反響

上雲楽

 「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。

 声が聞こえ始めた時期はもう思い出せないが、頭痛が酷かったのを覚えている。目をえぐりたくなるような頭痛なんて台風前くらいだから、過去の記録を調べればいつから聞こえるようになったのか確かめられるのかもしれない。

 「お箸とストローお付けしますか?」

と私が言うと客の男は目を伏せたまま手を振って断った。男は今日の台風に煽られたのか全身を濡らして、歩くとスニーカーがギュッギュッと擦れる音がした。

「チャンスは残り三回です」

「黙れ」

私がつい幻聴に返事してしまうとレジを済ませた男が振り返ったので目をそらした。当然病院に通ったが、わかったのは「原因不明」ということだった。統合失調症を疑った私は朝日を浴びるとか散歩するとか野菜食べるとか心身の健康を維持しようとしたが、徒労だった。むしろ聞こえる頻度が増している気がする。昨日聞こえたのはスムージー(イチゴ)を飲んだとき、二回目のトイレから立ち上がったとき、エアコンの温度を27度に設定したとき、アルコールスプレーを布にかけたとき。視線の端で男が店を出ようとした瞬間、外が白く光ると同時に轟音が響いた。それから二秒くらいで店の電気がすべて消えた。

「あの……出られないんですけど」

足踏みするかのようにギュッギュッという足音が店内に響く。しばらくして目が慣れてくると、男が自動ドアの前でふらふらとセンサーに反応させようとして動くシルエットが見えた。

「そうみたいですね、冷蔵庫確認してきます」

「出られないって言ってるんですけど」

「傘、外に置いてましたよね?」

「チャンスは残り二回です」

「どこにいるんですか?見えない……」

私は男に駆け寄って手を掴んだ。

「チャンスって何なんですか?助けて下さい」

「助けてほしいのはこっちですよ。今すぐ帰らないといけないんです」

私はじっくりと男を観察するが、やはり暗くて顔がよく見えない。チャンスを消費したのは何?雷?停電?足踏み?

「足踏みしてくれませんか?」

「センサー死んでるみたいですよ」

「私が助かるために必要なんです」

またスニーカーの擦れる音がするが、声は聞こえない。

「チャンスは残り二回ですって言いました?」

と私は問いかけるが返事はない。私は幻覚を疑って男の顔を殴りつけてみたが、接触してバチンと音が響いた。

「もしかして僕のせいだって疑ってます?」

男がもそもそと語りかける。

「今すぐ帰らないといけないんです。自分のせいじゃありません。自分で閉じこもるわけないじゃないですか。全部消えたのは自分のせいだと?ふざけないで下さい」

「消したんですか?」

「消えるんですよ、ほら」

と言って男は自動ドアの外を指さした。その先は傘置き場だったが、一本も傘が刺さっていなかった。

「傘を私が得なくてはならないってこと?」

「自分のものが消えるだけです。あなたの物じゃない」

「なら私の声を消して」

「誰ですかあなた」

「私は……」

と言いかけて私は嘔吐した。台風で自律神経だか三半規管だかおかしくなっているらしい。今日は何も食べていないから幸い胃液と胆汁だけだ。

「今のも消してないです。現にほら、ゲロが落ちている」

男はクスクスと笑うと私の吐瀉物を踏み潰して爪先を左右に降った。胃液で焼けた喉が痛い。

「チャンスは残り二回です」

「やっぱり、ここから出てはいけない。私に必要かもしれないんです」

「消えろ」

と言われて私は数年前の台風の日を思い出した。その日父は電車の運休で帰って来なかった。

「テレビが消えた」

と部屋のドア越しに兄は言った。私は急に消えた電気に驚いて耳を塞いで口を開けていた。

「チャンスは残り三回です」

「テレビでさ、さっきやってたけどさ、おでんって熱くないんだってね」

「テレビなんか消してよ」

私には兄なんていないのでこれはきっと夢か幻覚の記憶なんだと思う。私にもそれくらいの区別は付く。

「寒くなってきたし……」

「お兄ちゃん?」

「帰らせて」

眼の前の男が頭を掻きむしった。これはイライラしている兆候だ。もしかしたらこれは殴られるかもしれない。兄がいつも私を殴っていたように。

「テレビをつけて」

と電話越しに父は言った。部屋の外で兄が足踏みする音が聞こえていた。濡れたスニーカーの擦れる音。これは音に反応して記憶めいたものを生成しているだけだ。事実じゃない。

