運命/宿命/業~宮本輝著『流転の海』に寄せて
私(たち)は現在、宮本輝さんの大作『流転の海』シリーズ全9部を読書会で読み進めていて、つい先だって第5部『花の回廊』が読了できたところです。
ご参加くださっている方々が、12月26日(火)より、第1部『流転の海』についての「輪読会」を企画してくださり、第2章までを再読いたしました。ここで改めて気がついたことがありましたので、それを簡単にまとめてみようと思います。
本日(12月27日)読んだ第2章から引用します。
「それもまた宿命というもんじゃろうのお・・・」
熊吾は我が子に語りかけた。自分の口から出た宿命という言葉は、そのとき妙に底深い、黒々とした(※)魔物のように感じられたが、同時に、天から授かったとしか思えないこの伸仁という一粒種が、あるいは想像もつかぬほどの、光満ちた洋々たる宿命を帯びているやもしれぬではないかとも思えるのだった。(新潮文庫版 p.31)
※ここでの「黒」は左半分が「黒」で、右半分が「音」と表記。
もう一か所。
天は俺に子供をくれた。それには何か深い意味があるのだ。この人生に、偶然などありはしない。人間がかってに偶然だと片づけているだけだ。(新潮文庫版 p.42)
私は、この2か所の引用から、『流転の海』シリーズ全巻(もちろん、既読の第5部までですが)及び、『錦繍』などの他の宮本文学にも共通の思想性、あるいは「テーマ」を感じました。それは、あとで小林秀雄の『モオツァルト』で語っていると検索してわかった、「命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ。この思想は宗教的である。だが、空想的ではない」ということに通じるものを感じているのです(恥ずかしながら、小林の当該の文は未読なのですが)。
ここでは考える補助線として、さらに「運命」と「業」という言葉を対置し、「運命」「宿命」「業」の3つを並べて考えてみたいと思います。
まず、「運命」です。運命とは、例えば「運命に翻弄される」という使われ方に現れているように、自分の「外」にあり、「外」から運ばれてくるものとして使われることがあるように思います。先の引用に当てはめると、「偶然」に相当するのではないでしょうか。
その一方で、「宿命」とは「宿す」という字義が体現しているように、外というよりはむしろ、自分自身の「内側」「内奥」に宿すものという意味合いが強くなるように思います。
さらに、「業」という仏教用語には、自らの行いや思考等々が、いわば自身に蓄積されていくというイメージが付与されています。
つまり、運命→宿命→業の順で、偶然性よりは必然性の要素が濃くなると言えます。しかし、重要なのはここからです。宿命や業が、予め決まっていて「変えられない」ものとしてあるのではなく、自らによる色彩が濃くなることからむしろ、自らの「行い」により(ある宗派では、それを「一念」としている場合があります)「転換」し得ることが主張されています。
このことから、おおよそ次のようなことが言えるのだと思います。つまり、主人公である松坂家の熊吾・房江・伸仁の親子3人は、時として「運命」に翻弄されこそすれ、それに抗い、宿命あるいは業の転換に向けて、意識せずとも歩んでいる。そのことが、『流転の海』シリーズ全編を貫こうとしているモチーフの、少なくとも一つであると言えるのではないでしょうか。このことを「再認識」させられた今回の再読の機会を設けてくださったみなさんに、心から感謝したいと思うのです。
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