#18 見積もりの甘さ

 救護所は静まり返っていた。

 消耗は激しいが命に別状はない。そう判断された蔵見には病院への搬送よりもダンジョンの魔力を用いた治療が選ばれた。

 治癒限界と呼ばれる分水嶺を超えない限りは、傷付き消耗した冒険者にはダンジョンの力によって常態へと復帰しようとする力が働く。

 蔵見は今、深い眠りの中で身体の回復を待ち続けている。


「容体は安定しています。怪我はそれほど深くありません。しかし、あまりにも精神的に追い詰められていたのでしょう。ゲートに到着し、報告を終えると同時に気を失って、以来ずっと目を覚ます気配はありません」


 篠宮さんが説明をしてくれたが、詳しく聞かずとも事情は分かる。

 どうにか三層に足を踏み入れられる程度の段階にあった彼女を連れ、谷場さんが四層に足を踏み入れたというなら、何か不測の事態があったのだろう。それに加え、謎の脅威対象。不運が重なったのか、あるいはそもそもが仕組まれた罠だったのか。


 どちらにせよ、蔵見が戦いに参加できるようなレベルの相手ではない。

 緊急事態の報告という形をとって、谷場さんたちは彼女を逃がした。四層から単独で生きて帰ることが、彼女にとってどれ程の難事だっただろう。


 そしてその選択を谷場さんらが選んだということは、どこかに隠れて戦闘の終わりを待つよりも、その無理難題を押してでも逃げた方が生き残れる確率が高いと判断したということだ。

 もしそれが自分だったらと想像する。老師や先輩でさえ死を覚悟するような強敵。お前は戦力にならない足手纏いだからと、地上まで報告に走らされる自分の姿。


 その見え透いた嘘を信じ、二人に助けられても手一杯だった往路を、たった一人で地上まで駆け抜けること。それを成し遂げた蔵見を掛け値なしにすごい奴だと思う。


 ひょっとしたら彼女はまだ、自分が逃がされたことにまで頭が回っていないかもしれない。与えられた役割を死に物狂いで果たし、仲間のため、そのことだけに精一杯だったかもしれない。

 もし。もしそうだとしたら、目が覚めてそのことに気が付いたとき――、



 いや、そんなことを考えるのはまだ気が早いじゃないか。

 谷場さんたちが負けたとは限らない。老師たちの救出隊が、助け出せるかもしれない。それがどんなに望み薄だとしても、『鋒山』の皆の無事を祈る。


 そのとき、かすかに病床の蔵見が動いた気がした。


 *


「……………………田中、さん?」


 薄く開いた目蓋越しにこちらを認めた蔵見が、俺の名を呼ぶ。


「蔵見さん……! 目が覚めたんですね」

「――先輩たちは、皆は、どうなりましたか? 」


 開口一番飛び出た質問に、胸を締め付けられる思いがした。

 やはり彼女は、自分が逃がされたなどとは思っていないのだろうか。

 四層から地上ゲートを目指した単独決死行。今の実力では不可能にさえ思えるそれを彼女が成し遂げたのは自分が生き延びるためでなく、仲間を生かすためだったのだ。

 当り前だろう。もし自分が同じ立場なら、決して仲間を諦めたりしない。


「……老師や他のギルドの人たちが合同で救出隊を組んで、既に出発した。蔵見さんが報せてくれたおかげだ」

「そう、ですか。それなら良かったです」


 蔵見がゆっくりと身体を起こす。幸い身体は大事ないようだ。

 それを見守る俺の背後から、篠宮さんが割り込むように前に出た。


「管理官の篠宮と申します。大変申し訳ないのですが、『鋒山』が出くわした魔物について、詳しく話してもらっても構いませんか? あなたに休息が必要なのは重々承知の上ではありますが、今は脅威個体の情報が、少しでも必要なのです」

