第24話 ある夜のこと

 随分と寒さが身に染みるころだった。その日も、なっちゃんさんはバイトで夜遅く帰って来た。僕は研究の原稿を書いていて、起きていた。日をまたごうがパソコンに向かう、そんな日々が続いていた。

 なっちゃんさんはいつもの格好の上にジャンパーを羽織ったまま居間に入って来た。

「お茶漬けでも食べますか?」

 夕食はいらないと言われていた。久しぶりに一人で夕食を食べた。ほんの十分もかからずに食べ終えたせいか、なにか味気ない気がした。炊いたご飯の残りをラップに包んであった。寝る前に冷凍庫に入れようと台所に置きっぱなしにしてあった。

「気、使わなくていい」

 ジャンパーを脱ぎながら簡素に答え、なっちゃんさんは座った。

「使ってないですよ。僕も夜食なんでついで、っていうと失礼ですけど」

 キッチンの中から僕はもう茶碗の用意をしていた。

「なら、梅干し乗っけて」

「了解」

 数分で準備を整え、居間の丸テーブルに置いた。

「どうぞ、熱いですよ」

 なっちゃんさんは箸を手にして、小丼を持ち上げると、

「ほうじ茶なんだ」

 お茶漬けから僕の顔を見た。丸メガネの中の眼が柔らかだった。

「緑茶の方が良かったですか、それともだし汁? 嫌だったら替えますけど」

「ううん、懐かしい。これでいい」

 僕の実家ではお茶漬けと言えば、ほうじ茶をかけるものだった。市販のお茶漬けの素にはお茶が粉末になって混ざっているから、お湯をかければいいのだけれど、もう幼少からの習慣は骨身にしみついており、しっくりくる。それになんだか緑茶の気分ではなかったから、ほうじ茶をかけたのだけれど、なっちゃんさんが懐かしいと言うとは思いもしなかった。なっちゃんさん宅でもそうだったのだろうか。

 さらさらと簡単な夜食を終え、僕が茶碗を洗っている間に、なっちゃんさんは入浴に向かった。やけに早く居間に戻って来ると思えば、シャワーで済ませたそうである。

「何にします、今晩は」

 当然、晩酌のことだ。

「だから気を使わなくていい」

「いや、疲れたんで、ちょっと一杯のつもりで、ビールでも飲もうかと」

「なら、私も」

 五〇〇ミリ缶を二人で分けた。なっちゃんさんはやはりかちわり氷を入れたロックグラスを持って来て、そこにビールを注いだ。相変わらず、僕がプレゼントしたグラスは使ってもらってない。

それで癒されるというわけではないのだが、長い息が出た。力が抜けた。原稿もまあまあ進んでいると言えば進んでいる。大幅に遅れているわけではないから良しとしておこう。

 なっちゃんさんはビールを終えると、ロックグラスにそば焼酎を注いだ。

「君は、どうする?」

「僕はビールのままで」

「そう」

 一口、二口と口をつけてから、なっちゃんさんは丸メガネをはずした。僕にはこれまで分からなかったが、最近視力が悪くなってきたようで、ぼやけた視界というのがとても不安な心持にさせると知った。メガネはその不安を拭ってくれる。視野は明瞭になる。けれども、やはり窮屈な感じもする。フレームに囲われた部分だけがクリアに見える限定された世界。狭められている感じ。酔い始めると、そう酔い始めたからその窮屈さから放たれていたいと思うのだろう。

 なっちゃんさんはよく飲む。アルコールに強いかといえば、おそらくそうでもないだろう。ゼミの飲み会でざると下戸を見比べられているから、なっちゃんさんが上戸でないのは分かる。現にすぐに頬が赤くなる。ロックなら五、六杯が一晩のマックスだ。確かにそこで止めているからでもあるが。そのなっちゃんさんは昼から飲む時はロックではない。ビールとかハイボールとか、チューハイとか。バイトで夜帰って来た時に限ってロックを飲む。さっきみたいにビールでも氷を入れるのだ。そういえば、中秋の名月の時も、日本酒をロックで飲んでいた。クリスマス・イブの晩には赤ワインをロックだったし。クリスマスは昼から普通のワインを飲んでたし。その辺は、なっちゃんさんの美学とか矜持とかいったものがあるのかもしれないが、僕があえて訊くようなことでもない。僕はロックをあまり得意としてなかったからだ。この晩の焼酎なら、せいぜいお湯割りか水割りだった。だから、飲む人の飲むこだわりに興味本位で立ち入るのは失礼なのかもしれないと思っていたのだ。

