第1章 モテない京大生の奮闘

01 安藤恭太 1


「さて、恭太きょうたくん。これで何勝何敗?」


 昨日、京阪の三条駅近くの路地裏で我を失いかけてから左京区の北白川にある下宿先までどうやって帰ってきたのか記憶がない。タクシーに乗った気もするし、ひたすら歩いた気もしている。今朝目が覚めると腕や足に擦り傷があったから、やっぱりふらふら歩いていろんなところにぶつけた説が濃厚か。


「うるさい。そんなの覚えてへん」


「それなら教えてあげるよ。今回ので0勝9敗だね」


「知ってるならいちいち聞くなよ」


「まあまあそうカッカせずに」


 親友の御手洗学みたらいまなぶはまるで実験の結果でも記録しているかのように、小さなメモ帳を開いてウンウンと納得している。そのメモには何が書いてあるんだ——と何度か聞いたことがあるが、「世界のあるゆる事象について」としか答えてくれない。なんだよそれ、相変わらず言ってることの半分も分からんやつだな、とうんざりする。


「それより恭太、昨日はどんな感じだったの?」


 学が僕の下宿先の部屋に置いてある多肉植物を愛でながら聞いてきた。確か去年僕の誕生日に彼がくれたプレゼント。当時片想いをしていた女の子にフラれ傷心していた僕を慰めるつもりだったらしい。しかし多肉植物は好きな女の子の代わりにはならんのだよ。


「聞かなくても大体分からへん?」


「分からないよ。他人に何かを伝えるには、言葉にしないと案外伝わらないものなんだ」


「くっそ面倒なやつめ……」


 京都大学に通う四回生の彼は、いつもネチネチと正論をぶつけてくる。彼は哲学オタクなのだが、なぜか文学部ではなく農学部に所属している。あ、そういえば入試の時に国語の配点が高いから文系は無理だって言ってたっけ。無駄に言葉をぶつけるのが好きなくせに、国語は苦手なんて変わったやつだ。


 彼はおかしい。しかしこの京都大学において、「おかしい」なんて人は山ほどいるからいい加減感覚が麻痺している。だが、やっぱりおかしい。大体、毎日甚平を来て大学に来るやつがいるか? しかも休みの日まで。茶髪の髪の毛にパーマをかけているところは横浜出身のお洒落さを匂わせているが、なぜ甚平なのか。シティボーイなのか和を嗜みたいのか分からない。


 そういう僕も同大学の四回生で、多分周りからは頭のおかしな人だと思われているのだろう。「単位を取得するのが楽だ」と有名な経済学部に入学してからは相当に浮かれていた。偏差値は70超え、名前も聞こえも良い京都大学経済学部に入ってから、身体中にみなぎる自信をどう処理したらいいのか分からなくなったものだ。


「で、どうだったんだい?」


「うっ……見ての通り完敗」


「そんなことは分かってる。何をどうやらかしたらそうなったのかってことさ」


「お前さ、デリカシーって言葉知らへんの?」


「もちろん知ってるさ。しかし次回のチャンスをものにするには反省が大事だって昔から言うだろう」


「……これだから理屈人間は」


 はあ、とため息をつきながら僕は昨日の彼女とのやりとりを洗いざらい話した。

なんだかんだでこうして話をしてしまうのは、どうしようもない恋愛弱者の僕を慰めてくれるのが御手洗学ただ一人だからだ。

 

 僕の話を聞いた彼は一言、


「これだから男子校出身は」


 と美しい毒を吐いた。


「くそっ結局それかよ」


「紛れもない事実として、原因を確認したまでだよ」


 いや、今のは絶対に悪意があるような言い方だったぞ。

僕は彼の猛毒を真正面から浴びないように、自分の中高生時代に思いを馳せていた。


 神戸でも名高い中高一貫校である進学校に通っていた。難しい中学受験を乗り越え、合格した時には鼻高々で、周りの友達の親たちに褒められる度に自己肯定感は高まる一方。まだ12歳やそこらの少年にとって、初めて自分で勝ち取った栄光だ。そうなるのも仕方あるまい。

 中学に入学してからも、超特急で進む授業に振り落とされまいと必死に勉強をしてなんとか学年でも上位の成績をキープした。あまりの厳しさに勉学の道を諦めて部活に邁進する生徒も多い中、僕は勉強こそ自分の将来を支えてくれると信じて疑わなかった。いくらスポーツができたところで、その道に進めるのは限られた人間だけだ。その点勉強はいい。一流大学に進み、一流企業に就職できれば僕の人生はバラ色だ。それまで絶対に諦めないぞ!

と、気持ち悪いぐらいの優等生ぶりを発揮していた。

 その甲斐あってか、僕の成績は一度も落ちることなく高校生となり、高校に上がってからも周囲からは一目置かれる存在となったのだ。

 何もかもが心地よい。先生からの褒め言葉も、周りの人間からの羨望のまなざしも。何にも代えがたい宝石の光だった。

 こうして中高時代を天馬のように駆け抜けていた僕だったが、ある時ふと自分と周囲の人間の違いに気づかされるようになった。


「なあ、知ってるか? 二組の有吉、彼女できたんやって」


「有吉が彼女?」


「そう。分からへんよなぁ、あんなやつが先に青春を掴むなんて」


「セイシュン……」


 青春。

 頭の中で漢字変換するのにちょっとだけ時間がかかった。

 僕に有吉の話を告げたその男の子は、僕のクラスメイトだった。正直そこまで頭は良くないのだが、交友関係だけは広くあらゆる人間の近況を把握していた。

 彼の話によると、有吉だけじゃなくてクラスの半分ほどの連中が彼女持ちだという。男子校なのに一体どこで……と聞いてみると、文化祭や他校と部活動の練習をする際に知り合って仲良くなっているそうだ。


「へ、へえ……」


 中学に入ってから勉強のことしか考えていなかった僕は、これまで自分より下に見ていた人間に、人生というレースにおいて置いてきぼりをくらっていることを突き付けられた気分だった。

それまで「彼女が欲しい」なんて感覚に陥ったこともない。好きな人ができたことすらなかった。でも、周りのやつらが「彼女」と楽しそうにしているのを見て初めて、僕は恋人のいない自分が惨めに思えてきたのだ。

だが、部活動に所属していなかった僕は他校の女子と交流する機会に恵まれることもなく、文化祭で女の子に話しかける勇気もなく。「彼女」という存在に憧れを抱きつつも、これまでの勉強一筋の高校生活を変えることができなかった。

そのうち「有名大学に入ればなんとかなる」という幻想に取り憑かれ、むしろ勉強だけに心血を注ぐことになった。


 だって、女の子って賢い人が好きって聞くし。

 ほら、昔から男は「三高」って言うだろう?

 高学歴・高身長・高収入!

 まあ、「高身長」の部分は当てはまらなくてもうどうしようもないが、それ以外はこれから掴み取れるはずだ、と本気で信じていた。

 というかいつの時代の価値観だよと今こそ当時の自分を馬鹿馬鹿しく思うが、この時は真剣だった。それ以外に、自分の境遇を慰める術をもっていなかったから。

そういうわけで、僕は中高時代一度も「青春」らしいことを体感する間もなく、無事に第一志望だった京都大学経済学部に合格したのだった。

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