婚約破棄後に好きだった人から求婚されましたが、もう手のひらの上で踊らされるのはごめんです

くる ひなた

第1話 諦めた恋の記憶

「──ヒンメル王国が王子ライン・ヒンメルは、アシェラ・ダールグレン公爵令嬢との婚約を破棄し、この聖女ナミを妃とすることをここに宣言する!」


 天窓から差し込んだ日の光に照らされる、ヒンメル大聖堂の祭壇の前。

 高らかに宣言した栗色の髪の男と、彼に肩を抱かれて頬を染める黒髪の乙女に、誰も彼もが呆気に取られていた。


「あのバカ、ついにやりやがった」


 私と同じ亜麻色の髪をかき上げつつ、曲がりなりにも一国の王子に対して不敬極まりないセリフを吐いたのは、十七歳になるダールグレン公爵家の跡取り息子ジャックだ。

 ただし彼に限らず、王子と聖女とやらの結婚宣言に祝福の声を上げる者は誰もいない。

 そんな中で私は──今まさに、あのライン王子から婚約破棄を言い渡されたアシェラ・ダールグレンは、足下がガラガラと崩れるような心地、ではなく──


「ジャック……私、今どんな顔をしている?」

「えー? 相変わらず、弟の僕でも見惚れるくらい、お美しいお顔をしていらっしゃいますよ? 少なくとも、どこの馬の骨とも知れない女に婚約者を奪われて絶望しているようには見えないですね!」

「そう……いっそ、真顔で小躍りでもしてやろうかしら」

「あはは、いいですねー! じゃあ、僕も一緒に踊りますよ! あのバカを義兄なんて呼ばずに済むことが決定したことを記念してね!」


 実のところ、これといった感慨も抱けずにいた。

 そんな私の代わりに三つ下の弟ジャックが、母譲りの温和な顔に笑みを乗せつつも、父に似た青い瞳で鋭く壇上を一瞥する。

 その眼差しに、物語の主人公にでもなったつもりで悦に入っているラインは気づかないが、彼の貧相な腕一本に縋って舞台に立っているナミはビクリと身を竦めた。

 そんな彼女の様子さえ目に入っていないラインは、日の光に照らされて輝く自分に陶酔しながら言い放つ。

 

「──見よ、この神々しい光景を! ヒンメルの神が、僕達を祝福してくれているに違いない!」


 あいにく、晴れた日のこの時間に祭壇に光が差すのは、ただ単に大聖堂がそのように設計されているからであって、奇跡的な光景でも何でもない。

 あの場所には、たとえ私が立とうと、ジャックが立とうと、祭壇の向こうからこっそり顔を覗かせてる薄汚れた野ネズミが立とうと、ペカーッとそれはもう神々しく照らしてもらえるのだ。

