新生児から。


 学校からの帰り道。

 狭い歩道を歩いていると、目の前から買いもの帰りのようで、両手に白い買いもの袋を提げた主婦が近づいてきていた。

 このまま直進すればぶつかってしまうだろう……、なんだこいつ、と思った束の間、激しい頭痛に襲われた――


「ぃぎ……っ!?」


 片目をぎゅっと瞑ってなんとか痛みに堪え、横にずれる……そうか、忘れていた、歩道も歩く側が決まっているのだった……右、だったのだ――当然、頭痛に苦しんでいる僕が悪い。

 主婦の人はこうなることが分かっていたように、減速することなく僕とすれ違っていく――横目で睨み、僕を非難していたかもしれないが、痛みに堪える僕に、それを確認する余裕はなかった…………ふう、やっと、頭痛が落ち着いてきた……。


 ふらふらとした足取りだけど、ガードレールに手をついて体を支える。消えかかっていた痛みを、空いた片手の指でこめかみをぐっと押して誤魔化す。

 そんなことをしている内に、痛みは引いていた……、助かった……。絶妙な痛みである。


 がまんできない痛みだったけど、倒れたり、うずくまったりして人に心配をかけるほどではない……、絶妙な匙加減、なのは当然だ。

 僕の内側から、その『痛み』の度合いを調べて、その痛みを与えているのだから。


「――はぁ、はぁ……、ルールを、守れば、痛みは引くけど……日常生活のあらゆる場面で細かいルールが決められているから、覚えられないよ……」


 まあ、覚えられないような膨大なそれを、脳に埋め込んだ肉眼では見えない『チップ』で管理し、覚えさせているのだけど……。

 確かに、口で言うより痛みを与えた方が覚えやすいけど……、実際、最初は覚えられないと思っていたことも、今では覚えられている。

 気を抜くと忘れてしまい、今のようになるけれど、痛みで思い出すなら、やはり痛みは必須なのだ――だけどいちいち頭痛に苦しめられていたら身が持たないよ……。


 正直なお願いだけど、もう少し頭痛の度合いを抑えてくれるとありがたい、けど……それだと意味がないのだろう。

 人によって、痛いと思う度合は変わってくる。だから人によって変わる基準から判断し、痛過ぎず、だけどがまんできる痛みよりは上になるように調整されている。

 だからこの頭痛で病院に駆け込んだ人はいない……、いるとすれば、マナーではなく、犯罪という一線を越えた、罪を犯した者だろう。


 大罪を犯せば、今の頭痛の比じゃないくらいの痛みがやってくる……、その上で、動けない隙に警察が飛んでくる。あっという間に捕まってしまうのだ。


 だから、警察でも裁けない小さな罪、とも言えないマナー違反……、他人への迷惑――そう、たとえばこういう狭い歩道で並んで歩き、背後からの追い抜き、前方からのすれ違いを邪魔する人や、横断禁止の場所を、交通量がないからと言って横断する横着な人……、自転車に乗る時にヘルメットを装着しない危機管理能力が皆無の人――。

 以前だったら黙認されていた、破っても問題はないでしょ? と言わんばかりの暗黙のルールを破った者には、頭痛という形で罰が与えられる……、これは警告なのかな? いや、痛みがあるから罰なのか。


 だから、よく見れば町中では、あっちもこっちも頭に手を添えている人ばかりだった。無意識に破ってしまうルールに罰を与え始めると、頻繁に罰を喰らうことになってしまう……それだけ、自分は小さな違反をしていたのだと再確認することになるのだ。


 脳内のチップが小さなものから大きいものまで、罪への抑止力となっている……、だけど例外はもちろんいるのだ――高齢者。


 一応、チップを脳内に入れることは義務付けされているものの、持病のせいで手術ができない高齢者もいるのだ。

 生活必需品となっているチップが脳内にないということは、高齢者は、小さなルールは破っても罰はない、ということである――警察が飛んでくるような犯罪はもちろん、高齢者であろうと手錠はかけられてしまうけど……。


 二十年以上前に導入された、新生児の脳内にチップを埋め込む施策――、次第に新生児以外にもチップを埋め込むことに成功したけど……、やっぱり技術ではなく感情によって、高齢者を網羅することはできていないらしい……。


 だから今のところ、高齢者だけなのだ――日常生活で邪魔になっているのは。


 老い先短いとは言え、それを理由にして野放しにするわけにもいかないだろうし……。


 気持ちは、分からないわけじゃない……、僕は物心ついた時から既にチップが脳内にあったから、違和感はないけど、母さんは多少の抵抗があったようだ……。技術の進歩で手術は痛みもなく安心安全だったから、踏み切ったようだけど……やっぱり高齢者からすれば怖いのだろう。


 強い嫌悪感があるのかも。


 脳内に異物を埋め込む、というのは、詳しく知らない人間からすれば恐怖だろうし、たとえ自分以外が当たり前のようにしていることでも、長く生きた人からすれば、周りと違うことに不安を覚えるものでもない……、老い先短いならこのままでいい、と判断してもおかしくはない。


