第6話 濡れ衣
地上に出てきたからといって、いいことは何一つとしてなかった。
むしろさらに深い地獄に堕ちたと言えるかもしれない。
宮殿は、政界は、ひどいところだった。女王や大臣の欲望と憎悪が渦巻き、常に空気が澱んでいて息が苦しかった。
議会には招集されるが、私が口を開くことはほとんどなかった。女王の言うことも、家臣たちの言うことも共感できないことばかりだったが、私が反論したところで事態は何一つ変わらない。
王太子など名ばかり。ただの飾りでしかない。
ひどい大臣たちの中でも、特に嫌いなのが先日結婚した
「王太子殿下、紗那に気に食わないところがございましたら、いつでもおっしゃってください。私がすぐ紗那に言って改めさせますゆえ」
祝言の日の夜伽をすっぽかしたからか、左大臣は私の顔を見るなりすり寄ってきてそんなことを言った。針金のように痩せているのに肌艶だけはよく、黒々とした髪や髭も栄養が行き届いているように見える、気持ちの悪い男だった。
娘しかいない大臣にとって、王子が世継ぎになるという政変はまたとない好機だったに違いない。
さらに娘が子でも産めば自身の地位は確固たるものになる。
「気に食わないところなどない。あの日はただ体調が優れなかっただけだ」
私はそれだけ言い、いつもその男からすぐに離れる。
何もかもが鬱陶しかった。いっそもう一度地下室生活に戻りたいと思うことも何度もあった。しかしそんなことを言う度に
「
父上。
私がまだ幼い頃、宮殿から追放された父。
私は点久にそう説得される度、隠居生活に戻りたい強い気持ちを、その強さを遥かに上回る幼い頃から私の中に燃え続ける怒りで押し留めてきた。
***
その日、
彼らの視線を辿ると、その先にはいつも議会に参加しない人物たちの姿があった。
紗那、
何故彼女らがここに?
私が困惑していると、女王が玉座から高らかに言った。
「弦深。何をしている。議会を始めるぞ」
私は何も言わず、王太子の席に着いた。何故彼女らがいるのかはわからない。でも疑問を持ったところで、恐れたところで、意味がないのだ。
自分には何もできない。
「議会を始めます。まず、陛下より皆様へ、大切な通知がございます」
左大臣が尖った顎を上に突き上げながら、カラスさながらのキンキン声で喚いた。全く、何から何までいけすかない男だ。
女王は玉座に座り、肘をついて掌に顎を乗せたままの、とても議会中とは思えない姿勢のままゆったりと話し始めた。
「先日、日界の皇后が、皇女の輿入れのため
私にとってはそれは初耳だった。いったい世の中はどうなっているというのだろうか。月界の王女が殺され、日界の皇后までも。
「その刺客が、月界の戦士が先の戦いで使っていた仙陣と同じものを用いていたということで、我ら月界が疑われておる」
大臣たちが一斉にどよめいた。
「なんだと?」
「我々な訳があるか」
「何のためにそんなことを」
「第一我ら月界の戦士たちは、停戦の際に仙術を封じられたのだぞ」
確かに奇妙な話だと私も思った。日界の皇后を殺しても月界にはなんら旨味はないように思う。それに、月界の仙術は確かに10年前封じられたのだ。
しかし、その特徴を持った仙陣、仙術を使う際に月界の戦士たちが使用する陣を、月界の者以外が使えるわけがないということも、紛れもない事実。
「月界と日界の仲介者でもある仙族族長、尋太朗が先日月界にやって参り、その話をした。私は無論猛抗議した。そのようなことが起こるはずないのだからな。しかし月界の陣が事件現場に出てしまった以上、真犯人が出てくるまで我らは疑われ続けるであろう。そこで私はその疑いを少しでも弱めるため、ある提案をした」
大臣たちは息を呑んで女王の言葉を待った。大殿全体が凪いだ。
「最愛なる私の息子、そして月界の何よりもの宝、世継ぎである弦深を、人質として地界に遣わす、とな」
時が止まった。
やはり女王は怒っている。
美兎が姉を殺した実行犯で、その裏には私がいると思い込んでいるのだ。
美兎にも私にも、そんなことできるはずないのに。
だが私まで亡き者にすれば自分の血縁が途絶えるから冥界には送れない。
そこで今回の件を利用して、せめて私を自分から遠ざけようとしているのだろう。
愛する娘を奪ったであろう憎い私を。
静寂を破ったのは、左大臣のカラス声だった。
「で、ですが陛下、王太子に就任したばかりの弦深様を早々に地界にお送りするとは、いくらなんでも酷なのではないでしょうか、しかも、人質などと......」
女王は毅然と言い返した。
「我々は何もしていないのだ、仙族と日界が調査を進めたところで何も出てきまい。少なくとも、現時点で月界に暮らしている者たちは仙力を持っていないのだ。人質に出したところで弦深が危害を加えられることは決してない。それどころか、仙族は我々に無実の罪を着せたことで負い目を負うことになるだろう。かえって好都合じゃ」
左大臣は何も言えなくなった。しかし焦っているのは明らかだった。彼が同じくらいの権力を誇る右大臣よりも大きな顔をしていられるのも、私が宮殿にいればこそ。月界を出て人質生活をしている婿などいくら王太子でも意味がない。
それに私と紗那が離れれば当然世継ぎの誕生も遅れることになる。
そう思った矢先、女王の口から飛び出した言葉に私は驚愕した。
「弦深の正室である紗那と、側室二人も弦深に同行することをすでに承知してくれておる」
私は思わず三人の妃たちを見た。彼女たちはやはり初めて会った時同様三者三様の表情をしていたが、特に動揺している様子はない。
まさか、本当についてくるつもりなのか?
