第10話 家族
その昔、僕の家には柴犬のムギがいた。
人懐っこくて撫でられるのが好きで水をよく飲む。
ほかの犬に舐められているのか、散歩に繰り出せば擦れ違うトイプードルのような小さな犬にもよく咆えられていた。
ムギ自身は音に敏感で、かなりの臆病者。
咆えられても咆え返したりしないし、雷が鳴った日には僕や姉貴の側から離れようとしなかったくらいだ。
僕はそんなムギに助けられた。
十三年前のことだ。ダンジョンから思念獣が溢れ出し、街を襲った。
建物が燃えて、空が焼けて、大人たちが叫びながら何処かへと逃げて行く異常事態。僕はそんな異質な空気に飲まれ、幼心に命の危機を感じて震えながら家を目指した。
隣りにムギがいてくれたことが何よりも心強かったことを憶えている。
いま思えば、ムギは僕の歩幅に合わせて走ってくれていたんだろう。
犬の脚力で本気で走ればリードなんて持っていられるはずがない。
自分が何から逃げているのかもわからないまま、不安な気持ちに押し潰されそうになりながらも走り続け、もう少しで家に戻れるというところまでたどり着けた。
助かったと思ったけど、違った。
僕の前に一体の思念獣が現れたからだ。
それがどんな姿をしていたのかは正直曖昧だ。ただ憶えているのは鋭い牙と、ムギよりもずっと大きな体格だったこと。
一目見てこいつには敵わないと思った。一瞬にして恐怖が体を支配し、震えが止まらず、手に力も入らなくなった。
それがいけなかったんだろう。もっと強く握り締めていればと今でも思う。
ムギは立ち向かったんだ。あの臆病で、咆えられても何も出来ず、雷の音に身を震わせていたムギが、自分より何倍も大きな思念獣に立ち向かった。
勝敗は明らかだ。勝ち目はない。
それでもムギは何度も立ち上がっては思念獣に食らい付いた。引っかかれようと、噛み付かれようと、踏みつけられようと、全身が血で染まろうとも。
ムギの奮戦によって思念獣もすこしばかりの傷を負う。何度も何度も立ち向かってくるムギに、思念獣は鬱陶しそうに背を向けた。その背中が見えなくなるまで唸っていたムギは、まるで糸が切れたように倒れ込んだ。
必死に名前を呼んで体を揺らした。けど、反応がない。
僕は涙を拭うことも忘れて瀕死のムギを抱きかかえて走った。
神様どうかムギを助けてくださいと必死になって祈りながら。
途中で姉貴を見付け、怪我をした母さんを治療している冒険者にあった時は願いが通じたと思った。これでムギが助かる。
すぐに姉貴を呼んで運ぶのを手伝ってもらい、冒険者にムギを治すように懇願したけれど、その時すでにムギはもう天国に旅立ってしまっていた。
今でも後悔している。
何も出来ずにただ戦うムギを後ろから見ていただけだったことを。
だから僕は、そんな自分が嫌でもう二度とあんな思いをしないために、魔術を習った。
§
第四十階層、黄泉の杯にはある特性がある。
「悪いわね、付き合わせちゃって」
「別にいいよ。俺にとっちゃ散歩がちょっと長引いたようなもんだ」
「……感謝する」
それはダンジョンが持つ特性とは似て非なるもの。
「ついた。たぶん、ここがそうだ」
無数に存在する杯や盃の中で、その器だけが注がれた水面に月を浮かばせている。
まるで見えない境界線が張られているかのように、周りにほかの器は一つもない。
如何にも特別な盃。これにはこの階層を彷徨う死者の魂が集う。
「たしかこの階層だけは思念じゃなくて魂が保管されてるんだよな。会いたい人でもいるのか?」
「美里」
「……そうだね、事情を話してもいい。あんたなら」
美里は話してくれた。
十三年前のことを、喪失を。
「犬のためにって思うかい?」
「いや。家族だったんだろ? 生き物を飼ったことはないけど、気持ちはわかるよ」
「……そうか」
美里は小さく呟いて、月の浮かぶ盃の前に立つ。
「ムギ。いるなら出てきてくれ」
祈る背中を眺めていると足下の水面で何かが光る。ふと見上げた先、数多の杯が積み重なって出来た小山の頂きに、その何かが今度ははっきりと見えた。
「美里、そっちじゃない。下じゃなくて上だ、もう来てる」
たぶん、美里がこの階層に入った直後から、ずっと。俺がいなきゃ、閃姫に突っ込んでいたかもな。
「ムギ!」
名を呼ばれたムギは返事をして小山から飛び降り、飛沫を上げて美里の元へと駆ける。それを迎えに行くように美里も走り出し、ムギは愛する家族の胸に飛び込んだ。
「ごめん。ごめんな、ムギ。あの時僕はなにもっ、なにも出来なくて。守ってくれたのにっ、なにもっ」
溢れ出す後悔の念を遮るように、ムギは美里の涙を舐めた。俺に犬の気持ちはわからないけど、泣かないでくれと、そう言っているようだった。
「ありがとう、ムギ」
頭を撫でられると嬉しそうに尻尾が激しく左右に動く。
一通り撫で回されるとムギは満足したように美里から離れて誘うように鳴いた。
「追いかけっこ? いいよ。姉貴もほら」
「まったく、これじゃびしょ濡れ確定ね。いいわ、捕まえちゃうわよ! ムギ!」
バシャバシャと水飛沫を上げて始まるかけっこ。逃げるムギを追い掛ける二人はもう自分が濡れることなんてお構いなしだった。
美夢なんてあんなにファッションに気を遣っていて、靴が濡れることすら嫌がっていたのにな。
「なにしてんの? あんたも参加すんのよ。ほら、早く!」
「俺も? しようがないな。付き合うか!」
家族団欒に水を差すのもと思ったが、遊ぶなら人数は多い方が楽しい。
追いかけっこに俺も加わり三人掛かりでムギを追い掛ける。普段から鍛えている配信者が三人もいればムギに逃げ場はないはずだ。
と、思っていたがムギは伸びる手の悉くを回避して行った。
これは大変だと覚悟を決めて爪先から頭の天辺までずぶ濡れになるまで追いかけ回し、やっとの思いで美里がムギを捕まえた。
「はぁー、やっと捕まったか」
「あぁもう。髪までびしょびしょ。後始末が大変だわ」
「でも、楽しかっただろ? 姉貴も」
「まぁね」
ワンと鳴いてムギは身震いをした。
「さて、そろそろここを離れないとだな。はしゃぎすぎた、思念獣が寄ってくる」
「あぁ、わかってるさ」
濡れた毛並みを撫でた美里は膝をついたままムギと目を合わせる。
「ムギ。僕はまたムギと一緒にいたい。だから――」
「ワン!」
言葉を伝えきる前に、ムギは美里の胸に飛び込む。
川に石を投げ入れるように、ムギは美里と同化した。
「調伏過程を跳び越えて自分から……そうか、ムギ」
十三年、犬の寿命にも相当する長い間、ムギは魂だけの存在になってもここで美里を待ち続けていた。そんなムギの答えは最初から決まっていたんだろう。
大好きな家族と共にある。それがムギにとって一番幸せな選択だった。
「菖蒲、礼を言わせてくれ。僕をここに連れて来てくれた。ありがとう」
「あぁ」
こうして俺たちは三人で、いや三人以上になって第四十階層、黄泉の杯を後にした。
亡くなった犬や猫は転生して戻ってくる、なんて話があるけれど、あながち間違いでもないのかも知れない。
家族。いい言葉だ。
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