夜のアジール

上雲楽

アパート

 隣の部屋の夜泣きが酷くて、頭を壁に何度か打ち付けて威圧した。夜泣きと言っても、日光なんてもう誰もずっと見ていない。敵から逃げるためには必要な措置だったと政府は述べるが、それは捏造された情報だった。

 夜泣きは悪化して、その部屋から怒鳴り声も聞こえた。この部屋から、いやアパートから脱出しないといけないと思ったが、自分の行動は監視されている。

 郵便受けがガタっと動き、そこからペンライトの光が差し込まれた。部屋の明かりはいつも消しているから赤い点が泳ぐのがいつもよくわかる。数分して、何も反応がないのを理解したようにペンライトが抜かれる。このルーティンは不定期に行われるので常に部屋を暗くせざるを得ない。窓にも板が打ち付けられているので捏造された夜がまだ継続しているのかはわからない。

 脱出を試みたことは今日に限らない。窓もドアも破壊に失敗している。残されたのはこの部屋の上下と左右。再び頭を何度も壁に打ち付ける。壁はコンクリートそのままむき出しになっており、その表面を削ることさえできなかったが、隣からの泣き声と叫び声は次第に大きくなっていったので、この行為に確かな手応えを感じた。

 額の鈍痛が増す中で、まだ教室に夕日が射し込んでいた頃、同じクラスの少女が指導室から脱出しようとして頭部から流血したのを思い出した。その少女は手のひらの皮を剥ぐ癖が収まらず、常に周囲にはバラバラになった皮膚が落ちていたので、誰からも避けられていた。美術室に飾られていた生徒たちの絵も、その少女のものだけ誰かに破られ画鋲で留められた四隅に紙片を残すだけだった。

 指導室は地下にあって、階段を降りてから廊下を二回左に曲がった先にあったから叫び声は聞こえなかった。実際、叫び声があげられることはなかったと記憶している。指導室の窓に張り付いて中を見やると、椅子に座った少女の背中が見えた。少女の背後にいる先生が少女を監視している。何か話し声のようなものは聞こえたが、意味をなす単語を聞き取ることができなかった。

 少女の声を聞いたのは一度しかない。夜に学校のプールに忍び込んだとき、プールサイドで服を畳んでいると、

「監視カメラがあるのに」

と少女が言った。しばらくして目が慣れてくると、月光に照らされた水面にプールサイドに座った少女が反射しているのが見えるようになった。そしてその後ろからプールサイドに赤いレーザーの点が照射されている。赤い点はプールサイドから水面へのたうち回り、しばらくして少女の背後に隠れて見えなくなった。

「泳ぐの?泳がないの?もうどちらにしても同じだと思うけど」

少女は携帯端末を起動させて、青白い光で顔を照らすと、何かを書き始めた。

「何なんだお前」

「何を聞きたいの?」

「……そんなこと書いているから指導室に目をつけられるんだろ」

プールサイドに足を浸す。

「地下の方が落ち着くの。敵から先生が守ってくれるし、日光は耐えられない。そっちも私と同じだと思っていたけど」

「指導室に行かされるのは単に……」

そこまで言いかけて吐き気を感じたので、全身を水で浸す。水着は持ってきていなかったが、あの少女の前で羞恥心を覚えることはなかったと記憶している。

「すぐにみんな私と同じになるよ」

そう少女が言うとサイレンが鳴って、水面が赤く照らされた。どこかで赤い警告灯が回転している。

 最近、アパートでサイレンが鳴ったのはドアの鍵を開けたときだった。そのまま開いて外に出ようとすると、すごい力でドアは押し戻された。一瞬見えた廊下は部屋と同じようにコンクリートに囲まれていて、警告灯で赤く照らされていた。

 またしばらく頭を打ち付けているうちに、日光の元で誰かと会話した記憶が思い出せないことに気がついた。少女が書いた何かを読むことはできなかったが、端末を操作してうごめいていた手つきは記憶にこびりついていた。皮を剥かれて薄ピンクになった少女の手はどこか火傷の跡を連想させた。このアパートで火災は起こらないし、火を使うことは禁じられているから、きっと二度と見ることのない手だった。窓の外からも怒号が聞こえる。敵の声ではありえない。もし敵ならこの捏造された夜に意味がなくなる。ここでは巨大な書き割りに星空を描いて密閉し、夜を作り出した。地域によっては自転速度と同じ速さで移動し続けて日光から逃げているところもあるらしい。もちろん情報端末はすべて検閲されているし、監視機器でもあったから、その情報は半ば欺瞞も含んでいたが、この夜から出る手段が誰にもないのは事実だった。

 泣き声と叫び声の他には機械の駆動音しか聞こえない。目に入るあらゆる電子機器は電源を切るか破壊したので、自分の目に見えない何かが常にこの部屋で動き続けている。あるいはアパート全体かアパートの外からの音なのかもしれないが、その音は部屋の内側で反響しているように感じる。

「黙れ」

声と音を掻き消すために叫んでみるが、慌てて口をつぐんだ。指導室に連れていかれるかもしれない。

 少女が日中に教室に来ているところを見たことがない気がする。指導室のある廊下は常に叫び声と機械を冷却するためのファンの音が聞こえたが、部屋を一つずつ見ていっても叫び声をあげている人を見たことがない。少女のいる場所には必ず皮膚片が落ちているからどこにいるのかよくわかった。それに、そこには誰も近寄らなかったから、どこに落ちているのかもすぐにわかった。