「チャンスは残り二回です」

「例えばあなたが私を見ないとか殴らないとか犯さないとかはどうですか?」

「テレビの音だよ」

と父には足音の秘密を伏せた。男は自動ドアにもたれかかってピチャピチャと足を動かす。

「チャンスは残り二回です」

「こんなに聞こえたの始めてなんです。何か知っているんですよね。誰ですかあなたは」

「うるさかったなら謝りますけど、帰りたいだけですよ」

「黙れ」

と私がさっき言ったのは自分に対してだ。だって聞こえる声は自分の脳内のものだから。空気の振動とかじゃなくて、大脳とかがなんかして作り出されたもの。

「お箸とストローお付けしますか?」

「なんで入れなかった?……そうか、それも自分が消したのか」

「テレビが消えたのは私のせいじゃない」

「黙れ」

「チャンスは残り二回です」

台風の日はいつもテレビを見ていた気がする。私の部屋にテレビはなかった。私はずっと廊下で寝ていたから。廊下の奥には観葉植物が置いてあってその横に私のランドセルがあった。兄が自動ドアを叩く音がした。

「今日は帰れそうにないみたい」

「台風だから?」

男は観念したように自動ドアを軽く小突いた。また遠くが光るとほぼ同時に雷の落ちる音。

「チャンスは残り二回です」

「雷じゃなかったんだね」

「お前がテレビを消したんだろ」

「冷蔵庫、確認しなくて大丈夫ですか?消えているかも」

「少々お待ち下さい」

私はバックヤードに入って冷蔵庫の確認をする。やはり止まっていたが冷気は残っている。

「寒くなってきたし……」

と言ったのは啓示だったらしい。あの男はすべてわかっているんだ。私のことも兄のことも。

「お前、何考えているんだ?」

と電話越しに父が言った。

「ごめん、バイト中だから」

「すぐに帰る、だから」

「チャンスは残り二回です」

「お兄ちゃん、私、消してないよ」

と言ったのに兄は私を殴った。兄は私の視界内にいなかった。ドアの向こうにいた。この家に帰って来なかった。私に兄はいなかった。殴られた頬を擦ると私は監視カメラのモニターもチェックしようと思ったがやはりすべて消えていた。携帯電話の明かりに照らされて、モニターが映り、そこに反射している人影が見えたので振り返ったが、人影は一つだけだったからそれは私の鏡像だった。

「帰らせて下さい」

「帰る場所なんてないんだよ」

監視カメラは今は何も写していない。逃げるなら今だった。だけど廊下の向こうには兄がいる。

「兄を消して下さい」

「テレビをつけて」

「帰れそうにない」

「チャンスは残り二回です」

私は叫び声を上げてモニターを持ち上げ、床に叩きつける。モニターがマンガみたいに割れるのを期待したが、ガコッと音がしてへこみもしなかった。いや、内部は壊れているのかもしれないがわからない。見えないものはわからない。監視カメラはモニターの内部に搭載されていない。監視カメラはすべて停電で止まっているに違いない。

「見ているぞ」

男はそういうと冷蔵庫から勝手にコーラを取り出して飲み干した。男はゲップすると嘔吐して、吐瀉物をぶちまけた。

「私達、似ているって思いませんか?」

「似ていないところが消えたのかもしれないですね」

「チャンスは残り二回です」

「これ、聞こえてるんでしょ」

「おい、何をしているんだ、聞こえている、電話を切るな、今から帰る、頼むから……」

「うるさいですね」

「黙れ」

また轟音が聞こえた。雷が落ちたのかもしれないがバックヤードまでは光が入って来ないからわからない。もしかしたら私の声だったのかもしれない。

「お待たせしました」

私が自動ドアの前に戻ると男は腕を組んで足元を見ていた。私の足元なのか、男自身の足元なのかはわからないが。

「私もここから帰りたいです」

「消えろよ」

「チャンスは残り二回です」

「黙れ」

男は何度もドアに体当たりして破ろうとした。だけど廊下の奥にいる私には関係のないことだった。男がドアを壊そうとどうしようとどうせ監視カメラは記録しない。

「帰らなきゃいけないんです」

「黙れ」

ドアは開かず、壊れない。遠くでまた音がする。スニーカーが擦れる音がする。それは私の足音だった。

「何も映んないですね」

それは嘘だった。自動ドアに反射して私達が見える。私達が見ているのが見える。私達が見ているのを見ているのが見える。男の視線が動いた。ドア越しに私を見ているのに気がついた。

「見ているぞ」

「チャンスは残り二回です」

「帰ろう」

私に必要なのは兄ではなかった。電話の向こうで足音がする。そして雷の落ちる音。

「テレビを消して」

私は私に従う。

 また外が白く光って、それから何も聞こえなくなった。


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