03 安藤恭太 3
「二年坂が見えてきたね」
「本当だ。ようやく清水って感じやね」
高台寺を通り過ぎ、清水寺へと続く二年坂が見えてきた。ここもまた石畳の情緒あふれる道が続く。レトロなお土産屋や雑貨屋も多い。途中、八坂の塔が顔を覗かせるこの道は京都でも有数の撮影スポットになっている。
すれ違う人はカップルと思われる男女が多かった。美しい着物を纏った女子グループたちが華やいでいる。僕は、彼らのように江坂さんと二人で遠慮のない距離感で歩く未来を妄想してみた。今は彼女との間にぎこちない距離感がある。ああ、早くこの三十センチの隙間を埋めたい……。
「入りたい店があったら言ってな」
「うん、ありがとう」
それから僕たちは気になった雑貨屋に入ったり、八ツ橋味のシュークリームを頬張ったりしながら清水寺までたどり着いた。
朱色の仁王門をくぐり、拝観チケットを購入して境内に入る。日曜日ということもあって、境内は多くの人で賑わっていた。お線香の匂いを全身で嗅ぎながら、雄大な景色の広がる舞台へと進む。
「わあ、やっぱりいい眺め!」
「こうして見ると圧巻やな」
もうn回目になる清水の舞台も、女の子と来た今日は違った景色に見える。まだ完全に紅葉はしていないけれど、色づき始めた木々を眺めると、僕たちの恋も始まったばかりだと実感させられた。いや、彼女が僕をどう思っているかは分からないけれど。
「清水寺ってさ、人生に疲れたら来たくならへん?」
「ふふ、面白いこと言うんだね」
「そう? なんかこの景色の雄大さが」
「自分がちっぽけな存在だって思わせてくれるから?」
「おお、それ今言おうと思ってた」
「でしょう。安藤くんが考えそうだなーって」
なんと! 僕の思考をここまで理解してくれるなんて。まだ出会って二回目のデートなのに。彼女はどれだけ僕にぴったりな存在なんだ。
「不思議なんやけど、江坂さんと話とると自然体でおれるわ」
「それは嬉しい。私も安藤くんになら何でも話せちゃいそう」
ぬおおお、それはもう僕のことを好きだって言ってるのと同じではないのか!? いや、待て早まるな。ここで展開を急ぎすぎて振られる、なんて経験はもう懲り懲りだ。「急がば回れだよ、恭太くん」と目を光らせて諭してくる学の顔が浮かぶ。女の子とそういう関係になるのに焦りは禁物。女子の気持ちと男子の気持ちがヒートアップするスピードには時差があるのだ。有頂天になってはいけない。
とはいえ、彼女はかなり僕に気持ちが向いているのではないか? だって、ここまで楽しそうに僕と会話してくれた女の子は他にいないし、会話のキャッチボールも上手くいっている。
これは、今日中に勝負が決まるかもしれない——いや、決めにいっても良い気がする。
決して急いではいけないが、ここぞというタイミングでもたもたするのもご法度。「こんなにアピールしてるのになぜ来てくれないの」と思わせたらアウトだ。まったく、女心は複雑すぎる。
「そろそろ行こうか。お腹空いてへん?」
「うん。景色、堪能できたしね」
時間的にはまだ夕方なのだけれど、これからまた歩かないといけないので早めに清水から下ることにした。
それより、今日勝負に出ると決めた僕の心臓がはち切れそうで、動いてないと爆発してしまいそうだった。
帰りは清水坂を下り、清水道のバス停まで出た。長い坂を下り終えると彼女が伸びをし、「楽しかったー」と一言。つられて僕も楽しかった、と呟いた。君が隣にいるから、というクサいセリフはぎりぎり口にせずに呑み込んで。
「どうする、ご飯食べて帰る?」
「うん、そうしよ。この辺によく行くお店があるの」
出町柳駅周辺を生活区域にしている僕にとって、五条周辺はあまり馴染みがなかった。けれど、彼女の方は割と精通しているよ
うで、路地裏の小さな居酒屋に案内してくれた。お店を決めるのは男の役割だと思っていたが、女の子に決めてもらうのもナシじゃないな。好みの店かどうか気にする必要もないし。学、僕は今日一歩新たな真理にたどり着いたぞ!