 誰かが宿直中、少女と担当になって話しかけたことがあったらしい。その直後、機械が破壊される音とサイレンが鳴ったので会話することはなかったと聞く。自分は学校で少女以外と会話したことがなかったのでこの話は捏造された記憶なのかもしれない。昼がなくなってから、夢と記憶の区別をつけることが難しくなってきた。その区別を確認する相手もずっといない。

 最近見た夢は夕方だったから、これはきっと夢に違いない。その夢ではコンクリートで囲まれた廊下に人々が並び、その一人一人が壁に張り付けられ頭部に機械をはめられていた。機械一つはかすかな音のはずだが、廊下では駆動音が空襲警報のようにけたたましく響きあっていた。廊下の奥へ歩いていた誰かが、きっと監視者、左折したあと、頭部の歯車が一斉に動き出す。後ろで叫び声もあげず、張り付けられたまま力を失ってうなだれる人がいたのがわかった、と同時にその人に取り付けられた機械の駆動が停止する。その横の人間も同じように動かなくなっていき、少しずつ機械音が減る。夢の中では廊下に繋がれてもいたし、廊下に立ってすべてを監視も。していた。壁に頭を打ち付けるとその先に人がいて互いの額がぶつかった。その人だけが唯一叫び声をあげた。

「待って、せめて窓の外を見せて!」

すぐに機械が唸り声をあげてじきに停止し、叫び声も駆動音も一切聞こえなくなった。その瞬間、額から血が流れていることと、壁の向こうから赤子の泣き声が聞こえるのに気がついた。

「黙れ」

「すぐにみんな私と同じになるよ」

少女は指導室で監視されると同時に監視していたんだとそのとき気がついた。プールにいたのも自分を監視するためだった。いや、指導室に連行されたのは自分がプールに侵入した咎を庇ってのことだったと記憶している。その頃から不眠が酷くて、この記憶も夢とすげ替えているのかもしれない。

 少なくともこのごろはずっと部屋で横になっているから、廊下に出る記憶は夢でしかありえない。必ず誰かが監視していることは現実を担保してくれて安堵を覚えている。

 頭を何度も打ち付けてもサイレンは鳴らない。だから監視者にとってこれは取るに足らない出来事なのか、起こらなかったことだった。プールでの出来事はサイレンが鳴ったから事実だった。かつて昼と敵が目に見えた頃、サイレンが鳴ったことがあったのか思い出せない。

 昼の敵は我々を監視していたらしい。日光の元ではすべてが見えてしまう。政府は光学機器と太陽光発電のおぞましさを喧伝したが、それに賛同したのはごく一部の支持者だけだった。しかし、今では誰もが嘘の闇に身を潜めて敵の監視から逃れようとしている。自分もここにいるということはその一員だったらしい。

 泣き声はまだ収まらない。もしかしてこの声も機械によって作り出された警報音なのではないだろうか。頭を打ち付けるのをやめて部屋を見渡し、警告灯が見えないか探す。また郵便受けがガタガタと何度も開閉されペンライトが差し込まれ、赤い光が自分を探すが、これが見える暗闇の中にいることが警告灯が動いていない証拠だった。

 叫び声をあげれば指導室に連れて行って貰えるかもしれないという考えが頭に浮かんだが、このアパートにそんな施設はあるのだろうか。しかし、もし監視者が行動を制御したいなら少なくとも何かアクションに反応があるはずだと考えて口を開けたが、声が出ない。ずっと声を出していなかった弊害だと思う。喉の使い方を思い出せず、窒息するように口を動かすことしかできない。

「黙れ」

ともう一度叫んで見るが、喉の動きを感じないから、これは脳内で発声した気になっているだけだったらしい。

 プールで溺れたのは水中で上と下の区別がつかなくなったからだった。少女が手を引っ張って助けたが、あの穢らわしい手に触られて烙印を押し付けられたと感じた。今は溺れ方も窒息の仕方も思い出せない。この部屋には紐も布もなく、首を吊ることもできない。着衣すら許されなかったが、監視者への恥じらいを感じたことはない。

 自分の手のひらには傷ひとつなく、皮膚も剥がれておらず、全身と繋がっている。額から流血することもない。皮膚より内側を監視者に見せることは許せない。この夜泣きはおそらく自分の睡眠を妨げるために行われているから、自分が眠れば夜泣きは終わる。しかし、それとは関係なく機械音は部屋の内側に響き続け、ずっと眠ることができない。監視カメラを発見し、破壊しなければならないと思ったが、それをしてしまえばこの夜からの脱出手段は永久に失われる気がした。自分を夜へ閉じ込める監視者だけが逆説的に自分をかつての昼へと導いてくれる。このアパートからの逃げ場がないのはわかっているし、昼と夜からの逃げ場もこのアパートしかないのも知っていた。

 夜泣きはさらに大きくなりそれに伴って叫び声も他の部屋に伝播し、増殖した。ペンライトが引き抜かれ、廊下の外から多数の足音が聞こえた。

 頭を打ち付けるのを諦めて壁にうなだれたとき、サイレンが鳴り、部屋が赤く照らされた。

 視線の先に鏡があり、赤く照らされた自分の顔を見ても叫び声は声にならず、すべての音の中で埋もれた。

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