第4話 帰宅すると、なっちゃんさんが飲んでいた
二十二時半を過ぎていた。家に戻った。帰宅のあいさつは時間が時間だけに小声にしておいた。内山は千鳥足というか、おぼつかない足取りというか、それこそ幽霊級に心ここにあらずなステップで帰宅して行った。
ここは僕の自宅ではない。親類の家が下宿を営んでいて、大学への通学の利便性で僕はそこにお世話になっている。とはいえ、単たる店子ではない。この家の大家である親類の調子があまり良くないと言うので、僕がその補助として家に入るのは、僕の両親だけでなく親類・縁者にとっても安心だということで、僕は下宿生でありながら大家もどきの大学生というわけだ。とはいうものの、今年になって入居者は僕と、
「おかえり」
居間にいた、なっちゃんさんだけになった。大家さんは、検査入院とか湯治とかを理由にしょっちゅう家を空けていた。大家業務はもはや僕に丸投げされていたのである。
ロックグラスを置くなっちゃんさんに、
「ただいま」
とだけ言って隣のキッチンに入った。さっきの逸脱した平常がそうやすやすと忘れるわけはなく、なっちゃんさんにそんな与太話を聞かせるわけにもいかない。冷蔵庫を開いたが、牛乳しか飲み物がなかった。熱いお茶の気分でもない。仕方なしに、蛇口をひねりグラスに水を注いだ。飲み干した。足りなかった。ぬるかったせいかもしれない、いやそれを言い訳にしよう。もう一杯飲んだ。何か物足りない気がしたが、その何かを考えようとすると、さっきまでの興奮が戻ってきそうになったので、風呂に入ることにした。頭を掻きながら居間を出ていく僕をたぶん、なっちゃんさんは不思議そうに見ていただろう。
十数分して居間に戻ると、なっちゃんさんはまだ飲んでいた。もう何杯目になるのかは知れないが、ロックグラスにはガチ割氷が麦焼酎に溶かされていた。丸い眼鏡をテーブルの上に置いている点から見ると、三杯以上は確実だ。女性雑誌が体から斜めに開かれており、なっちゃんさんはとろんとしたまなざしでページを眺めていた。どこか落ち着きのないような、そんな雰囲気さえ、なぜだかあった。
僕はまぬけなほど入浴前と同じに冷蔵庫を開けたが、やはり牛乳の気分ではないし、水腹になりたくないので、バスタオルで頭を拭きながら居間に出て、座った。
「君も飲む?」
言われて、意図せずなっちゃんさんの横に座っていたことに気付いた。座ろうとしていた目は爽快とまではいかないものの僕をしっかりととらえた。
なっちゃんさんは、僕より三つ上だが、定職は就いてない。けれど、時折いいバイトをしているので、家賃を滞納することもなければ、夕食後就寝前の多種多様なアルコールも自費だ。
「じゃあ、一杯だけ」
キッチンの棚から広口の湯呑を出した。ロックグラスがなかったからである。冷凍庫から氷を入れ、またしてもなっちゃんさんの横に座ってしまった。はっとして座りなおそうとすると、
「そこでいい、気にしない」
なっちゃんさんが僕の湯呑に麦焼酎を注いでくれた。ぶっきらぼうに聞こえるかもしれない感じがいつも通りのなっちゃんさんである。ところで、湯呑の中。これはシングルの量ではない、とすぐに見えたが、湯呑を揺らしてから軽く飲んだ。冷えた流れが喉から胃へそれが四肢へじんわりと滲むように広がるのを感じた。
「どう?」
簡素に問うなっちゃんさんに答えようにも、すぐにぼんやりとクラッと来ていた。頬も胃も熱くなりそうになっていた。
なっちゃんさんは、空けた自分のグラスに焼酎を注いだ。静かにそれを啜り、テーブルに置くとゆっくりと鼻歌を奏で始めた。それを聞きながら僕は少しずつ飲んでは置き、また飲んだ。すでにふんわりとした居心地になっていた。そのせいか、メロディが子守唄のように心地良かった。鼻歌が終わると同時に僕は湯呑を空けた。
「なっちゃんさんは、なんで飲むんですか?」
そのつもりはなかったのだけれど、
「君、もう酔ったみたいだね」
僕自身ははっきり言ったと思ったのに、どうやらしどろもどろに聞こえたらしい。僕は溶けた氷をかじった。ずいぶんひんやりとしていて、すっかり熱くなっているらしかった。
「火照りをね、冷ましたくなる時ってあるのよ」
なっちゃんさんはグラスを揺らしながら、部屋のどこを、というよりもっと遠くを見る目をしながら呟いた。鼻歌と変わらない静かさで。それをその時でないときに聞いたら、僕には酒飲みの言い訳くらいに受け止めただろうが、あんな後の僕には妙に説得力のある答えに聞こえた。そのおかげか、こうして飲んでいる、そんな平和な時間があの後に来るなんて、いやむしろあんなことが今まさに起きるかもしれないと急に心拍数が早まった。いや、単に酔ったせいだろう、そんなことを思ったのは。僕は湯呑を持って流し台に行き、水を少し口にした。目がシパシパして、歩いている感じがおぼつかないまま、居間を出る時、
「なっちゃんさん、先に寝ます。なっちゃんさんも、あんまり遅くまで起きてると」
まで言って止まってしまった。
「なに?」
飲んでいたグラスを口から離して、僕を見上げてきた。眼鏡がないからぼんやり見えているのだろう。酔った僕みたいに。
「……いえ、なんでもないです。あまり飲みすぎないように」
なっちゃんさんは答える代わりにグラスを揺らした。火の玉と火の獣が幽霊の代わりに出るかもしれないって言えるはずもなかった。
翌朝はいつもより少し遅く起きてしまって、朝食は焼いた食パンと牛乳だけになってしまった。それでも、僕よりたくさん飲んで遅くに寝たはずのなっちゃんさんは不平も不満も言わなかった。
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