしたが、構わない。羽澄は速やかに立ち上がった。



「何の用だ、根岸」


「うおっ! 羽澄、そんなところに居たのかよ!?」


「居たのかよ、じゃない。どうしてオレを付け回すんだ?」



 返答次第では戦闘も辞さない。そもそも根岸は、妙に干渉的だった。それは何か企んでいるからで、付け狙ったのも、その一環ではないか。そう思うと、羽澄の握りこぶしも硬くなる。


 しかし意外にも、根岸は両手を挙げる姿勢になった。



「おい待てよ。別にケンカしに来た訳じゃないんだ」


「どうだか。ここまで後をつけて来たんだ。何か企んでるとしか思えない」


「違うっつの。オレは謝りたかったの!」


「謝る……?」



 想定外の返事には、肩透かしを食らった気分だ。羽澄は少しだけ構えを緩めた。



「何だそれ。話が見えて来ないぞ」


「ええと、謝る前提なんだけどさ。まずは1個だけ聞いていいか?」


「前置きはいらん、早く言え」


「お前さ、本当にやらかしたの? 強盗とかヤバいやつ」



 羽澄の腹に鋭い不快感が駆け巡った。これまで溜め込まれたフラストレーションが、荒く波立ち、思わず怒声を浴びせてやりたくなる。


 我慢は臨界点を超えそうだった。しかし辛うじて冷静で居られたのは、理性の働きによる所だった。どう考えても八つ当たりである事は、彼も理解しているのだ。



「どうしてわざわざ蒸し返す」


「いやさ、オレって結構なヤンキーな訳よ。先公から見捨てられちまうくらいのさ。だから裏社会とか、とんでもねぇ悪いヤツとか、そういうの散々見てきたんだわ」


「それが何だ」


「お前からは匂いっつうの? そういうのが無いんだわ。悪い奴らが持つ独特の空気みたいなの」



 根岸から探るような視線が浴びせられる。羽澄は、目を伏せて押し黙った。


 疎ましい。しがらみなど要らない。羽澄はそう感じる一方で、別の感覚もあった。今は忘れてしまったもの、久しく失われていたもの。それが不意に降りてきたので、困惑させられたのだ。


 対する根岸は、無言を貫く羽澄を見ても、顔色を変えない。代わりに何度も繰り返し頷いた。



「まぁ、言いたくねぇなら良いよ。お前にも事情っつうもんがあるだろうし。無理に聞きたいとは思わねぇ」



 その言葉とともに、根岸が右手を差し出した。そして、握り返されるのを待って、宙に留める。



「初日もだけど、今朝とか、大声で騒いだりして悪かったよ。変な態度とられたら、ムカついて当然だよな」


「それを謝りたかったと? 全く気にしてなかった」


「そうなの? てっきりキレさせたかと思ってたわ。まぁいいや、とにかくヨロシクな!」



 差し出された手を握るべきか、羽澄は迷った。


 他人など信用すべきではない、どうせ簡単に見捨てられるのだから。不利な状況になれば、こちらの気持ちなど関係なく、一方的に縁を切る。それが人間というものだ。


 だから不必要に親しくする訳にはいかない。付かず離れずの関係を保つ、それがベストに思えた。


 ここは無視してしまおう。羽澄はそう思って、視線を大海原へ向けようとした、まさにその時だ。事態を動かす使者が、脇から勢いよく舞い込んだ。


 それは羽虫の形をしていた。



「うひぃっ! バッタァ!? 助けて羽澄ッ!」



 使者とはショウリョウバッタだ。それが根岸の胸元に張り付いた途端、彼は慌てふためいた。右に左に駆け回るという大騒ぎになり、真っ赤な髪が別の生き物に見えた。



「早く助けろよ! オレ、虫はダメなんだよ、大体ダメよダメ! つうか見てねぇで早くッ!!」



 根岸は甲高い悲鳴を上げるとともに、岩場の上で転げ回った。


 バッタなど既に飛び退ったのだが、彼の恐怖心は収まらない。しきりに顔を左右に振っては、周囲の安全を確かめようと躍起になる。


 この一見して厳(いかめ)しい男が、惜しみなく醜態を晒したのだ。それこそ教師すら見捨てたという、札付きのワルが、である。そんな彼が泣き叫ぶ姿は、羽澄の心に、何か暖かなものを吹き込んだ。



「根岸、お前……フフッ」



 次第に、羽澄の胸が温もりに満ちていく。それは凍てついた心を氷解させ、重苦しい扉を開かせた。


 その大きな変化は、腹を抱えるほどの笑い声に乗って現れた。



「フッ……フフ。アーーッハッハッハ!」


「笑ってんじゃねぇよ羽澄! お仲間のピンチだぞオイ!」


「何だお前、バッタごときでビビリすぎだろ! 仲間を守るために大暴れしたヤンキーが、キャアキャア喚きまくって! アーーッハッハ!」


「うっせぇ! 誰だって苦手なモンくらいあるだろ!?」


「あぁ、悪い悪い。あんまりにも面白くて、つい」



 今度は、羽澄が手を差し伸べた。縮こまったままの根岸は、その手を掴んで立ち上がる。


 こうして、涙混じりの笑みを浮かべる羽澄と、不満顔の根岸は手を結ぶのだった。



「改めてよろしくな、根岸」


「おうよ。仲良くやろうぜ」


「そこまで虫が苦手なら、外に出ないほうが懸命だな。今後は部屋に籠もってろよ」


「あれはいきなりだったから。普段はもっとマシだ」


「好きにしろ。代わりに、また同じことが起きても助けてやらんぞ」


「つうか羽澄、朝にも聞いたけどさ。そのタトゥーはどうしたんだよ?」


「いや、これは……」


「マジかっけぇよ。ちょっとアニメ調っつうか、ロゴっぽいとこなんかクソエモい! もしかして島に彫り師でも居んのか? オレにも紹介しろよ!」


「これは、その、日焼けだ」


「えっ、マジぇ!?」


「森の中で寝っ転がってたら、葉っぱがいい感じになって。気づいたらこう、焼けてた」


「何だその奇跡!? ヤバすぎんだろ!」



 それからは2人並んで歩いていく。砂浜に、2つの足跡が刻まれては、海風で崩れた。


 潮の匂いだ。羽澄は、他愛のない会話の傍らで、濃い香りを感じた。匂いが思考に届くのはいつぶりか、思い出せない。



「つうか羽澄、腹減ったよな? 食堂行こうぜ」


「もう昼時か?」


「こんな時のモバイルバンドだろ。ええと12時過ぎ……」


「のんびり歩いたら、食堂に着くのは1時前後だろうな」


「やべぇ! それだと粗方食われちまうぞ、走れ!!」


「別に1食くらい抜いたって平気だろ?」


「んな訳あるか! 食は快楽だぞ!」



 そうして2人は慌ただしくも駆け出した。いつぶりかに感じられた匂いを、心から満喫する暇もない。


 だが今のように、騒がしくしながら駆けるのも、久しぶりだった。それはそれで、心が少しだけ軽くなるようである。しかし、これは嵐の前の静けさだった。


 運命は羽澄を決して離さない。逃がすどころか、濁流の如き波乱の渦潮へ引き込もうとする。そんな未来が待ち受ける事を、彼はまだ知らない。


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