「あれは……魔物には見えませんでした」


 質問に対して、蔵見がゆっくりと口を開く。


「冒険者と見分けが付かなかった。……少なくとも田中さんからは『人間に擬態した魔物』の情報は得ていたはずなのに、疑った上で人間にしか見えませんでした。今思い返しても、わたしにはあれが人間だったと思えます。それでいて、信じられないほどの魔法の使い手でした」


 声が少し震えて聞こえるのは、疲れや負傷から来るものではないだろう。ベッドのシーツが彼女の手元で歪む。無力を噛み締めるように。


「わたしの知る限り、最も魔法の扱いにたけた三代さんの強化障壁が、乱雑に撒かれた魔法に数秒と持たずに溶かされました。『鋒山』の制服は迷宮五層で採取した素材を織り込んで何重にも術式を裏打ちした特別製で、生半には剣も魔法も通さない代物ですが……それがまるで、紙のように」


 蔵見の語る内容に、俺は絶句するしかなかった。

 人間業ではない。それこそ竜か何かを相手にした話だとでも言われた方が信じられる。それは篠宮さんも同じ感想であるようで、ペンを持った手は虚空を捉えたまま、蔵見に向けられた視線同様に動きを止めていた。


「それでは、『鋒山』は、正面から戦い、成す術なく壊滅したということですか? 不意打ちや騙し討ちの類ではなく?」

「ええ。谷場さんは奴に接近する前に、相手が敵意を持った存在であることを察知していました。だからメンバー皆が、十分に警戒し戦闘態勢を取っていた」


 蔵見は淡々と話すが、その内容はあまりにも重い。

 自分の仲間がなす術もなく壊滅させられたという話をしているのに、彼女の目から涙は流れない。無力感で流す涙が枯れるくらいに、彼女は無力感に打ちひしがれている。

 篠宮さんがメモを取る音が止まると同時に、蔵見の言葉はそこで途切れた。


 その内容は、想定していたものを遥かに超えて衝撃的なものだっただろう。

 相手を脅威と見做したのは、対象の知能の高さ、人間と見分けが付かないどころか世間話までこなす非常に高い擬態性能に基づくものだったはずだ。

 だが今の話は何だ? 『鋒山』は不意打ちや騙し討ち、卑怯な手管で敗れたわけではない。それどころか、谷場さんは俺が得体の知れない相手に出くわしたというただそれだけの限られた情報で、油断も隙も無く、ほとんど満点に近い対応で相手を迎え撃ったのだ。その上で、圧倒的な惨敗を喫した。


「だとすれば、調査隊も……」


 篠宮さんの口から漏れ出た言葉に、俺はようやくそのことに思い至った。

 老師たちが危惧したのは、あくまでも相手の知能と潜伏能力の高さだ。総力を挙げた討伐隊からはゲリラ戦染みた戦法で逃げ回り、情報を持たない、あるいは孤立した冒険者や低層の未熟な集団を狩り続ける。


 それが想定したもっとも厄介なシナリオだったはずだ。だが、今の話を踏まえればその想定は間違っていたという他ない。

 既に出立した隊に連絡を取る手段は存在しない。情報の途絶。それはダンジョンにおける制約のもたらす、いわば闇の世界だ。

 それはいつでも誰とでも連絡が取れ、情報を共有できることが当たり前の現代社会に慣れきった人間にとって、あまりにも不確かで不鮮明な世界だ。

 科学技術が駆逐した未知の世界は、何も遥か遠くの極地や宇宙、あるいはミクロの世界だけではない。俺たちは自分たちの力だけでは、ほんの数分歩いた先の場所の情報さえ知ることが出来ない。


「――いえ、だとしても今は、彼らの帰りを待つことしかできません……」


 俺の隣で、篠宮さんが力なく呟く。出来ることは何もない。

 ベッドの上から伝染してきたかのような無力感が、今では振り解けないほどに俺を包んでいる。


 *


 調査隊が戻ったのは、日が暮れてしばらくしてのこと。

 その成果を直接に表現しない持って回った言い回しが、その探索が如何なるものだったかを何より雄弁に表していた。

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