 居合わせた者の大半は大聖堂に仕える司祭であるため、当然その事実も把握していた。

 だから、声に出さずとも……


「何言ってんだ、あいつ」

「ジャック、あんなのでも一応王子よ。指を差すのはおよしなさい」


 ジャックは声に出したが、全員がそう思っていた。

 何言ってんだ、あいつ。

 元はと言えば、異世界から来たなどと主張するナミを、大した根拠もなく聖女だと言いふらしたのは大聖堂である。

 それなのに、彼女の後見人となっている大司祭でさえも与り知らぬ展開なのか、今にも倒れそうな真っ青な顔になっていた。



 ヒンメル王国は、大国に囲まれた小さな国だ。

 嘘か誠か、王家の始祖は野ネズミの姿をした悪魔と知恵比べをして、この地を勝ち取ったという。

 台地の中心部にあり、その丘の上に王城を守るように町が築かれている。

 郊外には麦畑の他にも野菜や果物の畑が広がっており、特にブドウの栽培に秀で、上質のワインの産地としても知られている。

 また、初代国王が学者であったことから、早くから教育制度が整えられ、国民の識字率は大陸随一を誇る。

 そんなヒンメル王国にあって最も高度な教育が受けられるのが、双頭のごとく王城に並び立つ王立学校だ。

 広く門戸を開き、周辺諸国より王侯貴族の子女の留学を積極的に受け入れてきた。

 私とジャックの父であるダールグレン公爵は長年その学長を務めており、多くの教え子達からも父のように慕われている。

 しかし、そんな人徳者に対し、ヒンメル大聖堂はここ数年不満を抱いていた。

 彼が、かつては必修科目であったヒンメル聖教の授業を、選択自由科目に変更したためである。

 大陸の国の大半は多神教を信仰しており、それぞれに土着の神がいる。

 にもかかわらず、多くの留学生を受け入れる王立学校においてヒンメルの神を崇めるよう強制することは、あまりにも多様性に欠けると判断したからだ。

 私と婚約していたライン王子は現ヒンメル国王の第一子。

 大聖堂は、私が将来王妃となってダールグレン公爵家の発言力がさらに強まることを恐れていた。

 そのため、摩訶不思議な現れ方をしたナミを聖女に仕立て上げることによって、大聖堂の権威を高めようと考えたのだ。


「聖女、ねえ……。異世界から来たのかどうだか知りませんが、あのナミって女、四年経った今でもまだヒンメル聖教の経典さえ読めないそうですよ。僕や姉上なんて、三歳で全暗記させられましたのにね?」

「きっと興味がないのでしょうね。こちらに来た当初、知識がなければ不便だろうと王立学校で学ぶよう父様が勧めたというのに、勉強が嫌いだからと言って断ったそうよ」

「それで王子の妻になろうなんて、片腹痛いですね。殿下が不出来な分、姉上がヒンメルの面子を保とうと常に首位の成績を収めていたのも知らないで」

「私、負けず嫌いですもの。けれど、全て首位を取れていたわけではないのよ?」


 ジャックの言葉に肩を竦めつつ、私は過去に思いを馳せた。



 ヒンメル王立学校に受け入れられるのは満十歳になってからだ。

 留学生達はそれまで自国で基礎学習を終え、満を持して入学してくる。

 そうして、一年生前期の終わり──私は生まれて初めて、敗北を経験することになった。


「……二位」


 入学して最初の試験において、不覚にも首位を逃してしまったのだ。

 王立学校では試験の度、各学年の成績優秀者上位二十名の名前と点数が張り出される。

 そんな順位表を前に、私はこの時、しばし固まって動けなくなった。

 だって、まったくもって予想外の出来事だったのである。

 何なら、今回はいつもよりもよくできた、くらいに思っていたのだ。

 しかし、首位の者は全教科満点で、私との点数差は五点だった。


「何がいけなかった? 何が足りなかったの? ──くやしい」


 その日は、どうやって屋敷に戻ったのかも覚えていない。

 ラインに何やら鼻で笑われたが、順位表に名前が載りさえしていない彼にどうしてバカにされたのかはまったくもって意味がわからなかった。

 とにかく、首位を取れなかったことが悔しくて悔しくて、ジャックに当たり散らし、それを父に叱られ、母や乳母の胸で散々泣き喚いてようやく、自分に慢心や驕りがあったと認めた。

 私は、井の中の蛙であったことを思い知ったのだ。

 それと同時に、自分を負かした相手に強い興味を抱くようになった。


「──ロッツ・フェルデンさん、あなたの勉強の仕方を盗み見ようかと思ったけれど、こそこそするのは性に合わないから堂々と拝見してもいいかしら?」

「ロッツって呼んでよ。僕も、アシェラって呼んでいい? ええっとね、僕もコソコソされるより、堂々と見られる方がいいかな」


 相手は、隣国ヴィンセント王国の名門フェルデン公爵家の一人息子ロッツ。

 さらさらのブロンドの髪と菫色の瞳をした、びっくりするくらい可愛い子だった。

 いきなり声をかけてきた私に驚いたようだったが、すぐにはにかんで受け入れてくれた。

 父親同士がかつてヒンメル王立学校で机を並べた仲だったこともあり、彼とはこれをきっかけに意気投合。

 ロッツの幼馴染でもあり、こちらも父親同士が仲のよかったヴィンセント王国の王子ウル、北の大国ヴォルフ帝国の皇子マチアス、さらにヴィンセント王国とは反対側でヒンメル王国と国境を接するアーレン皇国の皇女スピカも加わり、私達五人は卒業まで行動をともにするようになった。


