どっかのハイウェイウィズドッグ

上雲楽

失踪

 あるいは息子が誘拐されてから十二年経過した頃だったか、坂田はクリニックでの療養を諦めて犬を飼うことにした。犬につけられたリードがへその緒を象っているように見えて坂田は生理痛のような頭痛を感じた。

「だからさ、坂田さんもそろそろ……忘れるのは無理かもしれないけど元気出してさ」

宮坂がバックミラー越しに坂田の目を見ている。

「すべすべ」

「クリニックがまだ怖い?」

「犬の名前」

「犬は逃げ場じゃないよ」

宮坂はその場でワイシャツを引きちぎると坂田を殴りつけ、乳房を握りつぶし、レイプするような人ではないとわかっていた。宮坂を自意識の鏡にするのをやめようと努力したために息子はいなくなったのだ。ならば宮坂も坂田の外部には存在しないのではないかと考えて、中学生並みの唯我論だと自嘲する頃にはクリニックは遠ざかり見えなくなっていた。カーセックスは狭いから嫌だった。それに宮坂に性器なんてあるのだろうか。

 クリニックでのプログラムを達成できなかったことは坂田にとってどうでもよかったが奴らにとっては違うらしかった。奴らは主治医と結託して、と思い出した頃、高速道路に乗りあがって犬が震えだした。音が怖いのかもしれない。

「大丈夫だよすべすべ。時速何キロなんだろうね」

坂田が犬を抱きしめて振動が伝わる。高速道路を移動する轟音で宮坂の言葉がかき消されたので坂田は聞かなかったことにした。窓の外に目を向けると宮坂が助手席に置いていたハンバーガーとポテトとコーヒーを坂田に渡した。それでさっき聞こえなかった言葉がマクドナルドだったと理解したが本当に言いたかったのはこうだ、「消・え・失・せ・ろ」。増殖する可能性に耐えられなくなってクリニックに入ったのにもたらされたのはルーチンではなく奴らの嘲笑だった。今でも奴らが坂田を見ている気がする。犬がハンバーガーを見ているのに不思議と殴りつけたい気持ちにはならなかった。右前方に観覧車が見えて、コーヒーを啜ったが、息子の顔が思い出せない。息子が最後にねだったハッピーセットを思い出せない。奴らによって記憶を改竄されたことを坂田は確信していた。プログラムは坂田の記憶も感情もすべて消し去ることを目的としてEスポーツに没頭させることもあった。昇竜拳を出せるのは奴らによって仕組まれていた。昇竜拳の動きは指をZ状に動かすとよくできた。ジャンプしてきた敵に昇竜拳を使って迎撃した。全部仕組まれたことだ。右前方の車のナンバーが「・233」だった。

「逃げて、早く。奴らが来ている」

「来ないよ」

「いるの」

宮坂は鼻で笑うと少しだけ車の速度を上げた。少しずつその車との距離が小さくなる。犬が震える。車に乗っていたのは40代の男だった。唇は薄く眉は太め、切れ長の目をしていてピンクのポロシャツを着ている。男が口を動かした。車がすれ違う。「見ているぞ」男は確かにそう言った。聞こえなかったがそう言った。坂田はあの男が奴らの一員で安堵していた。もし奴ら以外も坂田を監視しているのならクリニックの外側にも逃げ場などない。もちろん初めから逃げ場などないのだが坂田の思考はそこまで及ばなかった。

 振り返るとあの男の車は見えなくなっていた。こちらが見たから逃げたのだろう。主治医の差し金かもしれないし、この犬を受け取った保健所の人間だったのかもしれない。奴らの存在は秘匿されていて、

「愛してあげて下さいね」

坂田が叫び声をあげると宮坂はぎょっとして瞬きをした。

「私は……じゃない」

「でしょうね」

「逃げよう」

「どこに?」

坂田はようやく逃げ場などないことに気が付いたがクリニックはもう見えなくなっている。刑務所もアジールも坂田にとっては同じだった。クリニックの監視カメラの個数も場所も坂田はすべて把握していた。奴らはクリニックから逃げ出した坂田を絶対に許さない。意識がなくなっても坂田についた目は奴らの気配を感じ取って、名前はなくてもカメラのように文法化した。

