第18話 暴君詰め合わせ(アタルヤ:ユダ王国,アルシノエ二世:エジプトプトレマイオス朝,エイレーネー:東ローマ帝国)

 今回は、「暴君」な女王様たちをまとめて取り上げます。

 ただし、歴史上の評価としては必ずしも「暴君」とは呼ばれていない人物についても、私個人の評価として、この無軌道っぷりは「暴君」の名にあたいするだろう、と思った人物も取り上げています。ご了承ください。


●母のようにはなれなかった ~アタルヤ(イスラエル・ユダ王国:在位BC841頃~BC837頃)


 最初に紹介するのは、古代ユダ王国の女王・アタルヤです。

 誰、それ? とお思いの方がほとんどかと思います。私も今回調べてみるまで全く知りませんでした。

 そもそも、日本人で旧約聖書にしるされた古代イスラエル王国の歴史に明るい方なんて、それほど多くはないでしょう。多分。


 ユダ王国はイスラエル王国が南北に分裂した南半分の国です。

 ではイスラエル王国とは? 初代の王、というより族長連合の長といったポジションだったサウルという人物に仕え、事実上の建国者となったのが、旧約聖書のヒーローの一人、ダビデ(BC1040~BC961)。

 ダビデの跡を継いだソロモン王(BC1011~BC931)の時代に、イスラエル王国は繁栄を極めますが、ソロモンの死後には部族間の対立などから南北に分裂。北側をイスラエル王国(北王国)、南側をユダ王国と呼びます。


 アタルヤは、北王国の第七代国王・アハブ(?~BC850)と、シリアの王女・イセベル(生没年不詳)の娘として生まれます。彼女の生年もはっきりとはわかりません。


 アハブの父はオムリ(?~869頃)といい、北王国の第六代国王ですが、クーデターを起こして第五代となったジムリという男を討って新たな王に推戴された人物で、ダビデの血統ではなく、いわば「オムリちょう」の開祖というべき人物です。


 アタルヤの父・アハブは、旧約聖書では「比類なき暴君」とされているのですが、これはユダヤ教徒の立場から、ヤハウェ以外の神々を許容したことを非難されたもの。

 彼は妻であるイセベルのバアル神信仰を受け入れ、シリアをはじめとする周辺諸国と同盟を強化しました。

 紀元前853年にシリア諸国連合とアッシリアとの間で起きたカルカルの戦いでは、連合軍の一翼をにない勝利に貢献するなど、非常に有能な王だったのです。


 アタルヤは南のユダ王国の王・ヨラム(?~BC842頃)にとつぎ、母にならってバアル神信仰を広めようとしました。


 しかしながら、父アハブは、カルカルの戦いの後に生じたシリア連合のゆうダマスコ(ダマスカス)との間の争いの中で、命を落としてしまいます。

 その後、彼の息子、つまりアタルヤの兄弟が跡を継ぐのですが、イエフ(?~BC815頃)という人物がクーデターを起こし、オムリの血筋を皆殺しにしてヤハウェ信仰を復活させます。


 一方、ユダ王国では、BC842年頃にヨラムが没すると、アタルヤとの間の息子アハズヤが即位しましたが、翌BC841年頃、南北王国の共同作戦の際の戦傷の療養のためにたまたま滞在していた北王国で、イエフのクーデターに巻き込まれて死亡してしまいます。