 既にされている、のと、これからするのでは、勇気も必要だ――僕だって、今から体内に異物を入れます、義務です、と言われても、抵抗感はあるし……。


 生物的な嫌悪感はあるかもしれない……でも、当然、メリットはあるのだ。


 チップは脳に埋め込んでおり、体の全てを管理している……それは異変も、だ。なので癌の早期発見が可能になった。

 病気……、感染症のウイルスを、入った瞬間に見つけて滅菌してくれる……病気にならない、という最大のメリットがあるのだ(免疫ができないのでは? と思うけど、そもそもチップが免疫なのでは? とも言える)。


 体調不良も治してくれる……、カラクリを言ってしまえば、痛みや苦痛を誤魔化し、その隙に治しているから、症状がまったくないわけではないのだけど……、それを感じなければ発症していないのと同じだろう。


 チップによるメリットばかりで――、言ってしまえば、メリットしかないのだ。

 罪にはならない小さなマナー違反への罰は、デメリットと言えるかもしれないけど、そんなもの、違反をしなければいいだけの話である。


 ルールさえ守っていればデメリットはなく、メリットだけが残ってくれる――そして、今やチップはスマホの代わりであり、端末を持つ時代は終わった――『異世界もの』のアニメのように、自分にしか見えない『ステータス・ウィンドウ』のような画面が表示されており、指を宙に向けることで、タッチを認識、アプリを起動、操作できるという社会になっている。


 手ぶらで完結する社会――、未だに端末を持っているのはレトロを好む層か、チップを持たない、マナー違反をしたい層か、だ。



 ……脳に直接を指示を出して痛みを誤認させているから……、感じる痛みは本物ではないけれど、でもプラシーボ効果もあるからなあ……。敏感な人だと、誤認させられた痛みで外傷ができてしまうこともある。まあ、すぐに治るけど……でもやっぱり怖い現象だ……。


 ルールを守りながら帰路を辿り――家へ着く。

 ふう、あれから頭痛もなく無事に帰ってこれた……大変そうに見えるけど、意外とそうでもない。気を抜かなければ、普通のことを普通にしていれば罰なんて落ちないのだ――当然ながら。


 配信されているバラエティを視界の右端に、小さな窓にして置いておく。音は脳内に響くが、人との会話はもちろんできる……、なら、授業中に映画が見れるのでは? と企む生徒は多いけど、当然だけどそれは頭痛案件である。できるわけがなかった。

 学校では勉強をしなさい、とチップに促されている……、でも授業についていけなくなると、違う意味で頭が痛くなるけど……。そういう時は勉強をメインに扱う配信者の動画を見て――、そしてこれに関しては授業中でも再生できるのだ。抜け穴はここにあった……?


 試行錯誤はまだまだできそうだ。



 バラエティを見ながらシャワーに入り、汗を流す。

 体を綺麗にして、自室に戻っている内に、バラエティが終わってそのまま次の番組が再生されていた……、バラエティ寄りのニュース番組だ。いつもは明るい雰囲気だけど、今日はちょっとシリアスな空気だった……重い内容を扱っているのだろうか。


 チップのおかげで、町の治安も良くなり犯罪も減っているのだが、それでも0ではない――高齢者だけはまだ管理できていないのだ。


「酒で酔って夜中に騒ぐ若者はいない、交通事故だって、起きる方が珍しい――チップで道路状況と車の操作が噛み合っているから、異変に気付いてブレーキを踏むよりも早く車が止まっているおかげだからだけど――、だから高齢者ドライバーの事故は未だになくならないんだよなあ……。というかそれしか事故って起きていないんじゃないかな……、ブレーキの踏み間違い……、チップさえ脳内に埋め込んでいれば、防げたかもしれないのに――」


 視界の端の動画では、高齢者ドライバーの問題を取り上げている。……免許を取り上げるべきだ、なんて議論しているけど、車が必須の田舎に住んでいる老人からすれば、死活問題なのだろう……、だからなかなか、免許を手離せない……。


 自動運転の車がもっと普及すればいいのに……チップでどうにかできない?


 まあ、素人意見なんてこんなものだ。


 他にも……痴漢、盗撮、スリもなくなった……いや、これらは犯罪なんだけど、計画性がない突発的な犯罪もある――チップはそれをも見破れる。


 悪意のない万引き(セルフレジによる支払い忘れなど)は見逃されてしまうけど、悪意がない、という部分が、人の目ではかなり難しい……。人を相手にするなら抜け穴として充分だが、チップを相手にするとなると、抜け穴ではなく、そこは袋小路なのだ。


 チップに抗うことはできないようになっている……、悪意があればその瞬間に背信行為となり、罰の対象となる。

 ゆえに、僕たち(新生児は当然ながら)は、日常生活の中で罪は犯せないし、国に逆らうこともできない――。


 いずれは。



「国への非難も、反発も、ボイコットやデモもできなくなる……、国の言いなりになるという選択肢しか見えなくなって――チップによる国民の支配が当たり前になるのかなあ……」



 だから。


 その時は頼みますよ、高齢者――、しかし、老い先短いという点が、ネックだけど。



「……新生児にチップを付けないまま育てる方法も……たとえば野外で出産して、独学と闇医者を利用してチップの支配から逃れる次世代の子供を増やしていけば――あ痛っ!?」



 頭痛がやってくる。


 天罰だった――、

 神よりも低い場所で、最も身近なところにいるチップには、全て筒抜けなのだった。




 …了

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