「これ、誘拐じゃないよね」

「なんて?」

「どこにも行きたくない。助けて」

「大変だね」

坂田は車から飛び降りようと思ったが高速道路だ。死ぬかもしれない。死ぬのはいいが犬も殺してしまう。リードを離せば犬は車内に取り残されて殴られたり蹴られたり目を抉られたり舌を切られたり耳を削がれたり鼻を焼かれたりするかもしれない。もしかしたらそれをするのは坂田かもしれないのでやはり自分は死ぬべきだと思ったが車のロックが外れない。閉じ込められるのには慣れていた。坂田は目を閉じるとシートベルトを撫でた。

 しばらくすると宮坂が道の駅に車を止めた。

「ちょっと待っててね」

そう言って。宮坂は車を降りて鍵をかけた。坂田も逃げ出すことを考えたが今車から降りても死ぬことがない。犬の震えが止まってこちらを見ている。けきょくのところ犬を使って坂田を監視しているのかもしれないがそれでもいいと思った。犬は叫び声をあげなかった。声帯を除去されているのかもしれない。誰も犬の声なんて聞きたくない。

 駐車場に他の車はなかった。道の駅に誰かはいるのかもしれないがわからない。駐車場を見張るカメラも見当たらなくて坂田は寒気を感じた。犬を抱きしめて温度を感じる。犬を利用することに道徳的嫌悪を抱く人はいないが坂田もその一人だった。奴らもきっとそうだった。クリニックは奴らのためにあったのだ。投与された薬物の離脱症状でまだ頭がぼんやりする。宮坂がここで降りた理由を考えていた。アイスクリームを食べたいからなんてことはあり得ない。もしかしたら奴らに引き渡すために降りたのかもしれない。しかし他に車は見えない。ここから逃げられないのは坂田も宮坂も同じだった。なら仮に奴らがここに来たとして、と考えて坂田は嘔吐した。さっきまで胃に入っていたハンバーガーたちがビニール袋に戻される。胃液が坂田の喉を焼いた。少し苦みを感じたから胆汁も混じっているらしい。二三度の嘔吐を繰り返して落ち着いた。吐くのには慣れていたので鼻から嘔吐することはなかった。体の何かが狂っているからって嘔吐させる自分の肉体を呪ったが、出産よりはましだった。自分の体内に生きた人間がいることもそれが排出されることも耐え難かった。それに比べたら死んだ牛なんて異物でもなんでもない。DNA的には胎児の方が近いのかもしれないがよっぽどエイリアンだった。

 コツコツと窓が叩かれて振り返るとそこに宮坂がいた。なぜ後ろから回り込んでこの車に近づいたのか、この時の坂田に考える余裕がなかった。鍵が開いてドアが開く。

「大丈夫?」

「ごめんなさい」

「捨ててくるから渡して」

「自分で捨てるから……」

「何で?」

 坂田は宮坂の目を見ることができず、おずおずと自分の吐瀉物を渡すとまた宮坂は去っていった。吐瀉物の自由さえずっと坂田にはなかった。排泄もきっと監視されていたに違いない。昔、坂田の膣内に精液を流し込んだ男が「見てるよ」と言ったのを思い出した。そして「コーラで洗えば大丈夫」と。

 息子が排出されてから誘拐されるまでの自分の人生がなかった気がする。息子のことをずっと見ていた気がするが本当は息子に監視されていたのだ。泣き声も叫び声も排泄物も吐瀉物もコントロールしていたのは自分ではなく息子。クリニックにいた奴らの中に息子がいたのかもしれない。復讐に来たのかもしれない。それとも自分が息子を忘れているように息子も自分を忘れているのだろうか。

「じゃあ、行こうか」

 宮坂がいつの間にか戻ってきてエンジンをかけ直した。もしかしたら宮坂が自分の息子だったのかもしれないと思ったが、宮坂は年上に見える。目を閉じると宮坂が見えなくなって年下の男が想像されたが、犬が指

を甘噛みして中断された。

「かわいいね」

宮坂が犬を見ているのが目を閉じてもわかった。犬さえいれば監視の目を犬に引き付けられるかもしれないがもうどうでもいいことだった。坂田は再び車内に閉じ込められた。駐車場を出た車が少しずつ速度を上げていった。また犬が震えだした。轟音で何も聞こえなくなり、景色が過ぎ去っていく。そのまま車はどこかに消えた。

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