一番槍と散る

いいの すけこ

出立の朝

 折り重なる蝉の鳴き声は、土砂降りの雨が地に打ち付ける音にも似ていた。

 だから蝉時雨というのだろう。小高い山中に響き渡る雨音のような声は、一昼夜この場で過ごすうち八神の耳に馴染んだ。

 短い命の叫びであるはずのそれは、雨降りや雷鳴のような、魂の宿らぬ現象と変わらないようにさえ思えてくる。

「もう少しゆっくりしていってもいいのに」

 竈の傍に立つ鶴乃が言った。

 薬を扱う時以外、真夏は戸口を常に開け放してある家には、内も外も関係なく蝉の声が響き渡る。鳴き声に慣れたとはいえ、思わず声を大きくして答えた。

「いや、もう行く。とりまで馳走になって、世話になった」

 八神は薬師である鶴乃のもとへ、狩った竜の身を届けに来た。晩夏、竜追いであった八神が最後に竜を狩ってから、半年ばかり過ぎた頃の事である。

 竜追いは流れ者も多く、そもそもいつ死ぬかもわからない者たちだから、取引の約束はあてにはできない。けれど狩りの季節はそう変動するものではないから、馴染みとなればその来訪時期は大方決まっているものだった。

 八神もいつもなら春の終わりには、行李に狩りの成果を満載にして訪ねるところが、夏まで訪問が伸びてしまった。

「イサナも、今朝はもう気分は悪くないの」

 鶴乃の問いに、上り框に座り込んでいたイサナが頷いた。脚絆を巻き付けただけの足をぶらぶらさせてぼんやりしているものの、顔色は悪くなさそうだ。

「もう出るから、草鞋を履け」

 足元に草鞋を揃えてやる。イサナは足を振りながら、八神の顔を見て難しい顔をした。


「履き方わかんない」

 致し方なし、と思う。幼い子どもだから、ではなく、そもそも竜の子なのだから。元々道具を使ったこともなければ、人間の体にどれくらい馴染んでいるかもわからなかった。

「やってやるから、足をぶらぶらさせるのやめろ」

 それにここまでの道中で一足履き潰したから、新しく下ろす草鞋は一から紐をかけなければならないし。八神は息を吐いて、イサナの小さな足に草鞋をあてがった。

 傍らに来た鶴乃が言う。

「おやまあ、かいがいしいこと」

 笑い含みの言葉に、八神は思わず手を止めた。

「ヤツさんは子どもの扱いに慣れてないんだろうけどさ。世話を焼きすぎるのも問題だよ」

「……ゆっくりやるから、覚えろ」

 鶴乃は事情を知らないが、けれど言うことはもっともで。共に行くのなら、身の回りのことは一通り自分でできるようになってもらわないと、困るのは確かだ。

「えー……」

「足がぶらつくと履きにくいから。框に足上げてもいいから、やってごらんね」

 渋々ながら、イサナは鶴乃に言われた通りにした。まず片足を八神が説明しながら履かせてやり、もう片足を自分で履かせる。イサナは左右の足を見比べながら、懸命に紐をかけようとしたが。

「できないー」

「輪を作って、そこに紐の先を通すと結び目になる。固結びでいいから」

「できない!」

 足を投げ出して、イサナはそっぽを向いてしまった。

「おい、イサナ」

 膨れた横顔を見つめながら、怒鳴るか拳骨を落とすかと思案した。

 竜追い仲間たちの師弟を思い出す。感情に流されるままやるべきことを投げ出そうとする若輩者を、師は厳しい態度で叱っていたはず。

 けれどそれは命が懸かっているからで、草鞋を履けずに癇癪を起こす子どもにすべきことだろうか。

「イサナ。草鞋をちゃんと履かないんだったら、アンタここに置いてかれちゃうよ」

 鶴乃の言葉に、イサナは目を見開く。何か言いたげに口を開いて、けれど何も訴えずに。小さな手で、ぎゅっと八神の着物を掴んだ。

「……置いていかないから、落ち着いてやってみろ」

 震える手を、宥めるようにさする。

 着物を握る手をゆっくり離すと、イサナは再び不器用な指先で草鞋に挑み始めた。




「ほら、ちゃんと一人で履けたじゃない」

 イサナの足にきちんとおさまった草鞋を見て、鶴乃が言った。

 仕上がりは不格好で、足を痛めないよう結局は八神が手直しをしたが、まずは十分な成果だ。イサナも満足そうに己の足元を眺めている。

「これ、握り飯こさえたからね。道中お食べ」

 鶴乃はイサナの膝に、竹皮の包みを乗せた。

「悪いな、こんな弁当まで」

「いいのよ。なんせ納めてもらった竜骨に対して、持たせた薬が釣り合ってないんだから。痛みやすい時期だから、早めに食べちゃっておくれね」

「下に降りたら、すぐもらう」

「イサナと二人だと、降りるのにどれくらいかかるかね」

 八神一人なら悪路でも選ぶのだが、イサナと二人では道一本選ぶのも今まで通りとはいかない。

「女坂の方でも、昼頃には降りられると思うんだが」

 ここは山の中腹ほど近く、そもそも標高もあまり高くないのでイサナと二人でもそう難儀せず下山できると八神は踏んでいる。 

「私と雷太でも、そんなもんだね」

「なら良かった」

「どうするの、これから」









 

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