 そして、母であるアタルヤが跡を継ぎ、女王となります。


 しかし、これに対して国内の反発は大きく、それを抑え込むために、アタルヤはダビデの血を引くユダ王家の一族を皆殺しにします。


 このアタルヤによる粛清の中、ただ一人生き残ったのが、アハズヤの子でアタルヤにとっても孫にあたるヨアシュ(?~BC800頃)。

 アハズヤの姉妹(ただし、アタルヤの所生ではないようです)エホシェバとその夫で大祭司のエホヤダ(生没年不詳)にかくまわれて難を逃れます。


 そして、BC837年頃、ヨアシュをようしたエホヤダのクーデターにより、アタルヤは捕らえられて処刑されたのでした。


 かくして、アタルヤは「ダビデの血統をとうとした最悪の暴君女王」の汚名を残すこととなったのですが……。

 息子アハズヤの横死おうしがなければ、その後の歴史は大きく変わり、彼女が汚名を残すこともなかったかも知れません。


 また、一方で、オムリの血統を絶ち、ヤハウェ信仰を復活させて偶像崇拝を廃したイエフは、旧約聖書で「北王国きっての名君」とたたえられています。

 実際には、ヤハウェ信仰にり固まって近隣諸国を敵に回し、北王国の衰亡の原因を作った暗君というべきなのですけどね。


 まあ、歴史は常に勝利者が綴るもの。これも仕方のないことなのかも知れませんが。


 あとこれは完全に余談ですが、「紀元前800年代とか言われても、すげー昔としかわからねえよ」とおっしゃる方もおられることでしょう。

 参考までに、ギリシャで都市国家ポリスが成立しだしたのはBC800年頃から。伝説の王ロームルスがローマを築いたとされているのがBC753年。

 東方に目を向ければ、笑わない美女・褒姒ほうじの故事で知られる西周せいしゅうの滅亡、春秋しゅんじゅう時代の開幕が、BC771年。

 これらよりもさらに前の時代の話ですから、何とも感慨深いですね。



●クレオパトラの大先輩 ~アルシノエ二世(エジプト・プトレマイオス朝:在位BC277~271)


 続きまして、エジプト・プトレマイオス朝初期の女傑じょけつ・アルシノエ二世を取り上げます。

 クレオパトラ七世の御先祖様であり、いろんな意味でクレオパトラの大先輩というべき女性です。


 彼女に関しては、政治家としての能力も高く、また特に虐殺などをやらかしたわけでもなく、むしろ「名君」との評価もある人なので、暴君扱いには異論もあるかもしれませんが、ひとまずお付き合いいただければと思います。


 アルシノエの父は、アレクサンドロス大王(BC356~BC323)の家臣で、その死後に「ディアドコイ」と呼ばれる後継者たちの一人となったプトレマイオス一世(BC367~BC282)。

 アルシノエはその長女として紀元前316年に生まれました。


 彼女は15歳の時、こちらもディアドコイの一人でトラキア・アナトリア・マケドニアを領有したリュシマコス(BC360~BC281)の妻となります。

 これまたディアドコイで、アナトリアからメソポタミア、ペルシャを経てインド北部にまで至る広大な版図はんとを領したセレウコス一世(BC358~BC281)に対抗するための、政略結婚です。


 40歳以上も離れた夫との間に三人の男児をもうけたアルシノエは、夫の長子アガトクレス(BC320から310年代~BC281)に謀反の嫌疑をかぶせて処刑、息子たちを後継者にしようと目論もくろみます。


 しかし、その結果、アガトクレスの妻の実兄でアルシノエの異母兄でもあるプトレマイオス=ケラウノス(BC319または318~BC279)がセレウコス一世のもとはしり、リュシマコスとセレウコスの争い――コルペディオンの戦い(BC281)が引き起こされます。


 リュシマコスはこの戦いで戦死。しかし、勝利を収めたセレウコスも、その後すぐにケラウノスに暗殺されます。

 そしてケラウノスとアルシノエの異母兄妹は、リュシマコスの後継者の立場を固めるために結婚します。

 ……カオス過ぎる。


 が、まさに野合やごうというしかないこの結婚はすぐに破綻。前夫との間の息子たちとともにケラウノスを除こうとしたアルシノエは反撃され、次男と三男を殺されます。

 そして長男は北のダルダニア王国(現在のコソボ付近)に逃れ、アルシノエ自身は生まれ故郷であるエジプト・アレクサンドリアへと逃れます。


 なお、こうしてマケドニア王となったケラウノスですが、その後ほどなくして、BC279年にガリア人の侵攻と戦って戦死。マケドニアはしばらく混乱が続きます。


 さて、エジプトに戻ったアルシノエ。

 この時、エジプトの王位はプトレマイオス一世の息子でアルシノエの同母弟であるプトレマイオス二世(BC308~BC246)に受け継がれていたのですが、ここでも彼女は陰謀を巡らせます。