地界まで? 違う世界なんだぞ。
「異存のある者はいないな?」
女王は口を左右に引き伸ばし、細い目をさらに細め、蛇のような笑みを浮かべた。その微笑みに、異議を唱えられる者などいるはずがなかった。
***
議会終了後、私は自身の居所に三人の妃を招集した。
どうしても本人たちの口から本音を聞いておきたかった。
突然呼び出された三人は複雑そうな面持ちで入室して来たが、次女が茶を持ってくると少し気分がほぐれたのか柔らかい表情になった。
「突然呼び出してすまぬ。地界に赴くことについて、ちゃんと四人で話をしておきたいと思ってな」
きちんと三人に向き合うのは初めてのことだった。紗那は勝ち気で聡明そうな黒い目が特徴的で、長い黒髪を後頭部で結い上げた典型的な貴族の娘の風貌をしている。須和はかなり細くて気も弱そうで、顔のつくりも平凡な娘だ。
舞鶴は少し不思議な容姿をしていた。彼女の持つ月界の民の特徴といえば肌が白いところと衣装くらいなもので、少し赤っぽい髪や、瓜型の大きな目や、高い鼻など、風変わりなところが目立つ娘だ。
そして彼女は、なぜか両手に薄紅色の手袋をはめていた。病だろうか?
「地界は全くの別世界だ。どのような場所なのか私には見当もつかぬし、どのくらいの期間、そこに留まることになるかも現時点では不明だ。そなたたちには、よく考えてほしい。本当に私に同行する選択をしていいのか、その選択が今後の自分の身にどのような影響を及ぼすのか……」
私が言うと、間髪置かず紗那が言った。
「弦深様。例え弦深様が私の動向を拒んだとしても、私は必ず、弦深様と一緒に地界へ
見た目と同じく、勝ち気な芯のある声だな、という感想と、なぜ降る、という不思議な言い方をするのだろう、という疑問が同時に湧いた。
「私は弦深様の正室です。そこがどんな場所でも、どこまでもついていくのは、当たり前のことですので」
そう言うと、彼女はこれ以上議論することはない、とでも言わんばかりに口を固く引き結んだ。
「あのう……」
次は須和が、遠慮がちに声を出した。静かな場所でなかったら確実に聞こえなさそうな、弱々しい声だった。
「月界に残る選択をしたとして、私はどこに行けばいいのですか……。弦深様の側室になってしまった今、弦深様のいない後宮にただの側室が残っていられるとも思えませんし、それに……後宮から出て行っても、私には行く所がありません」
行く所がない?
一体それはどう言う意味だ?
私が考えを巡らせていると、今度は舞鶴が口を開いた。
「弦深様は残酷なお方ですね」
落ち着き払った、しかしどこか艶のあるその声は、たった一言で私の心を強く締め付けた。
「私や須和さんに、選択の余地などございません。左大臣の父上という大きな後ろ盾がある紗那様なら話は別ですが、私たちのような後宮でも位の低い者たちの大半は身よりもなく、特にこの女系社会の中では、後宮に女など、元々必要ないのですよ。あなたがいなければ、私たちは無意味な人間なのです」
そうか……。
考えが及ばなかった。地下室暮らしを続けてきた足りない頭ではやはり……。だがいつまでもそれを言い訳にしてはいられない。
「口が過ぎますよ、舞鶴。弦深様に向かって」
ぴしゃりと言い放ったのは紗那だった。
「弦深様、お気になさらないでください。弦深様が私たちの身を案じてくださっていること、私はよく理解しております」
紗那は恭しく頭を下げた。
そうか。この三人の運命もまた、私の手に委ねられているのだ。私がしっかりしなければ。
遠い日を思い出した。父が、この宮殿を去ることになった日を。
あの悲劇を、繰り返してはいけない。
「ありがとう、紗那。みんなの気持ちはわかった。無責任なことを言って、すまなかった。四人で地界へ行こう。そして、必ず四人揃って帰ってこよう。三人のことは、私が必ず守る」
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