江坂さんは五条通の方に向かって小さな路地を進んだ。こんなところにお店なんてあるんだろうかとちょっと疑いながらついていくと、果たして目的の店が現れた。思ったよりもこじんまりとしているが、「知る人ぞ知る隠れ家」感があって好感が持てた。店の前で懐かしい香りがするなと思っていると、店の名前が「キンモクセイ」だった。初めて江坂さんに会ったとき、彼女が金木犀の香水を纏っていたのを思い出す。
「ここ。秘密基地みたいでいいでしょ」
「ああ。最高だ」
まだ店の中に入ったわけでもないのに、僕はキランと歯を光らせて(たぶん、光っていた)答えた。はにかんだ彼女の顔を見て心の中でガッツポーズ。
「いらっしゃい」
お店の戸を開けると店主と思われる中年のおじさんが顔を覗かせた。
「こんばんは」
「お嬢ちゃん、久しぶりだね」
「ご無沙汰してます」
「あれ、今日はいつもの連れじゃないのかい?」
「あ、はい。今日は違うんです」
「そうかい。そこ座りな」
「ありがとうございます」
店主とは顔馴染みらしい彼女が常連客の風格で椅子に腰掛けた。僕もさっと正面の席に座る。それにしても店主、「いつもの連れ」って、もしかして彼女の元彼のこと? 普通そういうのは気を遣って聞かないでおくだろう……とちょっと凹む。
彼女も、元彼との思い出の店に僕を連れてくるのか——と若干切なかったが、まあ店に罪はないしな。小さなことでウジウジ悩むのはやめよう。
「キンモクセイ」は京都のおばんざいを中心とした料理を扱う居酒屋だった。京料理、と聞くと何だか高くて上等なものに思えるが、ここは学生にも優しい価格で料理を提供しているようだった。
生湯葉や生麩の田楽、西京焼きなど気になるメニューを注文していく。ビールが苦手らしい彼女はももの果実酒を頼んでいた。果肉がたっぷり入っていて美味しいそうだ。
「ここの料理、優しい味がして好きなの」
「そうなんや。確かにマイルド。心も和むね」
「ふふ、でしょう。安藤くんが好きそうだなって思って」
「それはありがとう」
元彼との思い出の店も、「あなたが好きそうだから」なんて言われてしまえばもう関係なかった。僕は、彼女が放つ一つ一つの言葉に感心し、喜怒哀楽してしまう。いや、ほとんどが喜、喜、喜。彼女はきっと男を喜ばせるのが得意なのだ。
それから僕たちは大学での日々やお互いの友達の話、就職の話などをして盛り上がった。なんでもない話なのに、いちいち大げさにリアクションしてくれる彼女はもはや聖母マリア。特別美人というわけでもないが、こんな子は男によく好かれそうだと思わせられる。放って置いたらきっとすぐに次の彼氏候補が現れるだろう——そう予感した。
「ちょっと、飲みすぎたかなー」
お店に入ってから二時間。彼女は三杯お酒を飲んだがそこまで酔っているようには見えない。対する僕は四杯。まあまあアルコールが回っている。
しかし、今日は酩酊するわけにはいかない。気をしっかりもたなくては。
彼女が店主に「お会計お願いします」と伝える。二人で合計六千四百六十円。財布を出そうとする彼女を制して僕は一万円札を店主に渡した。
「そんな、悪いよ」
「ええよ。美味しいお店教えてくれたお礼」
「……ありがとう。ごちそうさまです」
花が咲いたように笑う彼女。僕に向かって丁寧に頭を下げている。その一つ一つの仕草が、僕にはもう特別なものに見えて仕方なかった。
店を出ると、辺りはすっかり暗くなっており、街頭が石畳の道を照らしていた。狭い路地に、僕と彼女だけが取り残されたかのように存在している。街頭がなければ今にも幽霊が出てきそうだ。でも、恐怖や孤独感はまったくない。彼女が隣にいるだけでここは楽園だった。
「駅まで一緒に行こう」
「うん」
僕も彼女も京阪電車で家に帰るため、二人で「清水五条」まで歩いた。暗い道で、あと数センチで触れ合うか触れ合わないかの距離を保ちながら。今日は、今日だけは酔っ払ってみっともない姿を晒すわけにはいかない。
清水五条駅が見えてくると、僕の心臓は一気にけたたましく鳴りだした。実際に音が聞こえたわけではないが、激しく脈打つ心臓が痛いくらいだ。
「ここまでだね。今日は楽しかった。ご飯もご馳走してくれてありがとうね」
僕たちは反対方向の電車に乗るので、駅でお別れだった。
爽やかな笑顔で手を振り去って行こうとする彼女。ああ、ダメだ。このままでは彼女が行ってしまう。この気持ちを次回のデートまで持ち越すなんて耐えられない。そもそも、次回のデートがあるかどうかなんて保証はどこにもないのだ。
「待って」
気がつけば僕は彼女の手を掴んでいた。
咄嗟の出来事に、彼女が目を丸くする。僕も自分の行動に自分で驚いていた。ヤバイ、もう後には引けない。道路を走る車のエンジン音がだんだんと聞こえなくなる。向こうから犬の散歩をしている人が歩いてきた。あの人が来る前に、この気持ちを伝えよう!