 弟の妻であるアルシノエ一世(リュシマコスの娘)に夫毒殺未遂の罪を着せ、南エジプトに追放。そしてBC275年頃には、アルシノエ二世は実弟と結婚します。

 カオスもここに極まれり。


 いやまあ、その前には異母兄と結婚していますし、ご存じの通り古代エジプトには兄弟姉妹婚の伝統もあったのですが、ギリシャをルーツとするプトレマイオス朝では本来タブーです。

 そのタブーを、権力目当てに(実は純愛だったんだ、などと考える方はいらっしゃらないでしょう)軽々と踏み越えてしまったのです。


 しかも相手は同母弟。古代には、エジプトに限らず王族の血の純粋性を保つために近親婚を容認ないし積極的に取り入れた事例は多いですが、異母兄弟姉妹はOKでも同母兄弟姉妹はNGというのがほとんどです。


 この、道徳や倫理観なんぞクソ食らえという点において、やはりアルシノエ二世という人は「暴君」と呼んでいいのではないか、と思うわけです。

 ……今回取り上げるために無理やり「暴君」枠にねじ込んでるだけだろうと言われたら、否定はしませんが(笑)。


 プトレマイオス二世同母弟と結婚したアルシノエは、同格の共同統治者、すなわち女王となり、夫と共にエジプトを治めます。

 妻の支えを得て、プトレマイオス二世はセレウコス朝との第一次シリア戦争(BC274~BC271)にも勝利を収め、プトレマイオス朝繁栄の土台を築きます。


 アルシノエはBC270年ないし268年にこの世を去りますが、プトレマイオス二世はその後も、公文書に妻の名をしるしたり、二人の肖像をかたどった貨幣の流通を止めないなど、妻を尊重する姿勢を保ち続けたのでした。――やっぱり名君と呼ぶべきなのかなぁ。



●暴君聖女 ~エイレーネー(東ローマ帝国:在位797.4.19~802.10.31)


 さて最後に登場するのは、東ローマ帝国のエイレーネー。


 395年にローマ帝国が東西に分裂したうちの東側、コンスタンティノープルを首都とする帝国は、何度も王統が変わっているのですが、この時期は717年に即位したレオーン三世(685頃~741)を祖とするイサウリア朝。エイレーネーは同王朝の第三代皇帝レオーン四世(749~780)の皇后で、第四代コンスタンティノス六世(771~797?)の母親です。


 エイレーネーが生まれたのは752年とされていますが、その出自ははっきりせず、アテナイ(アテネ)出身だったらしいということしかわかっていません。

「テオファネス年代記」という書物によると、彼女自身の告白として、自分は孤児であったこと、16ないし17歳だった769年にレオーン四世に嫁いだということが記されているとのことですが……。

 何故なぜ一介の孤児が皇帝に嫁ぐことになったのかは謎です。


 東ローマ帝国には、「皇妃選定コンテスト」とか「美女コンテスト」などと呼ばれる制度があり、帝国国民で一定の基準を満たす美女を、身分の貴賤を一切問わずに一堂に集め、その中から皇妃を選ぶ、というすごいことをやっていたのですが、エイレーネーがこれで選ばれたのかどうかは不明です。

 彼女の息子の妃は、このコンテストで選ばれたようなのですけどね。


 さて、この当時、東ローマ帝国では、「イコノクラスム」と呼ばれる聖像破壊運動と、聖像崇拝派とがせめぎ合っていました。

 本来、ユダヤ教とその流れをむキリスト教およびイスラム教では、モーセの十戒じっかいにもある通り、偶像崇拝は禁止です。

 しかし、信仰のわかりやすいり所として、イエス=キリストや聖母マリア、天使、あるいはキリスト教に関する故事などを描いた聖画像イコンは大変重要視されてきました。


 それに対して、偶像崇拝否定のイスラム教の影響などもあり、東ローマ帝国内でも聖像イコノ破壊クラスムの波が起こります。

 726年、レオーン三世は聖像イコン崇敬を禁じる勅令を発し、以降、皇帝自らが聖像イコノ破壊クラスムの旗振り役となりました。


 そんな状況の東ローマ宮廷に嫁いだエイレーネーは、しかし、ギリシャ神話の神々を信仰していた時代から連綿れんめんと続く偶像崇拝の本場出身。

 夫レオーン四世により偶像崇拝を禁じられたエイレーネーでしたが、780年に夫が亡くなると、まだ幼い息子・コンスタンティノス六世の摂政となり、聖像崇拝を復活させます。


