聖域の召喚姫
陣野ケイ
第1話 子守りメイドの秘密
遠い遠い、はるか昔。
神が作った方舟の島、聖域グローディアの守り人を命じられた一族がいた。
動植物だけでなく、精霊などの人ならざるものとも心を通わす特別な一族。グローディアの民と呼ばれた彼らは、異界のものを招き絆を結ぶ【召喚魔法】の力を神から授かる。
グローディアの大地には異界と繋がる扉が刻まれ、民は人類史上初の召喚の儀式を
儀式の中心となったのは、まだ幼い一族の末娘。
彼女の喚ぶ声に応えたのは、黄金の鱗持つ
異界においては大海を統べる偉大な神であり、この世界においては原始の召喚獣。
一族の中で最も強い魔力を持ち【
召喚姫と黄金の海竜の伝説は、今も様々な形でこの世界の人々に語り継がれている。
知らぬ者は誰もいない。
けれど。
ふたりの「今」を知る者も——誰もいない。
◆
「——召喚姫と海竜のように、みなが仲良く暮らしていけたら。そう考えたグローディアの民は、ほかの人々にも【召喚魔法】の使い方を教えてあげました」
よく晴れた昼下がり。
木馬のシーソー、ドールハウスや数遊びの玩具やこぢんまりした白いテーブルと椅子。可愛らしくも質の良い調度品が並ぶ子ども部屋に、メイドの少女が絵本のページを
編み込んでまとめた長い髪は晴れた空によく似たブルーグレー。鮮やかな夕日色の瞳はぱっちりと大きく、十六歳という実年齢よりもあどけない印象をもたらしている。
上品な丈の長い黒のワンピースに白いエプロン。実にメイドらしいシンプルな出立ちの彼女は、不思議と人の目を惹く清浄無垢な空気を纏っていた。
「他の世界からきてくれた召喚獣を、人間たちは大切にしました。召喚獣も人間たちを好きになりました。そして、……」
優しくゆっくりと文字を読み上げていた声が、不意に妙なところで途切れてしまう。
「……リナノ?」
ぴったりとくっついて隣に座っている、フリルの多い愛らしいドレスを着たふわふわな栗毛の幼女。
心配そうに控えめに名を呼ばれ、子爵令嬢たる彼女の
「も……申し訳ありません、エイミーさま!」
「いいのよ。でも、リナノ。どうしたの? 考えごと?」
「……」
——また明日、改めてお迎えに上がります。
——色良いお返事を期待しておりますよ。ええ、まさか嫌とは
今朝がた聞いたばかりの抑揚のない使者の声が、もう一度リナノの頭をめぐる。
鼓動が早打ち、ずっと落ち着かない。
けれど仕事はしっかりこなさねばと。何より、七つになったばかりにしては賢いエイミーに不安を気取られてはならないと気を張っていたのに。
これではいけない。胸元に手を添え、リナノは心の中で己を叱責する。
「いいえ、エイミーさま。なんでもありませんよ。ただ……あんまり良いお天気なので、ボーッとしてしまって」
「……そうね。ほんとうにいいお天気だわ」
なんとか笑顔を
「このあとのお散歩が楽しみですね。本日も港のほうまでお連れしましょうか?」
「ええ! 港のそばにいろんなお店を増やしたってお父様が言ってらしたし、見てみたいわ!」
「それは楽しみですね! ……では早くお散歩に行けるように、続きをお読みしますね」
「お願い。今日は夕食のまえに魔法のおけいこもあるのよ。お散歩をたのしまなきゃやってられないの!」
少々お行儀悪く足をバタつかせるエイミーを微笑ましげに見やり、リナノは再び絵本へ目を落とした。
「……召喚獣たちの手助けで、世界はどんどん便利になりました。けれど、あるとき——悪しき心を持つ魔神が、異界からやってきてしまったのです。魔神は怖い魔物たちをたくさんこの世界に連れてきてしまいました。人々は恐怖に震えました」
「でも、はじめは海竜がやっつけてくれたのよね!」
絵本に齧り付くように、エイミーが身を乗り出した。
そもそもこの絵本は彼女のお気に入りであり、午後の日課である読み聞かせに三日に一度は選ばれている。なので当然、その内容もほぼ暗記しているに等しい。
目を輝かせて先の展開を語るエイミーに、リナノもつられて笑みが溢れた。
「はい。……まだ小さな召喚姫とグローディアの民、そしてこの世界の人々を守るために——海竜はひとりで魔神に立ち向かい、やっとのことで封じ込めました。だけど魔神との戦いでひどい傷を負った海竜は、海に沈んでしまったのです」