「アシェラとラインって、許嫁なんだよね? 一緒にいるところを、あまり見かけないけど……」


 私とロッツがともに満点首位を取った、ある年の前期成績発表の日のこと。

 遠慮がちに私に話題を振ったのはマチアスだ。

 燻んだ赤毛と純朴そうな顔つきで、鮮烈な姉の陰に埋もれてしまうような印象の薄い皇子だったが、勤勉で努力家な彼も毎回成績順位表に載っていた。

 おずおずと問う相手に、私は小さく肩を竦めて返す。


「私達が生まれてすぐに、祖父同士が決めたのよ。でも、ラインは乗り気じゃないみたい」

「はあ? あいつ、何様!? っていうか、ラインなんかにアシェラはもったいないよー! いつも校庭で会う野ネズミの神様もそう言ってる!」


 私を横からぎゅうと抱き締めて言い募るのは、健康的な小麦色の肌と美しい銀髪の皇女スピカだ。

 アーレン皇国の末っ子で、七人いる兄は全員腹違いだが仲は悪くないらしい。

 母方は高名な呪術師の一族らしく、その血を濃く受け継いだスピカは、嘘か実か動物の言葉がわかるという。

 野ネズミは、ヒンメル王国の言い伝えの中では悪魔だが、彼女は神様だと言って譲らなかった。


「ラインとの婚約なんてさっさと解消してさ、アーレンにお嫁においでよ! うちの兄達の方がずーっとカッコイイんだから! アシェラを義姉様って呼びたい!」

「ふふ……ありがとう、スピカ。あなたが義妹になるなんて、とっても素敵なことだけれど……でも、王家との婚約だもの。ダールグレン公爵家から解消を申し出るのは難しいわ」