 しかし、この母子おやこは反りが合わず、コンスタンティノスが聖像イコノ破壊クラスム派と結びついたこともあって、どんどん対立が深まっていきます。

 790年頃には一旦コンスタンティノスが実権を握りますが、792年に行ったブルガリアへの遠征で醜態をさらしたことなどから、すっかり人望を失います。


 そして797年には、エイレーネーは宮廷内クーデターを起こしてコンスタンティノスを捕縛。我が子の目をくりぬいた上で追放してしまいます。


 この当時、東ローマ帝国には、身体的に欠損・欠陥のある者は皇帝になれないという不文律があり、失脚した皇帝や皇位継承権者の身体を棄損して追放するという例は他にも見られるのですが……、やはり、実の子に対してこれを行ったエイレーネーへの反発は大きく、同年8月にエイレーネーが自ら帝位にいても、国内のみならず、西側からも異議申し立てがされたのでした。


 800年にローマ教皇・レオ三世(750?~816)が、エイレーネーの帝位継承を否定。彼女に代わるローマ帝国皇帝として、カロリング朝フランク王国のカール(742~814)を帝位に就けます。

 これがいわゆるカール大帝。「シャルルマーニュ」という名でも知られる、初代神聖ローマ皇帝です。


 最初に「ローマ帝国が東西に分裂」と書きましたが、正確に言うと、この時点までは「帝都がコンスタンティノープルに遷都されて帝国の重心が東に移り、西方での影響力が低下」というような状況だったのです。それが、今回の件で完全に東西に分かたれてしまいます。

 つまり、エイレーネーは、大ローマ帝国の東西分裂を決定づけた女性ということになるわけです。


 エイレーネーは、カールと結婚することで地位を保とうと交渉を行い、カールも最初は乗り気だったのですが、エイレーネーが聖像イコノ破壊クラスム派に対する激しい弾圧によってさらに国内の支持を失ったことから、彼女を見限ります。


 802年、財務長官だったニケフォロス(760?~811)という人物がクーデターを起こし、エイレーネーを退位させて自ら帝位に就きます。

 エイレーネーはレスボス島に流され、翌803年8月9日にその生涯を閉じたのでした。


 エイレーネーに代わって皇帝となり、ニケフォロス朝の祖となったニケフォロス一世は、財務官僚としての経験を活かし、エイレーネーが無茶苦茶にした財政を立て直します。

 彼が敷いた税制は、同時代人からは「悪政」と忌み嫌われましたが、後世の歴史家からは、取るべきところからきちんと取る税制として高く評価されています。

 逆に言うと、エイレーネーが、取るべきところから取らず取りやすいところに負担をいる課税を行っていた、ということになるのですが。


 しかしながら、この暴君女王エイレーネーはなんと、聖像崇拝を復活させたという理由から、東方正教会では聖女に列せられているのです。

 確かに、正教会では現在でも聖画像イコンを信仰上の重要なアイテムとしており、彼女が果たした歴史上の役割は決して小さくはないのですが……。


 いわゆる「悪役令嬢もの」にはかたき役として似非エセ聖女が登場することも少なくありませんが、さすがに我が子の目をえぐるなんてのは見たことがありません。

 まさに、「史実は小説より奇なり」ですね(笑)。



 ということで、「暴君」な女王様を三名取り上げましたが、おいおい、女王で暴君と言えば有名な人がいるじゃないか、とお思いの方もいらっしゃることでしょう。

 ご安心(?)ください。次回で取り上げます。

 次回はイングランドの暴君女王、「血塗れブラッディメアリー」ことメアリー一世の登場です。乞うご期待!

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