呼び水

上雲楽

伝言

 耳の中に入り込んだ水がうっとうしくて頭をバンバン叩いていた。弟がそれを見て笑ったので二三発殴ってやったのが今、物置に閉じ込められている理由だ。

 夏の物置でもプールよりはましだ。耳に水が入る不快感は言うまでもないし日焼けは痛いし、日焼け止めクリームでべちゃべちゃになるのはもっといやだ。と強がってみたものの僕は脱水症状を引き起こして頭ふらふらで暑いのに汗も出なくなってきてこれは死ぬかもしれないなって(当時は思う余裕なかったけど)パチンコ屋の駐車場で放置されている同志たちのことを考えて目を閉じた。

 「汚い言葉ばかり使っているから水が耳にへばりつくんだよ」

と母は閉じ込める前に言い残した。母は僕らに馬鹿にされるからもう言わなかったけど、いい言葉をかけた水にはいい結晶ができて、悪い言葉をかけた水には悪い結晶ができると信じているところがあった。弟に向かって馬鹿とか死ねとか言うと水がまずくなると言って怒鳴った。幼稚園の頃はそれを素朴に受け取っていたけど、弟さえ小学生だ。弟をおちょくって遊ぶと、洗い物をする母が「水が悪くなるだろ」と怒鳴る。すると弟と一緒になって「ペペロンチーノ」とか「アフリカゾウ」とか「ディスイズアペン」とか「地球膨張説」とか意味のない単語を叫ぶようになった。

 母は子供たちの無意味な奇声を無視し続けた。母は麦茶を作るときも「ありがとうありがとう」と念仏のように唱えているのを知っていたので僕は麦茶を飲む前は国語辞典を開いて目に付いた単語で打ち消すことに決めていた。そうだ、今日はプール帰りで喉が渇いて打ち消す呪文を言い忘れていた。

 「死ね」

 弟の声がして物置の扉が蹴られた。自転車を動かす音がする。図書館にでも行くのだろうか。

 「行ってきます」と弟が叫んだ。弟は挨拶をかかさない。食事前にも手を合わせるし近所の人にお辞儀もして見せるからこの町内じゃ「お利巧な弟君」でかわいがられている。当然僕はそんなことはしない。家の前には工業用の油が垂れ流されている用水路がある。挨拶なんかしたら用水路を浄化しようとしている馬鹿に見えるじゃないか。プールに入る前だってそうだ。馬鹿な同級生たちは「よろしくお願いします」と言えば塩素と同じ働きをすると思っている。僕は「パリ万国博覧会」と言ってプールに飛び込んだ。だから今も耳に張り付いている水は「パリ万国博覧会」のものだ。閉じ込めた母はそれをまだ知らないでいる。それにプールで最悪なのは同級生の汗と涙とその他の体液の混ざった水を飲まざるを得ないことだ。

 僕が倒れこむと物置の棚から何かが落ちて大きな音を立てた。それから少しして瞼の向こうが明るくなって冷気が流れ込んできた。

 「反省していると言いなさい」

「反省しています」

「ごめんなさいは?」

「ごめんなさい」

 腕を掴まれてずるずる引きずられるとシャワーホースから水を浴びせられた。犬の洗い方というかやくざ映画の拷問だ。水圧が強くて飲むことはできなかったが僕はなんとか口を開けた。倒れている自分を中心に水たまりができているのが見えた。

 「この水を飲んだらな、仲間なんだよ」

耳元で知らない声がささやいた。

「もっと飲ませてくださいと言いなさい」

 無視するとみぞおちを蹴られたので僕は「もっと飲ませてください」と言うとまた水を浴びせられた。

「ありがとうありがとう」

その人は浴びせながらそう繰り返していた。僕は水が用水路のものじゃなく水道水であることに気が付いて安心していた。しばらくすると水が止まってその人は立ち去った。まだその場にうずくまっていると玄関から母が出てきて「勝手に物置から出てきて!」と怒鳴って僕の耳を引っ張った。僕はもう耳から水が抜けているのに気が付いた。

 母は僕にポカリを飲ませて身体を洗うとベッドに寝かせて放置した。母も僕の具合が悪いのを察したらしい。どうせなら病院で点滴とかしてもらいたかったけど。手が震えてコップを持てなかったから母にポカリを飲ませてもらった。僕はまた打ち消す呪文を忘れたと思ったが、そいうえば母もポカリの粉末を水に溶かすときに何も言わなかった。

「もう殴らない?」

「もう殴らない」

「なんであんなことしたの」

「なんで……」

 僕が嘔吐すると母は溜息をついて僕の胃液の混ざったポカリを雑巾で拭いた。この床のポカリに母の溜息も混ざっていると思うと余計に吐き気がした。

 クーラーの効いた部屋で横になっていると用水路の流れる音が腹立たしくなってきた。

 母はよく、お前は用水路の橋の下から拾ってきたと言っていたが僕はそれをどこか信じていた。

「ただいま」

「おかえり」

弟と母の声だ。

「図書館?」

「公園」

「暑くない?」

「涼しかったよ」

「帰ってきたら手を洗う!水分補給!」

「はいはい」

 水の音がする。手を洗う音だ。

 その日、給食の時間中に同級生が嘔吐した。自分の教室では集団で声を合わせていただきますを言うことになっている。僕は牛乳にいただきますを結晶化させるのが嫌だからいつも違う言葉を言っていた。その日は「干潮」と言って食べ始めると目の前に座っていた同級生が一拍置いて牛乳を吐き出した。

