ある足跡~考える冒険

しょうじ

「ホンネ」はそんなに美しいのか?

 ある人気アナウンサーが、「本気」で「本音」を吐露したところ、炎上してしまった。果たしてアナウンサー氏は番組を降板することになり、それについて自分は被害者ででもあるかのような恥の上塗りの発言を繰り返した、というのが当時の概要であったと考えます。詳細は、別にわからずともよいでしょう。今回書いてみたいのは、「本音」として語ることは、そんなに美しいものなのかということです。それは「是非」ではなくて、「美醜」の問題であると私は思っています。

 ちょっと大げさな話をします。それは「近代社会」とは、「建て前=理念、理想」でもって構築されているということです。大事にされている価値、例えば「自由」であるとか「平等」であるとか、「民主的」であるとかがそれらの「建て前」に相当します。これらを一つ一つ吟味する力は私にはないので割愛させていただきますが、「それを否定してしまっては社会が成り立たなくなる」という価値というものは厳としてある、ということを、ここでは強調しておきたいと思います。

 アナウンサー氏の放った「本音」とは、これらの「理念」「価値」を、いわば否定するものです。「私は自由であるべきだが、その他は私に従うべきだ」というのは究極の「本音」でしょう。また、「私が満たされていないのは許されないが、その他が満たされるのはガマンならない」というのも一種の「本音」であると考えられます。往々にして、「本音」を語る者は「ただし、自分は特別な存在だから特例として除く」という言い方をしていることが多いのです。つまりは、本音至上主義というのは、単なるわがままであることと、そう変わらないのです。そこには、異なる他人と共に生きていくという視点が、見事なほどに欠落しています。

 私には、「人はなぜ社会を構成しながら生きているのか」という問いを、哲学や思想がその課題として答える必要があると思えます。私の直観としては、それは「幸福を追求するため」であると思われてなりません。自分独りでは、到達も達成もできない「幸福」というものを追求するために、人は他者とつながり合って生きていく。そのために、「理想」を掲げて生きていくのだと思っています。

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