「ぼ、僕さ、江坂さんのことが好きなんやけど」
やっちまったああぁぁぁぁ。
大事な場面で「ぼ、僕」なんて吃る男、彼女が好きなはずがない! それに、「好きなんやけど」って何だよ。だからどうしたいってところが肝心だろう!
と頭では分かっているのに、それ以上言葉が出てこない。早く続きを話さなければならないのに、頭が真っ白になった。
ああ、神様仏様学様。
安藤恭太は、どうやらここまでのようです南無阿弥陀仏。
心の中で天を仰ぎ両手をすり合わせた。目の前の江坂さんは瞠目したまま動かない。ああ、やっぱり。大事な場面で格好悪いところを見せてしまったから呆れてるのだ。返事は絶望的か——。
前方から歩いてきていた男性と犬がいよいよ僕らの横を通り過ぎた。ワン、と犬が僕に向かって吠える。なんだ、僕のことが気に入らないのか。江坂さんには吠えていないところを見るとあながち間違いではなさそうだ。
彼女はよくやく瞬きをした。すう、と息を吸う音がして口を開く。途端、耳を塞ぎたい衝動に駆られる。聞きたくない。僕は彼女からの「ごめんなさい」を聞くのが怖い。これまで何度も女の子に断られ続け、振られることには慣れている。だけど、彼女は特別だ。ここまで意気投合して僕の前ではずっと楽しそうに笑ってくれていた彼女を失うのは、どうしようもなく怖かった。
「安藤くんって」
「は、はいっ」
何を言われるのだろう。
ごめん。
友達のままがいい。
恋愛対象にはならないかな。
想像した言葉たちが脳内で暴れ回り、僕の心臓の動きをより激しくさせた。
逃げ出したい。さっきの告白はなしにして、「またね」って手を振ってお別れしたい。そうしたら明日にでも三回目のデートに誘う。彼女のことだから、きっとまた誘いに乗ってくれるに違いない。たとえそれが友達としての優しさでも、今ここで会えなくなるよりはずっといい——。
その場にじっとしているのがもう限界だった。「やっぱり……」と言ってついにその場を去ろうとしたとき。
「やっぱり、面白いね」
「え!?」
どういうことだ。「面白いって」!? 僕の告白が? 確かに大事な場面で吃ってしまう僕は他人から見れば「面白い」のかもしれない。
「心で考えてることが口に出てる。目の前のことに一生懸命って証拠だよね。私、そういう安藤くんのことが好きだよ」
「な……!」
さっきまで考えてたことが口に出ていただとぉぉぉぉ!
最悪だ。あまりに最悪だ……。やっぱりもうお婿にいけない……。
……て、今何か大事なことを彼女は言わなかったか?
「ごめん、もう一回言ってくれる?」
「考えてること口から出てて面白いってこと?」
「違う違う。そのあとの」
「ああ。私、安藤くんのことが好きだよ」
「……」
風の音や道路を走る車のエンジン音、ジーという虫の声がすべてなかったみたいに聞こえなくなった。僕は思わず彼女の顔を二
度見した。真っ直ぐな瞳をこちらに向けてくれる彼女はまさに天女のようだった。
分かった、これは夢だ。
試しに一回頬をつねってみる。
「イテテ……」
「何してるの?」
「い、いや。しっかり痛いな」
「大丈夫?」
彼女の右手が、僕の頬に触れた。ぎょっ、という変な声が口から漏れる。彼女が「なにそれ」と笑う。「なんだろうな〜」とつられて僕も笑う。もう訳がわからない。しかし心が有頂天になっていることだけは明白だった。
「……それで、僕たち付き合うってことでええんよね?」
「うん、そういうことだと思ってたよ」
「くー! ありがとう江坂さん! これからよろしく」
今度は喜びの声を隠すことすらできず、全力で口に出してしまった。江坂さんがにっこり微笑んでこちらこそよろしくね、と小さく頭を下げた。
京都の宵の景色は鴨川を薄暗く染めて、昼間に見る煌く水面とは別の妖艶さを漂わせている。三年半京都に住んであまり意識したことがなかったけれど、この時間の鴨川は誰にも言えない秘密を抱えているようで好きだ、と改めて思う。
江坂さんはそんな妖艶な鴨川を眺めていた。僕の恋人。今日から恋人になった人。意識すれば恥ずかしいし、恋人のできたことのなかった僕にとってはかなり違和感がある。でも、紛れもなく僕の彼女なんだ。
薄闇の中で目を閉じて、これからの生活を心に思い浮かべる。そこには幾筋もの明るい光が輝いていた。
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