「かわいそう……」
今しがたキラキラしていた瞳があっという間に涙で潤む。
こうも豊かな反応を見れば、
「優しく強い海竜の心を継いで、召喚姫は大人になりました。神様は海竜が遺した鱗から七大神獣をおつくりになり、召喚獣として姫に与えました。そうして人々の中から勇者を見出して導き、封印から目覚めた魔神と戦ったのです」
「勇者さまと力をあわせて魔神をたおして、めでたしめでたし、ね! ……でも」
リナノがそうする前に、エイミーの小さな手が次のページを捲った。
そこには、花と共に棺に入れられて水底に眠る召喚姫が描かれている。
「召喚姫は海竜といっしょで、力をつかいはたして死んでしまったのよね……」
「そうですね。そしてもう二度と魔神のような敵が現れないようにと、神様は聖域グローディアを隠して、異界に繋がる扉を閉じてしまった……。そうして、【召喚魔法】はこの世界から失われてしまったんです」
「ざんねんよね。エイミーも召喚獣とくらしてみたかったわ」
掌を顔の前にかざし、心底残念そうに溜息をつくエイミー。
苦笑し、リナノは——無意識に、胸元に手を添えた。正しくはメイド服の下に隠している、首から下げたとあるものに。
そんな自分の行動に気付いたのと、先ほどの不安が不意に蘇ってきたのとは同時。
「さあ、絵本もおしまいです。お散歩に行きましょう!」
またエイミーを不審がらせてはいけない。
絵本を閉じ、切り替えようと努めて明るくリナノは言った。しかし——
「ねえリナノ。……結婚しちゃうの?」
——まったく誤魔化せてはいなかったという現実を、屋敷の外に出た途端に突きつけられてしまったが。
「えっ……」
咄嗟には返事できず立ち止まるリナノ。
見上げてくるエイミーの顔は実に不安そうで、しばし二人の間には沈黙が落ちた。馬車の音や通り過ぎる人々のお喋りなど、街の喧騒だけが響く。
やっとのことで「どうしてそれを」とリナノが呟けば、エイミーは罰が悪そうにスカートを握り締めた。
「朝、お客さまがいらしてたでしょ。お父様がリナノをよんだのが聞こえたから、こっそり……かくれて見てたの」
「……そうだったんですね」
「ごめんなさい、ぬすみぎきして」
しょんぼりと肩を落とすエイミーの前にしゃがみ込み、リナノは微笑んで首を振った。
レオガルド王国南部に位置する海沿いの領土を治める、モーガン子爵家。
リナノが住み込みで働くその屋敷に、遠い異国からの使者が訪れたのは今朝がたのこと。
この国ではあまり見慣れない褐色の肌をした細面の男は、自らをシャバハ王室に仕える魔導師だと名乗った。
シャバハといえば、大陸の砂漠地帯に古くからある国。
島国であるレオガルド王国からはあまりに遠く、リナノもせいぜい名前を知っているという程度だった。
それなのに。
『我が主たるシャバハ王家第十二王子が、先日お忍びでこの地に訪れた際にあなたを見初めたとのこと。ゆえに、こうしてお迎えに上がりました』
雇い主であるモーガン子爵に呼び出され、応接間へ向かったリナノ。入るなり使者にそう
見初めたも何も、リナノには何ひとつ覚えがない。
聞けば、日課の一つであるエイミーの散歩の付き添いで港にいたリナノを王子がたまたま遠くから見かけて一目惚れしたという話。
いちメイドの自分にそんなことがあるはずない。これはおかしい。まさか——メイド服の胸元を握り締めて戸惑うリナノとは対照的に、モーガン子爵はたいそう乗り気のご様子だった。
『でかしたぞリナノ。異国、そのうえ王位継承とは縁遠い第十二王子といえど、王族と繋がりができるのは我が家にとってあまりに大きい。身寄りのない住み込みメイドのお前にも、これ以上ない名誉な話だろう!』
そう意気揚々と肩を叩かれては、リナノも何も言えなかった。
二年前に母を亡くし天涯孤独になった平民の自分を、大事な一人娘の
使者はリナノにとっては途方もない額の支度金も持参済みのようで、この結婚がどんなに怪しい話だろうともはや逃げ道はなかった。
たとえリナノに、海から離れた砂漠のハレム宮殿に閉じ込められるわけにはいかない理由があったとしても。
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