「カ、カンチョ―、ヒヒ、カンチョ、フフフ」

僕のパンが吐き出された牛乳で浸される。

「そう、干潮」

同級生が腹を抱えて笑いだした。先生が僕を怒鳴りつけて汚れた給食を捨てた。

「今日は食育感謝の日です。こころを込めていただきます」

校内放送が流れてくる。その声は昨日水を浴びせてきた人に似ている気がした。僕は放送室に歩き出した。

「ちょっとどこ行くの」

と先生が叫んだ瞬間、別の生徒が嘔吐した。

 放送室では二人の生徒がアニメソングを流しながら給食を食べていた。二人とも僕を見て一瞬固まると首を傾げた。

「え、誰」

この声じゃない。

「ちょっと、放送委員以外立ち入り禁止なんですけどー。何年何組?」

こいつでもない。

 「誰」と僕は聞く。

「え、何?」

「誰?三人目?」僕は緊張させないように丁寧に尋ねる。

「あ、え?」

「録音じゃないよね」

「お前、何急に」

「ありがとうって言って」

「は?本当に何なんですか……」

「違うって確かめたいから、言って。ありがとうありがとう。僕はありがとうなんて言わないよ。いや、放送でも言ってなかったな、じゃあいただきますだ。言って」

「いや、もうすぐ食べ終わるし……」

「じゃあ、なんで僕をここに呼んだわけ。理由があるんだよね?」

「あ、ありがとう……」

「違うって言っているだろ!」

僕はありがとうと言った方の生徒を殴りつけると二人ともぼーっと僕を眺めていた。二人の飲んだ牛乳のせいだ。学校中の牛乳にあの声のいただきますが込められている。僕は許せなくなって喉に手を突っ込んで牛乳混じりの胃液を吐くと放送室から立ち去った。

 午後の授業はサボって帰ることにした。今日も体育で水泳があるのだ。これ以上プールの水を飲むわけにはいかなかった。

 帰り道、公園の水をホームレスが飲んでいるのが見えた。

「あなたですか」

「ん?ボク学校は?」とホームレスが振り向く。

「ありがとうって言って下さい」

「うん?ありがとう?」

「誰が僕を知っているんですか」

「うーん?君は誰かな?」

「調べようとしても無駄ですよ……僕は全部知っているんですからね……僕の物置小屋を開けられるのは玄関から物置の鍵を取ってこられる人で玄関の鍵は開いていてそれってあなたでもいいってことですよね」

「たぶん人違いだと思うけど……」

「そうですよ。だから僕を知っている人を教えて下さい。いや、もし知っているなら仲間ってことですよね?なんでとぼけるんですか」

「えっと?近所の小学校の子だよね?」

「そうか、学校にも仲間がいるんですね」

「友達?」

「その水を飲むのって水道水ですよね、水道水だから仲間にされたんですか。水道水は汚染されてますよ……」

「今の浄水場はね……」

「助けて!僕は仲間になんかなりたくない!助けて!」

僕が叫ぶとベビーカーを押した人が歩いてくる。遠くのベンチで座っているスーツの人もこちらをちらりと見た。ベビーカーにペットボトルが刺さっている。

「あの、どうかしました?」とベビーカーの人が無表情を装って聞いてくる。

「そのペットボトル、水道水じゃないですよね」

「え、まあ」

「この子、水道水は毒って言うから」とホームレスが呟いた。

「人違いですよ」と僕。

「あの、なんの話ですか」

「あなたじゃないんでいいです」

「何が?」

「あなたは僕を知っている人を知っていますか」

「え、どういうこと……」

「だから人違いだって言ってるじゃないですか!それとも仲間なんですか。ならこの水道水飲んで証明してくださいよ」

「飲むのはちょっと……」

僕は水道の蛇口に指をつけて勢いよく水を二人に吹き付けた。ベビーカーの人が悲鳴を上げるとベビーカーの中の赤子が泣き出したので僕は家に帰った。

 「ちょっとあんた学校は」

 家に帰るなり母が怒鳴りつける。

「というか、帰ったら手を洗う!何度言わせるの」

「僕はもうここの人じゃない……」

「え、まあ橋の下から拾ってきたからね」母がケタケタ笑った。

「炭酸飲料、リーダーシップ、生放送、語らう、一番、バスケ、モーツァルト効果、バンドワゴン効果、クサンティッペ、ゴイアニア被爆事故……」

僕は叫びながら手を洗い続ける。

「助けて!誰かに水を飲まされた!」

「拾い食いしちゃだめでしょ!」

「昨日だよ」

「いつでもダメ」

「気が付かなかったの?昨日飲まされたんだよ……物置から引きずりだされて……」

「自分で出てきてたじゃん」

「無理だよ、閉じ込めれて、死にそうで……殺すつもりだったんでしょ、でもあの人は仲間だって……嫌だ……水道水を飲んじゃったよ……」

「閉じ込めたって、鍵かけるわけないでしょ」母が呆れた顔でこっちを見ている。

「嘘つき!人殺し」

僕は駆けだして部屋に飛び込む。扉を開けると冷気が流れこんできた。

「ちょっと、寝てるんだから騒がないの」

部屋はクーラーが効いていて弟がベッドで寝ていた。

 キッチンから母のありがとうありがとうという声が聞こえる。

 僕は弟を殴りつけた。だから今も物置にいるってわけ。

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呼び水 上雲楽 @dasvir

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