「──じゃあ、俺がラインから奪ってやろうか?」


 にやりと笑って横から口を挟んできたのは、黒髪と灰色の瞳をしたウルだ。

 成績ではさほど目立たないものの、ヒンメルの騎士団に混じって鍛錬を積み武芸に秀でている。

 何より、周囲を惹きつけ従わせる天賦の才能を持っており、学年のみならず王立学校中の注目を集めるような存在だった。

 ヒンメル王国のわずか三歳の王女まで彼に首っ丈らしい。

 とにかく、女子の間でもすさまじい人気で、入学以来恋人が途切れたことがない。現在のお相手は確か三つ年上の、アーレン皇国の公爵令嬢だ。

 そんな男の申し出に、私は胡乱な視線を返した。


「ウルと結婚なんかしてみなさいな。きっと、三日で離婚よ」

「はは、三日保つかどうかも怪しいな?」


 私もウルも譲らない性格なので、下手に夫婦になどなったら意見がぶつかり合って喧嘩ばかりの日々だろう。何より、彼と家庭を築くなんてこと、全然想像できない。

 彼の方も同じ意見のようで、アシェラとベッドになんか入ったら寝首をかかれそう、なんて随分と失礼なことを呟いた。


「で? さっきから俺の足を踏みつけているお前は、何か言うことはないのか? ──ロッツ」


 その失礼な男の左足を思い切り踏みつけてやると、どうやらすでに右足を踏んでいた者があったらしい。

 両足の甲に大きさ違いの靴跡を刻まれて情けない顔をするウル越しに、私は同志に目を向けた。

 すると、綺麗な菫色の瞳がこちらを見つめ返してきたかと思ったら、ゆっくりとその口が開き──


「僕はね、アシェラが決めたことに口出しをしないよ」


 私は、がっかりした。


「でも、幸せになってほしいと思う。大切なひとだから」

「そう……ありがとう」


 この時、私達は三年生になっていた。

 お人形さんのように愛らしかったロッツに、身長を抜かされたと気づいたのはつい先日のことだ。

 年齢にして十三歳。入学した時よりも大人びた私は、もう自覚していた。

 彼に──ロッツに、恋をしていることに。

 フェルデン公爵家は、代々ヴィンセント王国の宰相を務めてきた。

 そのため、現フェルデン公爵のたった一人の子供であるロッツにも、期待と責任が重くのしかかっている。いずれヴィンセント国王となるウルを支えるのも彼だろう。

 ウルは強くて魅力的な男だが、情に脆くて奔放だ。彼の代わりに冷酷な決断を下し舵を取ることを、きっとロッツは求められる。

 私もそうだ。

 ラインが次のヒンメル国王となるならば、明らかに力不足の彼を支えるのは私の役目。

 しかし、私も、ロッツも、天才ではない。

 ともに血の滲むような努力をした上で、毎回首位争いをしているのだ。

 ロッツの痛みが、私にはわかる。

 私の痛みも、きっと彼が知っているだろう。

 切磋琢磨し合える彼の存在が尊かった。

 負ければ悔しいが、しかし素直に賞賛の気持ちが湧くこの関係が愛おしい。

 ロッツもまた、私の努力を認め、一人の人間として尊重してくれているのがひしひしと伝わってくる。

 だから──


「──ちょっと成績がいいからって、調子に乗るなよ!」


 人生をともに歩むことを定められてしまった相手から、こんな風に努力も志も踏み躙られてしまうと、私は何もかもが虚しくなってしまう。

 成績表が張り出された日の放課後、ラインは決まって私を王宮の自室に呼びつけた。

 そうして、成績の振るわない自分をばかにしている、と根も葉もないことを言って詰るのだ。

 部屋には私達二人だけ。彼の理不尽な発言を諌める者はいない。


「ちょっとはさぁ、僕に花を持たそうとか考えつかないわけ!?」


 ラインは思慮に欠ける言動が多いが、よほどのことでもない限りダールグレン公爵家から婚約解消を申し出るのは難しいということだけは理解していた。

 だから、少しくらい暴言を吐きつけたって、私が自分から離れられないと思っているのだろう。それがまた、彼を苛立たせているのかもしれない。

 ともかく、私も反論するだけ無駄だと知っているから、毎回黙って彼の話を聞き流してきたが……


「本当に、アシェラは可愛くないなっ! 僕に捨てられたら、君なんて誰にも見向きされないくせにっ!」


 この時は、我慢ができなかった。

 ここに来る少し前に、偶然見てしまったからだ。

 校舎の陰で、キスをする二人の姿を。

 才色兼備と評判の五年生の公爵令嬢と──ロッツだった。

 それは、私の初恋が静かに幕を閉じた瞬間だった。

 脳裏に焼き付いたその光景を振り払うように、私は一度ぎゅっときつく瞼を閉じる。

 そうして、再び開いた両目でラインを見据えた。


「な、何だよ……」


 とたんに、ビクリと慄いた情けない許嫁に対し、にっこりと微笑む。

 小さく首を傾げて、私は言い放った。

 

「私が可愛くしていれば──あなたの成績が、少しは伸びるのですか?」

「なっ、なな、何だと……っ!?」


 カッと顔を赤くしたラインが衝動的に右手を振り上げる。

 浅はかな相手に、私はいっそほくそ笑んだ。

 パンッと乾いた音が響き、扉の向こうで聞き耳でも立てていたのか、侍従が血相を変えて飛び込んでくる。

 私が誰かにぶたれたのは、あれが最初で最後だった。

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