第3章

第9話 視界を、意識を、共有する

 体を起こしてまず、ハディージャは水とたらいと手ぬぐいを転移させて手元に用意した。

 そして、顔を洗った。

 水が服に飛び跳ねた。

 どうせすぐに脱いで着替える。それに、ただの水だ。この砂漠の世界ではあっという間に乾燥する。


「エムレさんもどうぞ」


 たらいをエムレに押しつける。エムレが「どうも」と言って受け取る。


「では、わたしは着替えますね」


 そう宣言すると、エムレがぎょっとして目を向けてきた。


「ちょっと待て、今ここで服を脱ぐのは――」


 だがエムレに気を遣わせることはない。こういう時も、ハディージャの魔法は役に立つ。


 人間には視認できない速さで、着ていた服と家から取り寄せた服を交換した。ぱっと見では、服が一瞬で変化したように見えるはずだ。


「……優秀な魔術師なんだったな」


 エムレが微妙な表情をする。ハディージャは真顔で「そうですよ」と答えた。


「気を遣いすぎるのもかえって失礼なんだな。お前がレベルの高い魔術師であることを忘れないようにしないと」


 そう言われると鼻が高いというものだ。


 エムレは、嫌みなく褒めてくれる。

 どんなに魔法が使えても魔女と呼んで蔑んでくる連中とは大違いだ。


 エムレは、ハディージャを、尊重してくれる。


 しかし意地悪を言いたくなって、ハディージャはついこんなことを言ってしまった。


「わたしの着替え、見たかったですか?」


 エムレは即答した。


「そこは、ナメないでいただこうか」


 彼のちょっと冷たい瞳に、ハディージャはどきりとした。


「自分を安売りするな。お前がそうやって女を見せるのもかえって俺に対して失礼だということを忘れないようにな」

「はい……申し訳ございません」

「しかし、それにしても」


 次の時、エムレは平常どおりの顔で溜息をついた。


「何だ、その恰好……」


 ハディージャはその場でくるりと回ってみせた。


 家から取り寄せたのは、父の形見の服だ。


 つまり、男性物の貫頭衣カンドゥーラである。


 白い貫頭衣カンドゥーラ、丈が長くて赤いベスト、そして頭に巻いたターバン――父のものなのでサイズが大きいが、万が一に備えて裾上げしておいたため、このまま歩いても踏んでしまうことはない。


「何事も備えあればうれいなし。父の遺品ですわ」

「ひょっとして、お前、男装で変装したつもりなのか?」

「立派な変装でしょう? ターバンで顔も隠せますし、体型もごまかせます」


 一度ターバンをほどいて、顔の下半分が隠れるように巻き直した。これで外からは目しか見えない。


 エムレは「うーん」とうなった。納得がいっていなさそうだ。


「俺はそれはあんまり気が進まないんだけどな……。砂漠の民は男女の区別に厳格だから、万が一バレた時にどんな扱いを受けるかわからなくて怖いんだが」

「バレなければいいではありませんか。どうせ次の都市は情報収集をしたら通過するだけでしょう?」

「そうか? 俺は今夜は隊商宿ハーンに泊まって体を休めたい」

「え、そうなのですか……」


 確かにエムレは昨夜まったくといっていいほど寝ていない。ここで無理をさせるのはよくないかもしれない。こんなに世話になっているのに、今夜も寝かさない、なんて申し訳なさすぎる。


「男二人じゃ同室でいいだろうと言われたら困らないか?」

「それは、まあ、昨日から今朝にかけて一緒に寝ていたのに、何をいまさら」

「お前な……俺の気も知らないで……いいけど、非常事態だし」


 準備ができた。


「では、透視魔法でマルヤム様の居場所を探りますか」


 目を伏せ、意識を集中する。両手の平の魔法陣をこすり合わせ、脳内の何かを飛ばす。


「目よ、かの者の姿を見せたまえ」


 映像がぼんやり浮かんできた。


 見えてきたのは、城塞だった。砂の丘に日干し煉瓦の壁が高くそびえ立っていて、街の中の様子が見えない。入り口として小さな門があって、兵士と思われる男性たちが検問をしているようだ。

 見覚えのある集団が、馬を引いて中に入っていく。そのうちの一頭の背中には、若い女性を一人だけ乗せている。

 マルヤムだ。


 しかし、ここはどこだろう。


 ひとまず、目を開けた。


「やはりどこか都市の中に入っていったようです」

「ぼんやりだな。具体的にどこの街に入っていったかわからないのか?」


 指摘されて、一度唇を横に引き結んだ。


「わたし、ダラヤの街を出たことがないので……」


 エムレが溜息をついた。


「どんなところだった?」

「壁に囲まれた街でした。城壁にぐるりと囲まれていて、中が見えなくて――」

「そんな街はいくらでもある」


 むっとする。


「エムレさんは地理にお詳しいのですか?」


 するとエムレはあっさりと答えた。


「草原出身だから少年時代はいろんな街に略奪に入ったし、三年前草原からダラヤまで旅をして移住したからな」


 侮ってはいけなかった。彼のほうが二枚も三枚も上手だ。


「頼りにしています……」

「どうも」

「では、あなたにお見せするので、どこの街か判別していただけませんか」

「見せる?」


 目をぱちぱちとしばたたかせるエムレに、静かに歩み寄る。


 手を伸ばしながら説明した。


「わたしと視界を共有していただきます。あなたの視界も現地に飛ばすことができます。その間今ここにいるご自身の様子が見えなくなりますが、白昼夢を見ている感覚だと思ってください。目を開ければ簡単にここに戻ってこられます」

「そんなこともできるのか」

「だって、私はダラヤの誇る大魔術師ですから」


 冗談のつもりで言ったのだが、彼は真面目な顔で「そうだな」と言ってくれた。


 嬉しい。


「あなたに少しだけ触れさせていただきますね。そのほうが使うエネルギーが少なくて済みますので」

「触れる?」

「目を閉じて。少し身をかがめて」


 エムレの額に、手の平を押しつける。


 距離が、近い。


 エムレがまぶたをおろした。意外に長い睫毛が、重ね合わされる。


 とくん、とくんと、胸が鳴る。


 そんなことを言っている場合ではない。そうこうしているうちにもマルヤムがあの街で何をさせられるかわからないのだ。気を引き締める。


 目を、閉じる。

 精神を、集中する。


 今頃、エムレにも同じ映像が見えているはずだ。


「……マーディトだな」


 エムレが言った。


「マーディトの街だ。草原の民の侵入を防ぐために巨大な城壁を築いた偉大な国主アミールがいた街で、城壁の上から投石ができるようになっている。その国主アミール亡きあとは息子が継いで砂漠の民と草原の民の融和を図る政策をとっていると聞いた。防御が鉄壁で砂漠の民に自信があるぶん逆に草原の民は比較的出入りしやすい」

「よくご存じで」


 彼の知識と経験に感嘆する。


「方角もダラヤから見て北東のほうなので間違いない。行くぞ」

「はい!」


 持ち込んだものを自宅に転移させてから、二人は洞窟を出た。



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