「なんかDVDでも見ますか?」

 なっちゃんさんは居間のどこを見るともなしに、グラスを口にしていた。僕も雑誌を見るとかしてなかったので、おもむろに言ってみたのだが、

「テレビをつけるのはちょっと。ラジオつけていい?」

 僕はどちらでも構わなかった。居間には大家さんが使っていた年代物のラジカセがある。そのスイッチを入れる。ちょうど日が変わる時間だったようだ。エフエムの「ジェットストリーム」が始まるタイミングだった。落ち着いたナレーションを聞きながら飲む。これはなんか乙な気がしてきた。一曲目、ビリージョエルの「Honesty」。二曲目、ダニエル・パウターの「Bad Day」。

「一曲目と二曲目、逆の方が良かったかも」

 僕がなんとなくそう言うと、

「そうかもね」

 なっちゃんさんはにっこりと目を閉じた。

 三曲目。

「あ、これって、なっちゃんさんが時々」

 イーグルスの「Desperado」。なっちゃんさんは時々この曲を歌う。高らかにではない。鼻歌だったり、サビだけをこそっと歌ったりをけっこう聞いたことがあった。

「よく覚えてるね」

 なっちゃんさんはどこか恥ずかしそうだったけれど。いつだったかは気持ちよく歌っていたから邪魔するのも悪いと思って入浴に動いた。戻って来たらすでにグラスの氷はすでに融けていて、焼酎の瓶の蓋は開いたままになっていた。なっちゃんさんはあのまま寝入ったようで、居間で横になってしまっていた。時間が時間だけに起こすのも悪いと思って、毛布を掛けておいた。他にもトイレから戻ってくる途中の廊下や、庭で昼から飲んでいた時や、あの時や、そうあんな時も。

「なんか、いい曲ですね?」

 口に運ぶロックグラスが止まった。

「どこが?」

 ぶっきらぼうではなかったが、僕の感想に気を損ねたのか、さっきまでの柔和な感じとは違っていた。

「すいません。変なこと言って。歌の意味とかよく分かんないんですけど、なんか郷愁っていうか、いや違うな。言いたい思いを唄えてるって感じがして、……なっちゃんさん?」

 グラスを口にして空にしたそれを持ったまま、なっちゃんさんが目を丸くしていた。それから

「そう、かな。そう聞こえるのなら、私は嬉しい」

 グラスにそば焼酎を注いだ。シングルの量ではない。ダブル、いやそれよりも多く注いだ。ラジオからは次々と聞こえてくる。サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」、プラターズの「煙が目にしみる」。なんだかムーディな選曲だな。バーとかだったらもっと雰囲気あったろうが、和風建築の居間でも十分なリラックスタイム。

「君と飲むのは楽しい」

 ふいになっちゃんさんはそんなことをつぶやいた。僕は飲み会で騒いだり盛り上げたり、そんな手段というか手持ちのネタを持っているわけではない。内山や下野はその辺にそつがない。説教臭くなるとか、泣き上戸になるとかもない。だから、強いて何かしたわけではない。

「空気感っていうかな。無理して話しをしなくていい。ううん、しゃべると言葉がその空気を邪魔するみたいに感じる。私はさ、飲むってのは一人でいることなんだよ。君とはさ、二人でいるのに一人で飲んでるのと同じ感じで、一人じゃなくってやっぱり違っていて、けれどこの時間は心地いい。だから、君と飲むのは楽しい」

 珍しく饒舌だった。それほど飲んではいないのに。

そう言えばこんなこともあった。その時もなっちゃんさんは「Desperado」をさえずりのように口にしながら飲んでいて、僕は気を持って行かれたように聞き入っていた。

「邪魔なら部屋に戻るけど」

 翌日の朝ご飯と弁当の下ごしらえの手が止まったのを見止めたのか、なっちゃんさんは歌うのを止めた。

「いいですよ、ゆっくり飲んでてください。なっちゃんさん、その曲」

 僕はそれ以上言えなかった。「好きなんですか?」なんてのは失礼と言うか、間を持たせているだけというか、それより質問自体が不自然なことだと思った。好きだから聞くってこともないだろうし、気晴らしというか。好きって言葉は便利で、あいまいで、残酷だと思ったのは、好物のほうれん草入りの卵焼きを詰めようと手を再び動かし始めたせいかもしれない。いくら好物と言っても食い過ぎれば腹が痛くなる。

「この歌、歌いながらね、その日あったこと、自分がしたことを反芻している、だけかな」

 なっちゃんさん自身も要領を得ていない様子だった。それにしても、

「だけ?」

 僕が気になった文末を思わず尋ねる口調になってしまっていた。

「そう、楽しかったとか、つらかったとか、こうしておけばよかったとかは思わないで。ただ自分の生きた時間をもう一度辿ってみるの」

 なんとなくこの曲調はなっちゃんさんの言う趨勢にマッチしているような気がした。

 僕となっちゃんさんの小さな飲み会が終わったのは、「ジェットストリーム」がクロージングのナレーションを始めた頃。なっちゃんさんは始終にこにこしてご機嫌な様子だった。

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