からあげ
上雲楽
鉄塔
毎朝ベッドから起き上がると窓の外には錆びてツタの巻き付いた鉄塔が見えていると思っていたがそんなものはなかった。川原は昨日作ったからあげの残りを電子レンジに入れると窓を開けてあたりを見回してみた。鶏モモ肉は一キロ買っていた。なのに、いや、確かに揚げながらつまみ食いはしていたが今は大皿に盛るまでもない量しかない。それも本当は少し違って、大皿に盛らなかったのは三枚セットで買ったはずの大皿が昨日、二枚しか見当たらなかったからだ。
「川原さん、うっかりが多すぎます。ほら、これも桁がゼロ一個足りない」
と経理の飯田に怒られたのは何日前だったか。外の通りで登校中の小学生が言い争いのような笑い声のような大声を出しているのがうるさくて川原は窓を閉めた。
川原は食べても太らない体質だった。昨日だってからあげを……とその時、川原は昨日夕食を食べていないことに気が付いた。
「それ、賞味期限切れてます」
この前家にあった総菜パンを弁当代わりに持って行って食べていると飯田がいやそうな顔をした。川原は電子レンジが終わった音を聞くと、もう片方のビジネスソックスをたたんでいない洗濯物の山から探すのをやめた。だいたい飯田は細かいことでぐちぐちとうるさいのだ。
「私が細かいんじゃなくて、川原さんがいいかげんすぎるんです。てか、貸した本早く返してください」
からあげはチンすると量が減る気がする。ラップに水滴がついているから事実、水分とか抜けているんだと思う。飯田は健康診断の日に脱水症状で倒れたことがあった。あとで聞くと前日から水を抜いていたらしい。そこまで気にするなんて女子中学生みたいだと笑ったが、川原も体重は気にしていた。
「川原さん、また痩せました?」
飯田の視線はいつもモニタに落とされていて、こちらの目を見ない。その数日後に川原はベルトの穴を一つきつくしたから飯田は正しかった。女性社員や(体育会系出身の)先輩社員は川原が山盛りのランチを簡単に食べるのを見て喜んだ。川原に大食いの趣味はなかったが一発芸のように何度か得意になってラーメンなんかを爆食いしてみせたことがあったが、飯田は「普通に食べたいだけ食べればいいのに」と言うだけだった。
電子レンジの中にはテレビのリモコンが入っていた。どうりで見つからないと思った。川原がリモコンの電源を何度か押すとニュース番組が映る。
「私の傘間違えて持って帰ったの川原さんでしょ」
天気予報でアナウンサーがなんか言っていたが見逃した。川原は玄関まで歩くと傘を一本も持っていないことに気が付いた。
「川原さんは失くし物とか忘れ物とか多すぎます。社用スマホ電車に置いてくるとかありえない」
川原は右、左に首を鳴らして洗濯物の山を漁り直した。Yシャツを見て安心すると川原は昨日使ったハンカチが何色だったか忘れていた。
「その胸ポケットのボールペン、まだバネ見つかってないんでしょ」
飯田にそう言われてYシャツからボールペンを取り出してノックしようとするがスカスカとするだけだった。部長の結婚指輪が外されていることに最初に気が付いたのも飯田だった。
「だって最後にそのボールペンのバネで遊んでたのって……三日前?まったく、小学生じゃないんだから」
という会話をしたのはずいぶん前だからYシャツと一緒にボールペンを洗濯してしまうなんてことはありえないことだった。
窓の外で小学生が泣き声のような歓声をあげたので川原は飯田に帰省のお土産を渡すのを忘れていたのを思い出した。
「いやいいって、気を遣わなくて。そりゃアレルギーとかないですけど」
そう言われたから川原は仮に帰省しても飯田には何も渡さないことに決めていた。就職してから実家にはもう何年も川原は帰っていない。学生時代、朝起きると窓の外に鉄塔が見えることはなく一面畑だったから、引っ越した時は感動したものだった。
結論から言って、部長は離婚していなかった。
「ただのクリーニングで外してただけでしょ、見ればわかりますよ」
と飯田は言った。飯田は人が髪を切ったり、眼鏡を外したりすると真っ先に気が付いた。川原はモニタを見ている飯田の横顔しか印象にないのでいつそんなにまわりを見ているんだろうと疑問に思っていた。
「まあ、仕事中暇なんで。人間観察は趣味というか生存戦略ですかね?」
冷蔵庫の中には、チーズ、卵、ドイツパン、チョコ、マイナスドライバー、コーラ(開栓済み)、トマト。もっと食べなくてはならないと川原が決意してからスーパーマーケットに行ったのはもうずっと前にまでさかのぼる。そろそろ起床する時間なのにスマホのバイブが鳴らなかった。
「だから、スマホ忘れるとかありえないですから」
と会社のエレベーターで飯田が渡してきたのは社用スマホだった。この頃睡眠時間もどんどん減っている気がする。
「うらやましいですね。私なんて寝ても寝ても疲れ取れなくて休みの日ずっと寝てますよ」
もっとちゃんとしないといけない。早寝早起き一日三食五十品目。それが不可能だったのは昨日はずっとシンクの掃除をしていたからだ。
「いや、えらいですよ。私全然掃除してないですもん」
鉄鍋に入れた油がからあげを作って減るのはからあげが油を吸うからというだけでなくそこら中に油が飛び散るからだ。IHをアルコールで拭いて菜箸をシンクに投げ捨てると、シンクの水滴がどうしても許せなかった。なのにアルコールスプレーはもうほとんどない。
「天使の取り分ってやつですかね?」
と飯田がくすくす笑った。
「電子レンジをきれいにするコツ教えましょうか。お酢をチンするんですよ。それで蒸発したお酢をコゲと一緒にふき取るんです」
テレビからお笑い芸人の笑い声が聞こえた。音量を下げたいのに電子レンジの中にリモコンがない。
「だから使ったものはもとの場所に戻すって習慣化しないとですよ」
本棚には行政関係の書類に混じって場違いな文庫本が一冊横向きに置かれていた。
「だから言ったじゃないですか。絶対貸したって」
いや、飯田が自分に物を貸すわけがない。文庫にはカバーがかぶせてあってタイトルが読めない。川原はテレビの主電源を落とすとベッドの隙間から聞きなれたチャイム音が流れ始めた。この時間は起床時間だったか出社時間だったか川原には思い出せなかった。ベッドの上に乗っかり充電コードを引っ張ってスマホを釣り上げチャイムを止める。それは社用スマホではなかった。
とにかくもう家を出ないといけない。川原は家の鍵を探した。机の下やカーテンレールの上や掃除機の中とか。川原は探すのを諦めて不揃いの靴下を履いて家を出た。鍵はかけなくてもどうせ誰も気がつきはしない。駅まで歩いて電車に乗って会社に到着した。
「あれ、今日は早いですね」
飯田がモニタを見ながら軽く伸びをすると、一瞬固まってゆっくりと横を向いた。飯田の目を初めて見た気がした。
「朝ごはん、揚げ物とかでした?からあげとか?がっつりですねー。唇テカってますよ」
飯田はそれだけ言うと肩を丸めてまたモニタに向かった。
その日朝食を食べていないことに気が付くまで川原は長い時間を必要とした。
からあげ 上雲楽 @dasvir
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